昨年の6月に訪ねた浜松の奥山方広寺です。
1371年(建徳2年)この地の豪族奥山朝藤の開基により、後醍醐天皇の皇子・無文元選を開山として創建された寺です。
無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)
元亨3年(1323)、後醍醐天皇の皇子として誕生。
父・後醍醐天皇が崩御した翌年、暦応3年(1340)、18歳の時、京都の建仁寺において出家。
貞和元年(1345)、元王朝末期の中国に渡り、修行を積み重ね、 観応元年(1350)日本に帰国。
応安4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤の招きにより、方広寺を開きました。
そして明徳元年(1390)68歳で方広寺で亡くなられました。
1587年(天正15年)後陽成天皇の勅願所となり、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられました。
門前通り
門前には、お土産物屋さん、油揚げ屋さん、おそば屋さんなどがあります。
黒門
山門
山門から本堂に続く道には五百羅漢さんが!
応永8年(1401年)に建立された県下最古の木造建築物の七尊菩薩堂(国指定文化財)
三重塔
勅使門
半僧坊真殿
半僧坊大権現をお祀りしています。
無文元選禅師が中国から帰る途中、台風に遭い、難破しそうになりました。
その時、一異人が船に姿を現して、「開山禅師が正法を日本に伝え広めるために、必ず無事に日本にお送りします」といって、日本に帰国させました。
また無文元選禅師が奥山六郎次郎朝藤に招かれて方広寺に到着したとき、再び現れ、禅師の弟子となることを願い出て許され、禅師の身辺に仕えて、修行したといわれます。
その姿が僧のようであって、完全な僧の姿をしておらなかったので、禅師から「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といわれ、「半僧坊」と名付けられたそうです。
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1371年(建徳2年)この地の豪族奥山朝藤の開基により、後醍醐天皇の皇子・無文元選を開山として創建された寺です。
無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)
元亨3年(1323)、後醍醐天皇の皇子として誕生。
父・後醍醐天皇が崩御した翌年、暦応3年(1340)、18歳の時、京都の建仁寺において出家。
貞和元年(1345)、元王朝末期の中国に渡り、修行を積み重ね、 観応元年(1350)日本に帰国。
応安4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤の招きにより、方広寺を開きました。
そして明徳元年(1390)68歳で方広寺で亡くなられました。
1587年(天正15年)後陽成天皇の勅願所となり、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられました。
門前通り
門前には、お土産物屋さん、油揚げ屋さん、おそば屋さんなどがあります。
黒門
山門
山門から本堂に続く道には五百羅漢さんが!
応永8年(1401年)に建立された県下最古の木造建築物の七尊菩薩堂(国指定文化財)
三重塔
勅使門
半僧坊真殿
半僧坊大権現をお祀りしています。
無文元選禅師が中国から帰る途中、台風に遭い、難破しそうになりました。
その時、一異人が船に姿を現して、「開山禅師が正法を日本に伝え広めるために、必ず無事に日本にお送りします」といって、日本に帰国させました。
また無文元選禅師が奥山六郎次郎朝藤に招かれて方広寺に到着したとき、再び現れ、禅師の弟子となることを願い出て許され、禅師の身辺に仕えて、修行したといわれます。
その姿が僧のようであって、完全な僧の姿をしておらなかったので、禅師から「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といわれ、「半僧坊」と名付けられたそうです。
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