日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

俵藤太のムカデ退治伝説(3)御上神社

2013-01-27 | 神社
御上神社(みかみじんじゃ)は、滋賀県野洲市にある神社です。



近江富士の別名もある三上山の山麓に鎮座し、三上山を神体山として祀る神社です。

武士の崇敬が篤く、源頼朝が建久元年(1190年)、足利尊氏が建武3年(1336年)、豊臣秀吉が天正14年(1586年)にそれぞれ神領を寄進しています。

楼門(重要文化財)



御上神社

一、御鎮座地 滋賀県野洲市三上838
一、御祭神  天之御影神(天照大神の御孫)
一、由緒
 当神社の社記によると、天之御影神は今から2千2百余年前の孝霊天皇6年6月18日三上山に御降臨になったので、神孫の御神祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた。
 降って養老2年、勅命によって現在の地に社殿を造営して遷祀された。
 爾来、朝野の崇敬あつく、清和天皇の御代に正一位、醍醐天皇の御代に明社大社、次に圓融天皇の御代には勅願所と定められ四海大平の祈願を行われた。
 武家政治になっても、源頼朝を始め各武将も尊崇深く神領を寄進奉った。
 明治9年郷社に、大正2年県社に、大正13年には官幣中社に御列格遊ばされたが、昭和22年2月宗教法人になり神社本庁所属の別表社となった。
一、御神徳
 御祭神天之御影神は御神徳高く霊験あらたかで、忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰され、当地方は昔から神体山三上山を中心に忌火郷、悠紀郷、むかで退治の神話で有名で、山麓からは24個の銅鐸が発掘され、5~6世紀 の古墳群が現存している。
一、主なる祭日
 新年祭 2月17日
 春季例大祭 5月第3日曜日
 影向祭(山上祭) 旧6月18日
 秋期古例祭(ずいき祭) 体育の日
 神衣祭 忌火祭二の甲に近い土曜日もしくは日曜日
 新嘗祭 11月23日
一、文化財
御本殿(国宝) 拝殿、楼門、若宮社(各国指定重文) 三宮(県指定)
狛犬(重文) 角力人形(県指定) ずいき祭(国指定重要無形文化財)
(案内板より)

三上山は藤原秀郷(俵藤太)のムカデ退治伝説の舞台です。



三上山のムカデ退治



朱雀天皇の御代に田原藤太秀郷という剛勇の者が、ある日瀬田の橋を渡ろうとすると大蛇が橋上に横たわっていたが、田原藤太秀郷は臆することなく大蛇を踏付け通りすぎた。
その晩大蛇は小男に化け、田原藤太秀郷の剛勇を褒め称え、『吾は竜宮に住む竜神であるが、三上山を七巻き半巻いている大ムカデに悩まされているから助けて欲しい』と頼んだ。
田原藤太秀郷は承諾し、瀬田の唐橋から矢を放ち、一矢は射損じた。二矢目は鏃に唾を付け放ち大ムカデを射止めた。
竜神は大層喜び、御礼として減ることのない米俵や使っても無くならない反物や宝物を贈った。この米俵から田原藤太秀郷の名前を俵藤太と改めた。
(御上神社HPより)



拝殿(重要文化財)



本殿(国宝)





約700年前のもので、神社・仏堂・御殿の3様式が合成された御上造とよばれる建築様式です。

三宮神社



本殿に向かって右手に鎮座。社殿は室町時代の作、一間社流造檜皮葺。滋賀県指定文化財。

若宮神社



本殿向かって左手に鎮座。社殿は鎌倉時代の作、一間社流造檜皮葺。国の重要文化財





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俵藤太のムカデ退治伝説(2)雲住寺

2013-01-25 | 史跡


龍王宮秀郷社の隣にある雲住寺は、俵藤太(藤原秀郷) の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっています。



 

百足供養堂



毎年10月の第3日曜に俵藤太と百足供養会が催されるそうです。

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俵藤太のムカデ退治伝説(1)龍宮秀郷社

2013-01-21 | 神社
瀬田の唐橋の東岸にある龍宮秀郷社には、俵藤太のムカデ退治伝説が伝わっています。



瀬田の唐橋には、平安時代、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(俵藤太)が、唐橋の川底にある竜宮の乙姫の願いで、大百足を退治したという伝説があり、当社は、その秀郷と乙姫の霊を祀る神社です。





右が「龍王宮」、左が「秀郷社」



むかしむかし、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々が橋を渡れなくなっていました。そこを通りかかった俵藤太は平気で大蛇を踏みつけて渡ってしまいました。



その夜、藤太が踏みつけた大蛇が美しい娘に化けて藤太を訪ねました。
娘は琵琶湖に住む龍神一族の乙姫で、龍神一族が三上山の百足に苦しめられているので、藤太に百足を退治して欲しいと懇願しました。

藤太は、剣と弓矢を携えて三上山に向かうと、山を7巻き半する大百足が現れました。藤太は、矢を放ちましたが、大百足には通じす、最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して放つとようやく大百足を退治することができました。

藤太は乙姫から御礼として、米の尽きることのない俵、三井寺の名鐘などの宝物を贈られました。
また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといいます。

この伝説は色々なバージョンがあるようです。

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山岡道阿弥の眠る知恩院

2013-01-13 | 史跡
山岡道阿弥が眠る京都の知恩院の墓所を訪ねました。

墓所は、徳川家の千姫の墓よりもさらに高いところにあり、探しにくいと聞いていたので、知恩院境内の信重院の方に案内していただきました。

山岡道阿弥が伏見城から寄進した知恩院黒門(京都府指定文化財)



三門



三門をくぐり、急な石段を上りきると、御影堂がありますが、現在修復中です。



御影堂



除夜の鐘で有名な鐘楼



方丈庭園











ここまで来ると、ずいぶん上まで登って来たかがこの景色を見て実感できます。







法然上人の御廟





千姫の墓



千姫は、 徳川秀忠の長女で、幼くして、豊臣秀頼の元へ嫁ぎますが、大阪の陣により徳川家の元へ保護されました。その後、姫路城主 本田忠政の嫡男 忠刻のもとへ再嫁しますが、忠刻らの病死により、弟の三代将軍 徳川家光の元へ戻ります。千姫は出家して天樹院と号し、江戸の竹田御殿で余生を過ごしたといわれています。

山岡道阿弥がねむる墓所は、千姫の墓を見下ろす東山の小高い場所にあります。



道阿弥の墓は、信重院により、手厚く供養されており、道阿弥が三井寺・光浄院とともに、知恩院にも縁のある人物であったかを知ることができました。

帰りはひたすら階段を降りて来ます。





山岡道阿弥陀(景友)

天文9年(1540年)、守護六角氏家臣の瀬田城主・山岡景之の四男として生まれる。山岡家はもともと、甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で、栗太郡、甲賀郡など湖南地方に広い勢力を築きあげていた。

道阿弥は、はじめ三井寺に入り、三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号す。

第15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられたが、元亀3年(1572年)、義昭の命で還俗し山岡景友と名乗り、幕府より山城半国の守護に任じられる。

織田信長と足利義昭が不和となり、信長と義昭の戦いが始まると、景友は義昭に従い近江石山城に立て籠もって抗戦。元亀4年(1573年)柴田勝家に攻められ、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で、信長が死去すると、瀬田橋に火を放ち、兄と共に安土城に向かう明智軍を防ぎ、その功により秀吉のお咄衆として仕えている。
秀吉から伏見城下に屋敷を拝領した場所は、現在の近鉄「桃山御陵前駅」周辺に当たり、今も「道阿弥町」という名前で呼ばれている。

その後、兄たちが勝家に与し羽柴秀吉により改易されたため、景友が山岡氏惣領となり甲賀における権利の一部を継承した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、佐久間信栄に従って伊勢国峰城を攻めたが、程なく天下人に台頭した秀吉の家臣となり、領地を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。
なお、領地の関係で大津城主の京極高次と親しかった。

その後、再び剃髪して道阿弥と号した。

天正20年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城に在陣した。

秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢長島城の守備や伊勢桑名城・近江水口城の攻略に功績を挙げ、戦後高野山に籠った高次の説得にも尽力した。これにより近江国内で9,000石と甲賀組を与えられた。

またその後、石高を加増されて常陸古渡1万石の大名となる。

慶長8年(1603年)に死去。享年64。

道阿弥の子孫は江戸時代になっても幕府に仕え、将軍の側近である御書院番などを勤め明治維新を迎えている。
(Wikipedia、三井寺HPより)

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三井寺(園城寺)光浄院

2013-01-10 | 建築物
今回、三井寺を訪ねたかったのは、私の母方の先祖ゆかりの光浄院の見学がしたかったからです。

こちらは、普段は一般公開されていませんが、秋の特別公開で、3人以上事前予約で拝観できるとのことで、一か月前に予約を済ませておきました。

参道





中は一切撮影禁止なので、外側からだけの撮影しかしていません。







光浄院客殿(国宝)





光浄院は、室町時代、山岡資広によって建立され、現在の光浄院客殿は、かつて光浄院住持を務めていた山岡道阿弥が 慶長六年に再興したものです。

山内で最も格式の高い子院で、その外郭には、城郭を思わせる石垣が見られます。





一之間の付書院が広縁に張り出し、付書院・出書院という形式です。

狩野山楽による障壁画は、重要文化財に指定されています。

光浄院庭園(名勝、史跡 ・室町時代)



池泉観賞式の庭園は、客殿と一体化した構成をもっており、客殿南縁の柱が護岸の石の上に立つ特異な形態をしています。

池には亀島や夜泊石風の浮石、山畔には枯滝の石組みを組み、蓬莱庭園を表しています。

拝観の際、いただいたポストカードの画像です。

光浄院客殿



光浄院障壁画 一之間床貼付絵



境内で見つけた冬桜



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