安祥城の近くの住宅地の中に、本多忠勝の祖父と父の墓碑があります。
墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)にあり、戦死地の安城町赤塚にも墓碑が建てられています。
まずは、本多忠勝の父・本多忠高の墓碑から紹介します。
市指定史跡 本多忠高墓碑
天文九年(1540)尾張の織田信秀(織田信長の父)が、安城城(安祥城)を奪い取ります。その後、天文十八年(1549)までの約10年間、安城城争奪戦、いわゆる『安城合戦』が繰り返されました。
天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)が没しました。同年、今川・松平軍は太原崇孚(たいげん そうふ)雪斎を総大将とし、織田軍が占領する安城城を攻撃しました(第3次安城合戦)。先鋒となった松平軍の主将・本多忠高(本多忠勝の父)は、安城城代・織田信広(信長の兄)に追い迫りましたが、城の本丸近くまで深入りしたため、この場所で敵の矢に当たり戦死しました。
寛政九年(1797)、岡崎藩主・本多忠顕(ただあき)により、忠高は戦死した地に墓碑が建てられました。さらに同十一年(1799)、妙源寺(岡崎市)に葬られていた忠高の遺骨を安城に改葬したとされます。
忠高は天分十四年(1545)の安城清畷(せいなわて)の合戦(第2次安城合戦)で戦死した本多忠豊の嫡子であり、本多父子の墓は徳川に功績があった者だけに許される大亀の墓碑をもちいて築かれ、大学頭林衡(だいがくのかみ はやしたいら)の撰文で顕彰されています。忠豊の墓碑は、安城町赤塚の住宅地の中に建てられています。
安城市教育委員会
本多 忠高(ほんだ ただたか)は、戦国時代の三河国の武将。松平氏の家臣。子に本多忠勝。
本多忠豊の長男として誕生。弟に忠真がいる。
父同様、松平清康や松平広忠に仕えた。天文16年(1547年)、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱を起こした際にも出陣し、また、翌年にも、尾張国の織田信秀が三河国に侵攻すると、今川氏の太原雪斎と広忠は小豆坂にて迎撃し、忠高もそれに従い織田軍と戦い、勝利を収めた(小豆坂の戦い)。
しかし、天文18年(1549年)3月、主君・広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺した。今川氏当主・今川義元は三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れ、腹心の太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点であった安祥城を攻めた(第三次安城合戦)。守将の織田信広は城をよく守ったため、忠高は大久保忠俊らとともに昼夜たがわず攻めたてたが、敵の矢に眉間を貫かれ討死した。
墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)。戦死地の安城市安城町赤塚(安城市歴史博物館横・大乗寺の境内)にも墓碑が建てられている。
(Wikipediaより)