日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

橋本左内寓居跡と京都守護職屋敷正門

2014-08-30 | 建築物
京都国際ホテルの前には、「橋本左内寓居跡」の石碑もあります。





橋本左内(さない)は福井藩士で幕末の志士。安政5年(1858)2月から4月まで、この地にあった福井藩邸に居住して、活躍した。  左内の号は景岳(けいがく)。福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、医学を学び、藩主松平慶永(よしなが)に認められて藩学明道館の幹事となった。  1857年の藩政改革には由利公正らと手腕を振るった。折から幕府の将軍継嗣(けいし)問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を立てる運動を展開。左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎又は桃井伊織の変名の下に、ここを根拠にして盛んに活躍した。しかし、井伊大老の就任によってこの運動は失敗し、それのみか、左内は牢舎に入れられ、1859年安政の大獄によって死刑に処せられた。時に年26才。

そして、京都守護職屋敷正門も残されています。

肝心な門の場所がわからないので、ホテルの人に尋ねてみると、裏の駐車場にあるとのこと。
ロビーを通って裏側に出ると、京都守護職屋敷から移築された門がありました。



ホテルの一部として使われているのも、歴史を残すという点で、良いことですね。
ただ、ここにも駒札が欲しいものです。

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京都・福井藩邸跡

2014-08-25 | 史跡

二条城の向かい、京都国際ホテル前に残る福井藩邸跡です。





此付近福井藩邸跡
 
 この油小路二条下る西側(現京都国際ホテル)の一帯には、江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の「京大絵図」に描かれている。
藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった所である。
 福井藩は、慶長5年(1600)、徳川家康の二男結城秀康が封ぜられたのに始まる親藩の雄藩で、石高は最大68万石、江戸中期以後は32万石。幕末に松平慶永が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに江戸幕府政治の改革に乗り出し、更に、公武合体運動を進めて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たした。  

京都市(駒札より)


二条城見学の帰り、京都国際ホテルでランチをする際、この駒札に気付きました。

観光客の多い二条城周辺は、ホテルが多いですね。

この辺りが藩邸だったとは・・・

国際文化観光都市として発展した京都の街並みは随分変わりましたね。

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大雲院

2014-08-16 | 織田信長
大雲院は、京都市東山区にある寺院で、通常は非公開。

ねねの道から円山公園に行く途中にあります。





1587年(天正15年)、正親町天皇の命により、貞安が織田信忠の菩提を弔うため、信忠が討たれた二条御所跡に創建したのに始まり、その後、秀吉の政策により寺町四条(下京区)に移転。



その後、1972年(昭和47年)に、島屋京都店増床に伴い、東山区の大倉喜八郎旧邸を買得して現在地に移転。



境内墓地には織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。



五右衛門については、処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁によるのだそう。

また、大雲院という寺院名は、信忠の法名からとっているそうです。

以下、豊臣秀次の供養塔について、京都新聞の記事から抜粋です。

京都市下京区の河原町通四条下ルの発掘調査で、豊臣秀吉の甥(おい)、豊臣秀次(1568~1595年)の供養塔の一部が21日までに見つかった。調査地は、安土桃山時代に寺院「大雲院」が移された場所にあたり、非業の最期を遂げた関白・秀次と大雲院の関連を示す物証となりそうだ。

 調査した民間発掘調査会社のイビソク関西支店(伏見区)が発表した。見つかったのは五輪塔下の基礎部分で幅23センチ、高さ16センチ。鞍馬産の石に「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」の文字が刻まれていた。「道意」は秀次の高野山に入った際の法号で、年号と月日は秀次が切腹した日だった。

 現在、大雲院は祇園にあるが、元来は織田信長の子、信忠が「本能寺の変」の際に自害した二条御所跡に建立された。その後、秀吉の寺町整備で今回の調査地に移された。大雲院は秀次の切腹後、三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献があり、秀次との関係が考えられていた。(2014年8月22日)


記事全文はコチラ
   ↓↓↓

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140821000106


本堂の背後に山鉾を模した祇園閣がそびえています。



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黒田家ゆかりの天真寺

2014-08-09 | 仏閣
東京メトロ日比谷線広尾駅から徒歩10分。

寛文元年(1661年)創建された天真寺は、黒田忠之の長男・黒田長政の孫にあたる黒田光之が母親のために建立したといわれています。 









天真寺には、10代藩主・黒田斉清の墓があります。



黒田斉清

蘭癖大名のひとりとして知られる。
第9代藩主・黒田斉隆の長男。母は側室・真妙院(渡辺忠蔵の養女)。一説に黒田長舒の子。正室は二条治孝の娘・宝林院。側室は河合氏。子は純(黒田長溥正室)。官位は従四位下、左近衛権少将、備前守。幼名は松次郎。初名は長順で、藩主就任時に伯父で将軍の徳川家斉から偏諱を賜って斉清に改名した。通称は官兵衛。号は楽善堂。
寛政7年(1795年)2月6日に誕生し、同年10月6日に父・斉隆の死去により家督を相続した。2月に誕生したのは女児であり、支藩である秋月藩主黒田長舒の四男・斉清とその女児とを交換して当主としたともされる。 文化元年(1804年)、ロシア帝国の使節としてニコライ・レザノフが長崎に来航する。 文化5年8月(1808年10月)、長崎港にイギリス海軍の軍艦が侵入するフェートン号事件が発生した。佐賀藩が長崎警固の兵力を無断に減らしていたため処罰を受け、急遽、福岡藩が佐賀藩の分担分も警固することになり、費用負担が増大した。文政2年(1819年)、蘭学者で藩士の安部龍平を直礼城代組に抜擢し、長崎詰役とした。文政5年(1822年)、斉清は若年ながら眼病を患い、薩摩藩主島津重豪の九男斉溥(後の長溥)を婿養子という形で迎え嗣子とした。 (Wikipediaより)

この黒田斉清、官兵衛の死後200年経って、衰勢してしまった黒田家と福岡藩を何とか再生しようと、目を付けたのが「黒田二十四騎図」でした。
江戸時代中期以降、多くの二十四騎図が制作され、普及していきましたが、ほとんどは想像に基づいて描かれていたため、

24騎馬図


10代藩主・黒田斉清は、世間に流布している「黒田二十四騎図」を正しく書き直し、藩再生のシンボルを作ることで、藩の再生を考えます。
黒田二十四騎図とは、武功をもって官兵衛・長政父子を支えた24名の功臣のを一枚の絵に描いたものです。

斉清は、絵の制作を御用絵師・尾方洞谷(どうこく)に依頼しました。
洞谷は、24騎の子孫の家を訪ね歩き、兜の色、甲冑の文様、飾りの素材を調べ、伝記から顔形を描写し、24騎図の制作に10年もの年月を費やしました。

こうして描かれたのが、「黒田二十四騎画帖」(福岡博物館所蔵)で、その後の黒田二十四騎図のもととなり、尾形洞谷の孫にあたる尾形探香(たんこう)も「黒田二十四騎図」(福岡博物館所蔵)を描いています。

尾形探香の二十四騎図


http://himeji-kanbee.jp/intro/24.html

後で知ったのですが、天真寺には5代藩主・黒田宣政の墓もあるそうです。

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