日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

備後護国神社

2016-03-24 | 神社
備後護国神社は、明治元年、福山藩主・阿部正桓が、石見益田の役と箱館戦争での戦死者の霊を祀るために、旧深津郡吉津村に招魂社を創立したのに始まったとされています。




祭神は備後国出身の護国の英霊、大彦命・武沼河別命・豊幹別命および阿部正弘をはじめとする歴代備後福山藩主。







本殿


宮本武蔵が座ったとされる腰掛石




武蔵は巌流島の決闘ののち、大坂の役において、俗説では豊臣方として参戦したとされているが、文献では徳川方である水野勝成の陣において嫡子の水野勝重付として名前が記されている。
そんな武蔵と水野家との関係を思い起こさせるのが腰掛石で伝承によれば寛永年間に武蔵が福山を訪問したとき勝成の従兄弟で水野家二番家老である中山将監の屋敷で饗宴が催され庭園で腰を掛けた石がこれであるという。(Wikipediaより)


帰りはこの急な階段を降りてホテルへ帰りました。




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三蔵稲荷神社(福山)

2016-03-17 | 神社

福山城北側にある三蔵稲荷神社は、水野勝成が福山城を築城する時に、守護神として祀った神社です。

祭神は宇賀魂大神・猿田彦大神・大宮女大神

勝成公は二十一歳の時、三河国刈屋の城より放浪と武者修行の旅に出ました。その際に、祖父、忠政公が京都伏見稲荷大社より受けられたご神体を授かりました。勝成公は、四国・九州での戦においてもご神体を肌身離さず持ち続け、お稲荷さんのご加護を受けることができました。元和五年(1619年)、この福山の地に城を築き、城内の北側(鬼門)に備後の国の守護神としてお祀りしたのが、三蔵稲荷神社の起源です。以来、代々の福山城主が直祭し、藩内には多くのご分社がありました。
(三蔵神社HPより)

境内には本殿、能舞台があり、毎年ミス三蔵稲荷コンテストが行われることでも有名なのだそう。

まさか狐に似た美人じゃないでしょうね~(^_^;)

本殿


能舞台





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福山城(2)

2016-03-02 | 
福山城博物館


福山城博物館は、1966年(昭和41年)に再建された天守閣の中にあります。

近現代から原始古代までの福山の歴史と文化、福山藩や藩主に関する書画・刀剣・甲冑の他,草戸千軒町遺跡や原始・古代の出土品などを展示しています。





中の展示物は撮影禁止なので、展望台からの眺めをどうぞ!





伏見櫓


現存する望楼型の櫓。
慶長6年(1601年)前後に建てられたと推定される伏見城松の丸の東櫓を元和6年(1620年)に移築したもので、昭和28年(1953年)の解体修理の際に2階の梁から「松ノ丸ノ東やくら」との墨書が発見され伏見城から移築された伝承を持つ櫓の中で唯一物証により移築が裏付けられています。

藩政時代には武器庫として用いられたといわれ、明治時代になると伏見櫓から続く多聞櫓は撤去され、内部はビリヤード場や骨董品売場として用いられるようになりました。
昭和20年(1845年)の空襲の火災を免れた福山城で唯一の現存する櫓。

阿部正弘像




阿部正弘之像

  太平洋の波高く、幕末内外多難の時に際し、老中筆頭として国政を総覧し、近世幕藩
  体制における鎖国の旧弊を断って日米親和の条約を結び、開国への道を求め
  近代国家への扉を叩く。

  阿部正弘は福山藩阿部家七代の藩主にして弱冠25歳で閣老に任じ、爾来10有4年
  その開明的な政策を推進し、国政を整えもって国外に対応せり。福山藩主としては
  庶民の中に人材を登用し、藩政を改革し教育に明日の世代の形成を託して藩校誠之館を
  開き、進んで西欧の学術をも取り入れ、その後の福山文化の発展に貢献す。

  市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び
  明日への躍進を誓う。        昭和53年4月建之


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福山城(1)

2016-03-02 | 
福山駅に降り立つと、駅前に福山城の石垣がそびえたっています。



福山城は、1622年(元和8年)水野勝成が備後10万石の領主となって築いたお城です。

水野勝成像




水野勝成之像

  瀬戸内海の中央、福山湾岸に河口を開く芦田川。その広漠たる干潟を埋めて
  城下町とし、ここに城を定む。
  水野勝成は元和5年(1619)備後10万石の藩主に封じられるやこの町を開き
  福山と命名す。

  移封以来民政に意を用い、広く領内に池溝を開削し、干拓を行い耕地の拡大に努め
  芦田川を改修し水道を穿ち藩政の安泰に力を尽す。また社寺を復興し、文化の昴揚を
  図り今日の福山の礎を築く。
  
  市制60周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び
  明日への躍進を誓う。     昭和53年4月建之


形式は輪郭式の平山城で、かつては2重の堀、五重の天守と7基の三重櫓を有する大規模な城郭であったそうです。
昭和20年8月、空襲により天守閣などは消滅しましたが、現存する伏見櫓・筋鉄御門は国の重要文化財に指定されています。



筋鉄御門


本丸の正門に位置する櫓門。「筋鉄」の名称のとおり、1階の扉や門柱に筋状の鉄板が打ち付けられています。

鏡櫓




月見櫓


再建。伏見城の櫓を移築したといわれ、2層目には廻縁があり展望台の機能を持っていました。
明治初期に取り壊され、跡地には明治21年(1888年)「葦陽館」と呼ばれる貸会場が建てられましたが、福山大空襲で焼失。現在の月見櫓は昭和41年(1966年)に天守と同時に鉄筋コンクリートで再建されたものです。



御湯殿




再建。表居間と共に伏見城から移築されたといわれる建物で、懸造の座敷(展望室)と湯殿(蒸風呂)からなり、かつては本丸御殿の大書院と廊下で繋げられていました。
上段の窓から城下南側を一望できるようになっていたそうです。
この建物は大正時代ごろから「御湯殿」と呼ばれるようにうなりました。



鐘櫓


一部現存。福山市指定重要文化財(鐘楼部のみ)。
2層2階建てで、築城時に建てられました。
近世城郭で唯一本丸内に位置する鐘櫓とされ、往時は鐘突堂と呼ばれ、御台所門と火灯櫓とを結ぶ多聞櫓(枡形門)に設置された鐘楼でしたが、廃城後に取り壊されました。




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