日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

瑞龍寺 家康の正室・旭姫の墓

2024-12-12 | 徳川家康

静岡浅間神社から5分ほど北に行ったところに瑞龍寺というお寺があります。





1560年(永禄3年)、能屋梵藝によって開山され、徳川家康が居城を駿府城に定めた際に寺領が与えられました。



天下取りを目指した豊臣秀吉は、家康と同盟関係を築くため、天正1586(14)年、自分の妹である旭姫を、夫の佐治日向守(さじひゅうがのかみ)離縁させ、 築山御前の死後、正室を持たなかった家康に嫁がせました。



同年、旭姫は、家康と共に浜松城から完成した駿府城に移り、駿河御前と呼ばれました。

旭姫は、1588(天正16)年に自分の母である大政所の病気見舞いのために上洛しますが、1590(天正)18年京都・聚楽第で 病気のため、48歳で亡くなります。

そして、京都の東福寺南明院に葬られ、 この後、家康は、東福寺から遺骨を分骨してもらい、瑞龍寺にも旭姫の供養塔を建てました。







その時の法名「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」(ずいりゅうじでんこうしつそうぎょくだいぜんじょうに)から、当寺は瑞龍寺という名になったそうです。

境内にはその他、芭蕉の句碑・時雨塚やキリシタン灯篭などがあります。



芭蕉の句碑・時雨塚




キリシタン灯篭


また、寺には、家康が寄進したという十六羅漢像や釈迦三尊像のほか、旭姫の遺品などが収蔵されています。

 
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家康ゆかりの大楠のある若宮八幡宮

2024-11-29 | 徳川家康

駿府城公園から臨済寺へ向かう途中にある若宮八幡宮

こちらもも徳川家康ゆかりの神社として知られています。

境内の大楠は、樹齢1000年以上と伝えられています。

家康は、鷹狩りの道中に度々ここに立ち寄り、大楠の木陰で休息をとったと伝えられています。

 

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竹千代ゆかりの小梳神社

2024-11-18 | 徳川家康

静岡市葵区の紺屋町に鎮座する小梳神社(おぐしじんじゃ)は、奈良時代以前の由緒をもつ古社です。



静岡駅からわずか200m。繁華街の一角にあります。

竹千代(後の徳川家康)が人質として駿府に来たとき、まずはこの神社に立ち寄り、服装を改め武運長久の祈願をしてから、今川義元と対面したと伝えられています。

その後、徳川家康が天下を統一し駿府城にとどまるにあたり、代々徳川家の守り神である大己貴命と天照大神の2柱を合祀して、駿府城の守護神として尊崇されてきました。

平安時代初期のころから少将井神社とも呼ばれました。

小梳神社

小梳神社は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた。
建速須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命、天照皇大神宮が祭神である。
徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神社を城内に残したが、寛永年中(1624-43)には、城内から移転し、再度、延宝3年(1675)に現在の所に移された。
家康は、今川義元の人質として駿府にいた時、小梳神社境内でよく遊んだ思い出の場所として、この神社を大切にしたという。「なをりその記」によると、家康が人質として駿府に来た時、まず、この神社に立寄り、服装を改め、武運長久の祈願をして、その後に今川義元と対面したと伝えられている。当時、造営に当った城代は、松平左近大夫で、延宝4年6月、神輿渡御の神事がはじまった。例祭日の7月27日、この風習は、今なお、氏子の間に引継がれ、隔年に大神輿が市内を巡幸する姿は、夏の風物詩の一つとなっている。
明治以来、再三にわたる火災の被害に会ったが、その都度造営されるほど、地域住民が寄せる当神社の信仰には根強いものがある。
なお、境内には、平田篤胤選文による駿府の国学者新庄道雄の碑がある。
昭和60年1月     静岡市



祭神は建速須佐之男命、奇稲田姫命。


境内に湧き出る水は江戸時代から「霊水・少将の井」と呼ばれ、病気平癒・健康増進の霊水として知られ、多くの人がお水取に訪れています。



霊水・少将の井


宗像神社




稲荷神社

新庄道雄の碑

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於愛の方(西郷局)の菩提寺(3)宝台院

2024-11-10 | 徳川家康

宝台院は、日露戦争時には、ロシア兵の捕虜収容所となりました。

本堂は、旧国宝でしたが、1940年(昭和15年)1月15日の静岡大火で焼失。

現在は、モダンな建物となっています。



本堂内陣は、天井の高い本堂で、本尊の両脇には徳川家康の旗印で使っていた「厭離穢土」「欣求浄土」の文字が並んでいます。

本尊は白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊と共に家康の守り本尊となった阿弥陀如来立像(国・重要文化財)です。白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたからと言われています。

若き日の家康像として注目されている家康公の自画像(市・重要文化財)も所蔵しています。(宝台院HPより)

かしく坊の辞世




唄がうまかった風狂人の辞世の句。
宝台院の裏門で死す。

その名をかしくといい、摂津大阪生まれの人とあります。
法名は「雲水夢覚禅門」。

稲荷大明神



延命地蔵尊

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於愛の方(西郷局)の菩提寺(2)宝台院

2024-11-03 | 徳川家康
また、宝台院は、江戸開城後に、徳川慶喜が1年間近くを謹慎した場所としても知られます。
 

江戸城は、慶応4年(1868)4月11日に新政府軍に明け渡され、彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は、11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かいました。

水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、7月23日、慶喜も駿河の宝台院に移って、明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で謹慎されました。

これにより、徳川家による政権は幕を閉じ、以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となりました。

徳川慶喜公謹慎之地



石碑には、当時の緊迫した状況が記載されています。

 宝台院と徳川慶喜公
 明治元年7月、第15代将軍慶喜公、御謹慎の身となり、同月19日水戸を出発して銚子港に到着し、同月21日蟠龍艦に乗船し、同月23日に清水港に到着しました。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが、極めて危険な事だったからでしょう。この時、目付の中台信太郎(のち駿河藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下50名の厳重な護衛がついて駿府に向かいました。慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警戒体制を必要としていました。
 一行は当日夕刻には宝台院に入りましたが、慶喜公の駿府移住は秘密裏に行われ、町民には一切知らされていませんでした。慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その5日後の28日のことでした。
 尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に選んだのは元若年寄大久保一翁でした。彼は駿府町奉行の経験もあって、この町を熟知しており、徳川第2代将軍秀忠公の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜公が落ち着いて過ごせる場所と考えたのでしょう。以来、誠心誠意謹慎をされ、翌明治2年9月28日、謹慎が解け10月5日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約1年余りを当山で起居されました。この謹慎の部屋は10畳と6畳の2室で、10畳の間を居間、6畳の間を次の間として使用し、当時、渋沢栄一や勝海舟と面会されたのもこの6畳間でした。
 明治元年8月15日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し、御霊屋に参礼の後、やはりこの部屋で対面したという事です。家達公は七間町3丁目を曲がり、御輿で大手門より入城されましたが、当時まだ7才というお年でした、
現在の宝台院には、慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っております。
静岡市

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終え、帰国した渋沢栄一は、明治元年(1868)12月20日、静岡に向かいました。
徳川家は静岡藩に移され、藩主は田安家の当主・徳川家達でした。

藩政の実権は、大久保一翁が握っており、栄一は、慶喜に拝謁し、昭武から預かってきた書状を慶喜へ渡すように依頼しました。

23日の夕方になり、栄一は、宝台院の慶喜を訪ねます。二年ぶりに目にした慶喜は、痩せ細った変わり果てた姿で、栄一は思わず涙したといいます。栄一は、フランスでの昭武の活躍ぶりを話すと、慶喜は栄一の労をねぎらい、「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受します。

しかし、昭武への手紙の返事はもらえず、慶喜と拝謁してから4日目に藩庁から呼び出され、静岡藩の勘定組頭に任命されました。すると、栄一は、昭武への返事を水戸に届ける役目があると、これを固辞します。その後、大久保一翁から、「渋沢を水戸へやると、民部公子が重用するであろう。そうなると、水戸藩士が栄一を嫉妬し、危害を加えるかもしれぬ。水戸には、渋沢は当藩に必要と伝え、藩庁の仕事をさせよ。」との慶喜の言葉を聞きます。
栄一は、慶喜の思いやりを知り、自らを恥じ、慶喜への恩に報いるため、静岡に留まり、静岡藩に出仕しました。
 
 
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