日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

竹千代ゆかりの小梳神社

2024-11-18 | 徳川家康

静岡市葵区の紺屋町に鎮座する小梳神社(おぐしじんじゃ)は、奈良時代以前の由緒をもつ古社です。



静岡駅からわずか200m。繁華街の一角にあります。

竹千代(後の徳川家康)が人質として駿府に来たとき、まずはこの神社に立ち寄り、服装を改め武運長久の祈願をしてから、今川義元と対面したと伝えられています。

その後、徳川家康が天下を統一し駿府城にとどまるにあたり、代々徳川家の守り神である大己貴命と天照大神の2柱を合祀して、駿府城の守護神として尊崇されてきました。

平安時代初期のころから少将井神社とも呼ばれました。

小梳神社

小梳神社は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた。
建速須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命、天照皇大神宮が祭神である。
徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神社を城内に残したが、寛永年中(1624-43)には、城内から移転し、再度、延宝3年(1675)に現在の所に移された。
家康は、今川義元の人質として駿府にいた時、小梳神社境内でよく遊んだ思い出の場所として、この神社を大切にしたという。「なをりその記」によると、家康が人質として駿府に来た時、まず、この神社に立寄り、服装を改め、武運長久の祈願をして、その後に今川義元と対面したと伝えられている。当時、造営に当った城代は、松平左近大夫で、延宝4年6月、神輿渡御の神事がはじまった。例祭日の7月27日、この風習は、今なお、氏子の間に引継がれ、隔年に大神輿が市内を巡幸する姿は、夏の風物詩の一つとなっている。
明治以来、再三にわたる火災の被害に会ったが、その都度造営されるほど、地域住民が寄せる当神社の信仰には根強いものがある。
なお、境内には、平田篤胤選文による駿府の国学者新庄道雄の碑がある。
昭和60年1月     静岡市



祭神は建速須佐之男命、奇稲田姫命。


境内に湧き出る水は江戸時代から「霊水・少将の井」と呼ばれ、病気平癒・健康増進の霊水として知られ、多くの人がお水取に訪れています。



霊水・少将の井


宗像神社




稲荷神社

新庄道雄の碑

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於愛の方(西郷局)の菩提寺(3)宝台院

2024-11-10 | 徳川家康

宝台院は、日露戦争時には、ロシア兵の捕虜収容所となりました。

本堂は、旧国宝でしたが、1940年(昭和15年)1月15日の静岡大火で焼失。

現在は、モダンな建物となっています。



本堂内陣は、天井の高い本堂で、本尊の両脇には徳川家康の旗印で使っていた「厭離穢土」「欣求浄土」の文字が並んでいます。

本尊は白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊と共に家康の守り本尊となった阿弥陀如来立像(国・重要文化財)です。白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたからと言われています。

若き日の家康像として注目されている家康公の自画像(市・重要文化財)も所蔵しています。(宝台院HPより)

かしく坊の辞世




唄がうまかった風狂人の辞世の句。
宝台院の裏門で死す。

その名をかしくといい、摂津大阪生まれの人とあります。
法名は「雲水夢覚禅門」。

稲荷大明神



延命地蔵尊

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於愛の方(西郷局)の菩提寺(2)宝台院

2024-11-03 | 徳川家康
また、宝台院は、江戸開城後に、徳川慶喜が1年間近くを謹慎した場所としても知られます。
 

江戸城は、慶応4年(1868)4月11日に新政府軍に明け渡され、彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は、11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かいました。

水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、7月23日、慶喜も駿河の宝台院に移って、明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で謹慎されました。

これにより、徳川家による政権は幕を閉じ、以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となりました。

徳川慶喜公謹慎之地



石碑には、当時の緊迫した状況が記載されています。

 宝台院と徳川慶喜公
 明治元年7月、第15代将軍慶喜公、御謹慎の身となり、同月19日水戸を出発して銚子港に到着し、同月21日蟠龍艦に乗船し、同月23日に清水港に到着しました。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが、極めて危険な事だったからでしょう。この時、目付の中台信太郎(のち駿河藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下50名の厳重な護衛がついて駿府に向かいました。慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警戒体制を必要としていました。
 一行は当日夕刻には宝台院に入りましたが、慶喜公の駿府移住は秘密裏に行われ、町民には一切知らされていませんでした。慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その5日後の28日のことでした。
 尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に選んだのは元若年寄大久保一翁でした。彼は駿府町奉行の経験もあって、この町を熟知しており、徳川第2代将軍秀忠公の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜公が落ち着いて過ごせる場所と考えたのでしょう。以来、誠心誠意謹慎をされ、翌明治2年9月28日、謹慎が解け10月5日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約1年余りを当山で起居されました。この謹慎の部屋は10畳と6畳の2室で、10畳の間を居間、6畳の間を次の間として使用し、当時、渋沢栄一や勝海舟と面会されたのもこの6畳間でした。
 明治元年8月15日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し、御霊屋に参礼の後、やはりこの部屋で対面したという事です。家達公は七間町3丁目を曲がり、御輿で大手門より入城されましたが、当時まだ7才というお年でした、
現在の宝台院には、慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っております。
静岡市

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終え、帰国した渋沢栄一は、明治元年(1868)12月20日、静岡に向かいました。
徳川家は静岡藩に移され、藩主は田安家の当主・徳川家達でした。

藩政の実権は、大久保一翁が握っており、栄一は、慶喜に拝謁し、昭武から預かってきた書状を慶喜へ渡すように依頼しました。

23日の夕方になり、栄一は、宝台院の慶喜を訪ねます。二年ぶりに目にした慶喜は、痩せ細った変わり果てた姿で、栄一は思わず涙したといいます。栄一は、フランスでの昭武の活躍ぶりを話すと、慶喜は栄一の労をねぎらい、「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受します。

しかし、昭武への手紙の返事はもらえず、慶喜と拝謁してから4日目に藩庁から呼び出され、静岡藩の勘定組頭に任命されました。すると、栄一は、昭武への返事を水戸に届ける役目があると、これを固辞します。その後、大久保一翁から、「渋沢を水戸へやると、民部公子が重用するであろう。そうなると、水戸藩士が栄一を嫉妬し、危害を加えるかもしれぬ。水戸には、渋沢は当藩に必要と伝え、藩庁の仕事をさせよ。」との慶喜の言葉を聞きます。
栄一は、慶喜の思いやりを知り、自らを恥じ、慶喜への恩に報いるため、静岡に留まり、静岡藩に出仕しました。
 
 
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於愛の方(西郷局)の菩提寺・宝台院(1)

2024-10-25 | 徳川家康

JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。



山号は金米山。寺号は龍泉寺。




宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母
於愛の方(西郷局)の菩提寺です。

西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。

寛永5年(1628)、秀忠は母の菩提を弔うため寺を現在の場所(常磐町)に移し、その時に寺号も龍泉寺から宝台院と改称しました。以来、宝台院と呼ばれるようになりました。



西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性。父は戸塚忠春という。母は西郷氏(源姓土岐氏流三河西郷氏)。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。
成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。そこを、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれたという。義勝との間に1男1女をもうけている。一説には義勝が最初の夫であるとも言われる。

元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚の菅沼定盈に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。またしても未亡人となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。

やがて、母の弟・西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、秀忠、忠吉を産んだ。

天正17年(1589年)に38歳で死去した。死後の寛永5年(1628年)になって、正一位が贈られた。当時の将軍・徳川家光は孫、翌年即位した明正天皇は曾孫に当たる。

西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。なお、不確定ではあるが西郷局の死因は、罪が不確定のまま殺害された家康の正室・築山殿に仕えていた侍女による暗殺、毒殺という説もある。(Wikipediaより)


 27歳より家康公に仕え、浜松城にあり、三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦い等、家康公が最も苦難にあった時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠の妻だった方です。また、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります。(宝台院HPより)



 宝台院  (金米山宝台院)
宝台院は、徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母 西郷の局(お愛の方)の菩提寺である。
西郷の局は、27歳で家康に仕え、翌天正7年(1579)4月、家康の第3子秀忠を生んだ。家康38歳のときである。
このころ、家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字どおり糟糠の妻であったということができる。
天正14年12月、西郷の局は、長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りした。家康の陰の立て役者として、献身的に仕えた西郷の局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正17年5月、38歳の短い生涯を終った。
後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊をなぐさめた。以来、徳川300年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。
 寺宝 白本尊如来像 (重要文化財) ほか多数
 静岡市

※昨年、大河ドラマ「どうする家康」放送を記念して、宝台院にて特別拝観が実施(9月16日~12月16日)され、重要文化財(白本尊阿弥陀如来・家康公自画像)をはじめとして徳川家所縁の品々が展示された際、それを見に行った友人が本尊画像を送ってくれました。

宝台院の本尊は、白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊と共に家康の守り本尊となった阿弥陀如来立像(国・重要文化財)です。



白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたからと言われています。



本尊の両脇には家康の旗印で使っていた「厭離穢土」「欣求浄土」の文字が並んでいます。(本尊の画像提供:めりい)

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華陽院(2)市姫の墓

2024-10-18 | 徳川家康

源応尼の墓の隣には徳川家康の五女・市姫の墓があります。




市姫(いちひめ、慶長12年1月1日(1607年1月28日) - 慶長15年2月12日[1](1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康(市姫は五女)。母は側室のお梶の方(遠山氏)。
徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康はかつて、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。
慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。しかし慶長15年(1610年)2月12日、市姫は幼くして夭折。野苺を摘んでいた際、毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言われている。
家康は市姫の夭折に嘆き悲しむと同時に、忠宗に対して孫娘の振姫(実父は池田輝政で、生母が家康の次女・督姫)を徳川秀忠の養女として婚約させている。(Wikipediaより)

また、家康の側室・お久の方の墓もあります。








家康お手植えのみかん


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