日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

岡崎の滝山寺

2022-02-20 | 仏閣

岡崎の滝山寺は1300年前に開かれた古刹で、天武天皇の勅願により薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まりとされています。山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、徳川家の恩恵を受けてきました。岡崎市最古の和様建築物である三門、本堂ともに国の重要文化財です。

三門

(三門の画像:Wikipediaより)

本堂

貞応元年(1222年)三河の地頭で清和源氏の流れをくむ足利義氏が額田郡碧海の庄、吉良の東条・西条の住人に命じて五間四方の本堂を建設。 現在の本堂は、明治43年頃に解体・大修理をしたもの。寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像は、鎌倉時代の第1の仏師運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。聖観音像は源頼朝の等身大で、仏身に御髪と御歯が納められています。

 

本坊

寺の裏には、近江国日吉大社から勧請、慶長13年(1608年)徳川家康が建立、正保2年(1645年)、徳川家光が再建したといわれる日吉山王社があります。

この時、ちょうど修復中でした。

徳川五代将軍・徳川綱吉寄進の梵鐘

立ち並ぶ石灯籠

 

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泉岳寺(7)堀部安兵衛の墓

2022-02-07 | 史跡

泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。



討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。

元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。
主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。



法名は刃雲輝剣信士。



忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作


堀部安兵衛
赤穂浪士の一人。名は武庸(たけつね)。実父中山弥次衛門は越後(えちご)新発田(しばた)藩溝口家に仕えていたが浪人となる。父の死後江戸に出て儒学や剣を学ぶうち,伯父・甥(おい)の義盟を結んだ菅野六左衛門が高田馬場(たかだのばば)で決闘したのを助太刀して勇名をあげ,望まれて赤穂藩士堀部弥兵衛の養子となった。藩主浅野長矩の死後,高田郡兵衛,奥田孫太夫らと江戸急進派の中心となり,1702年吉良邸討入りに参加し,翌年伊予(いよ)松山藩主松平家江戸屋敷で切腹。大石良雄らとの書簡などを編集した《堀部武庸筆記》は赤穂事件の貴重な史料である。 (コトバンクより)

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