日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

平安京 検非違使庁址

2012-10-29 | 史跡
検非違使は、京都の治安維持を担当した役職で、その後京都全般の行政を担当するようになりました。

上京区葭屋町に平安宮 検非違使庁址の碑があります。





 平安京 検非違使庁址
 
 東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、西を猪隈小路(猪熊通)、南を近衛大路(出水通)に囲まれた範囲は、平安京左京一条二坊七町にあたる。平安時代前期から中期にかけ、この地には平安京の「首都警察」であった検非違使庁が存在した。検非違使は弘仁六年(八一五)頃に令外官として創設され、当初は左右両庁に分かれていたが、天暦元年(九四七)にひとつに統合された。この左京一条二坊七町の地は、もとは左衛門府の一部であったが、分割されて検非違使の庁舎の敷地にあてられた。検非違使の職掌は警察、裁判、科刑に及んでいたが、時代を経るに従ってその役割は拡張され、やがては京内の行政全般にわたる広範な権限を持つにいたった。ただ、平安時代後期になると検非違使の事務は別当(長官)の私邸でおこなわれるようになり、左京一条二坊七町の庁舎は廃絶したのである。
 平安時代の歴史の中で、検非違使の果たした役割は限りなく大きい。この重要な史跡を後世に伝えるため、ここに顕彰碑を建立する。

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平安宮主水司跡(もんどのつかさあと)

2012-10-25 | 史跡
平安宮主水司跡(もんどのつかさあと)



丸太町通智恵光院の交差点の南側に、主水司跡を示す「平安宮主水司跡」の石碑が立っています。

主水司は、平安宮の飲料水、氷室のことをつかさどる役所です。

昭和53(1978)年の発掘調査で,この地から土器類が出土したそうです。

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平安宮一本御書所跡

2012-10-18 | 史跡
平安宮内裏承明門跡をさらに東に進むと、山中油店の敷地内に平安宮一本御書所跡の石碑があります。







平安宮一本御書所跡(へいあんきゅういっぽんごしょどころあと)

平安時代、この附近は天皇の住まいである内裏の東側に当たり、一本御書所があった。
一本御書所は、平安中期の天暦2年(948)頃から『貞信公記』などの文献に現れ、世間に流布した書籍を各一本(一部)書き写して保管・管理した所で、侍従所の南にあって、公卿別当をもって長官に任じ、その下にあって預や書手などの役があった。
『日本紀略』康保元年(964)10月13日条には、一本御書所で清書した222巻を大蔵省の野御倉に遷納したころが記されている。また平安時代後期には、鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されている。
『平治物語』によると、平治の蘭(1159)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を一本御書所に押し込めたことが書かれ、つとに有名である。
なお陽明文庫本『宮城図』にはこの付近を御書所と記しているが、『西宮記』によると、内裏外郭北門(朔平門)西の式乾門の内の東掖門には御書所があったとし、天皇の書物等を管理する内御所所は内裏内の承香殿の東片廂にあったとする。(案内板より)

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平安宮内裏承明門跡

2012-10-14 | 史跡
平安宮内裏内郭回廊跡よりさらに東に進むと、平安宮内裏承明門跡の石碑があります。



承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。





平安宮 内裏 承明門(じょうめいもん)跡

この付近から北方一帯は、平安宮(大内裏)の天皇の居所である内裏跡にあたり、1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺構や遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石及び河原石を並べた幅約80㎝の東西方向の新旧遺構が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(あめおちみぞ 雨水の排水溝)と判明した。
この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたこともあきらかになった。また、この雨落遺跡北方では、南北一直線上に9世紀中頃から11世紀末までの4箇所の地鎮め遺構が検出され、このうち1基は、11世紀中頃の輪宝(りんぽう)に橛(けつ)が打ち込まれた状態で出土、さらに据え置かれた土師器皿数枚の上に倒れた状態の壺も検出され、輪宝上面などには金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス玉、珊瑚片など、儀式の際にまかれた宝物なども見つかっている。この地鎮の遺構は、火災後に再建され天皇の新居入宅の際に行われたもので、天台密教の安鎮法(あんちんほう)による儀式で執り行われたを示し、地鎮め地点の記述や同時に出土した土器の編年から、延久3年(1071)の後三条天皇遷都の時のものと考えられている。
これらの祭祀場所は、承明門の中央、すなわち内裏の中央南北ラインの位置を示しており、内裏を復元する重要な定点となり、また、内裏の変遷や関係書物は、一括して京都市の有形文化財に指定され、雨落遺構も地中の元位置で保存されている。 (案内板より)


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平安宮内裏内郭回廊跡

2012-10-13 | 史跡
千本通から下立売通を東へ少し行くと、銭湯の向かい側に平安宮内裏内郭回廊跡の石碑があります。







平安宮 内裏内郭回廊跡

桓武天皇延暦13年(794)に遷都された平安京の中心をなす宮殿の一画は現在の千本丸太町一帯の地に置かれていた。
そのうち天皇の住居であった内裏は、大極殿のあった千本丸太町東北方のこの地域に東西57丈(約173m)、南北72丈(約218m)の広さで造られていた。
この内裏は厳重な築地回廊で囲まれていた。
その遺跡の一部は昭和38年の下水道工事で知られ、昭和44年、48年の発掘調査でさらに明らかとなった。
その結果、ここには内裏内郭の築地回廊の西南部が埋れており、その基壇西縁の凝灰岩(ぎょうかいがん)羽目石、束石(つかいし)、覆石が遺存し、約30mの長さにわたって南北方向に延びていることが確かめられた。この回廊の幅は約35尺(10.5m)である。
平城宮、長岡宮の内裏築地回廊と同規模である。
この回廊跡は、現在知られている、内裏の確実な遺跡としては唯一のものであり、朝堂院、豊楽院(ほうらくいん)における遺跡の一部と共に、平安京研究上重要な基準となるものである。
                昭和49年4月
                    平安博物館 発掘調査(案内板)

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