日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

北座跡

2015-07-22 | 石碑
京都南座向かいの北座ビルの前に北座跡の碑があります。



江戸時代中期、四条河原には、幕府公認の七つの芝居小屋がありました。

その後、火事で幾度も焼失し、また興行の中心が大坂に移ったため次第に数が減り、江戸時代中期には四条通りの南と北、大和大路の西の三座となります。

西の芝居は1794年(寛政6年)の大火後は再建されず、二座が残った。さらに南座の向かいにあった北座は

1892年(明治25年)四条通の拡張に伴い閉鎖され、南座のみになりました。



北座ビルは、その北座があった辺りに建てられ、一階は井筒八ッ橋本舗の本店となっています。





  北座跡(この付近)

 寛文10年(1670)以降、鴨川の両岸に新堤が築かれたことによって鴨河原の風景は一変した。
河原は「新地」(新造成地の意味)となりここに広大な芝居街と茶屋町が出現することになった。
 延宝4年(1676)の絵図「祇園社並旅所之図」によれば、この時期すでに東岸の四条通をはさんで計6件の芝居小屋が描かれている。
 17世紀末の元禄期になるとこの芝居小屋は7軒に増加する。
18世紀初頭の「京都御役所向大概覚書」によあると四条北側芝居は井筒屋助之丞、両替屋伝左衛門の所有とあり、さらに南側芝居は大和屋利兵衛、越後屋新四郎、伊勢屋喜兵衛の三者が所有者としてあげられていた。
 しかし、たびたびの大火で19世紀末にはわずか北側に一軒南側に一軒となった。
その北側の一軒北座も明治26年(1894)に四条通拡幅によって消滅した。

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元和キリシタン殉教の地

2014-12-19 | 石碑
日本の大殉教と呼ばれるものは三つであり、1622年9月10日の長崎の殉教、1623年12月4日の江戸の殉教、そして京都の大殉教。

江戸幕府のキリシタン弾圧は、慶長17(1612)年に始まり、二回目の弾圧は,元和年間(1615~23)に始まり,元和5(1619)年、伏見城に上洛していた徳川秀忠は、伏見でキリシタン投獄者がいることを知ると、老若男女の区別なく、全ての信者を火あぶりで処刑するように命じたといいます。小川牢屋敷に投獄されていた信者たちは、52人が大八車に積み込まれ、見せしめのため、六条から七条まで引き回された後、27本の十字架に縛られました。夕暮れになると、六条河原で、十字架を囲む薪の輪に火が付けられ、悲惨な最期を遂げました。



その中で、最も人々の涙を誘ったのは、橋本太兵衛の妻テクラと子供たちで、3人の子供と一緒に縛られたテクラは、泣き叫ぶ子供たちを励ましながら、最後まで抱き締めていたといいます。

中山正美作「都の大殉教」より テクラ橋本(バチカン美術館蔵)

川端通りの正面橋のふもとに「元和キリシタン殉教の地」という石碑が建っています。





鞍馬石に「元和キリシタン殉教の地」と刻まれています。



1994年8月、平安遷都1200年の記念事業として、この碑が建てられました。

人は人に対してどうしてここまで残酷になれるのでしょう?

このような悲惨な出来事が過去にあったということを、後世まで語り継いでいかなければなりませんね。

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堀河天皇里内裏址

2014-09-20 | 石碑
京都国際ホテル前には「堀河天皇里内裏址」の碑もあります。






堀河院の遺址

二條通と堀川通によって画された東西120米、南北250米地域は、古の堀河院の遺址であって、正式には左京ニ坊九、十町に當たっている。初めそれは、関白 藤原基経(836-891)が造営した大邸宅であった。 彼は主に公式な行事のため本邸を用いた。ここで宴会が催されたときなどには、公卿たちの牛車は堀河の東側に立てられ、牛は二條堀河の橋の欄干に繋がれていたと言う。この邸宅における苑池の美しさは、幾多の詩歌に詠まれている。
基経の死後、堀河院は息子の左大臣・仲平に伝えられ、彼の娘などの手を経て関白・藤原兼通の所有に帰した。兼通の娘の子は円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所となったこともある。兼通の息子の顕光がここに居住した時分には様々な話題で時人の関心の的となった。
堀河院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀河天皇の御所(里内裏)となっていた時期であって、天皇は嘉承二年(1107)七月ここで崩じた。この委細は、『讃岐典侍日記』に見事に叙べられている。 
平成元年七月
文学博士 角田 文衛


堀河天皇

白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子
応徳3年(1086年)11月26日、立太子と同日に8歳で父白河天皇から譲位され即位した。即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となり実権を握った。

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浅野内匠頭邸跡の碑

2013-05-21 | 石碑
東京都中央区明石町の聖路加看護大の前に浅野内匠頭邸跡の碑があります。




 
 常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~1672)は、正保2年(1645年)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
 忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701年)、勅使の接待役の推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。(中央区教育委員会)

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大津事件の碑(露国皇太子遭難地の碑)

2012-12-29 | 石碑

明治24年、来日中のロシア皇太子が大津訪問中、警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられた事件で、のちに行政の干渉を受けず、司法権独立を守ったとして有名になったところです。







JR琵琶湖線「大津駅」下車 徒歩 5 分
京阪電鉄/石山坂本線「浜大津駅」下車 徒歩 5 分

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