また高源寺には、村山たか女の肖像画、源氏物語明石之巻襖絵、地蔵菩薩半跏像などがあります。
庭園を散策した後、本堂を見学させていただきました。
たか女は、多賀大社の近くの生まれで、多賀大社境内にあった般若院に出入りをしていたころに 井伊直弼と当院で出会ったとされています。
たか女は、直弼と直弼の懐刀として活躍した長野主膳の菩提を68歳で亡くなるまで弔い続けたといいます。
源氏物語明石之巻襖絵
また高源寺には、村山たか女の肖像画、源氏物語明石之巻襖絵、地蔵菩薩半跏像などがあります。
庭園を散策した後、本堂を見学させていただきました。
たか女は、多賀大社の近くの生まれで、多賀大社境内にあった般若院に出入りをしていたころに 井伊直弼と当院で出会ったとされています。
たか女は、直弼と直弼の懐刀として活躍した長野主膳の菩提を68歳で亡くなるまで弔い続けたといいます。
源氏物語明石之巻襖絵
また、境内には、井伊直弼が始めたと伝えられる石州流直弼派「一会流」の「茶筅塚」があります。
石州流 (せきしゅうりゅう)は、片桐石州(貞昌)を流祖と仰ぐ武家茶道の流派の総称。一口に石州流と言っても様々であり、初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられるほか、地域ごとに様々なグループを形成している。
井伊直弼は、元来は300俵扶持の部屋住みで、その頃からおそらく石州流の茶湯を学んでいたと考えられる。片桐宗猿に事細かな質問をしており、『茶湯一会集』その他の著書などから当代一流の茶人であったと考えられている。家臣に宇津木左近があり、維新後に茶道教授をはじめており、この系譜が復元されて一会流と称している。(Wikipediaより)
塚は、75センチ立方の台座の上に75センチの茶筅が置かれ、ともに御影石製。
鐘楼
多賀観光協会HP参照
多賀町楢崎高源寺は、鎌倉時代に創建され、もとは天台宗に属し、十福寺と呼ばれていました。
総門
石田三成の居城・佐和山城の裏門を移したものだそうです。
近江源氏・佐々木氏の四天王の一人として活躍した楢崎氏の菩提寺として創建されたたものとされています。
織田信長によって、佐々木氏が滅亡するや楢崎氏もこの地を離れ、それ以後廃寺になりました。
その後、彦根藩主井伊家の家老の脇家、宇津木家の両家によって再興され、両氏の院号にちなんで、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っているとのこと。
最盛期には、書院三十坪、仏殿二十五坪、奥殿三十坪、禅堂三十二坪などを要する大寺院で、湖東における名刹でしたが、明治9年(1876)火災により、総門以外の伽藍はすべて灰となってしまいました。
その後、明治14年(1881年)多賀から正覚院・般若院・不動院が移されて再建されました。
多賀観光協会HP参照
こちらが、女飯盛木です。
元正天皇(715~724)の病気平癒祈願にケヤキで杓子が謹製された。その残り枝を地に挿したものが大木になったと伝承されている。東の木が男飯盛木、西側の木が女飯盛木と呼ばれ、「お多賀杓子の飯盛木」の言伝えで親しまれている。(駒札より)
幹周9.75m 樹高15m 樹齢(推定)300年以上
幹周は、男飯盛木よりも女飯盛木の方が大きいですが、斜めに立っている姿は、しなやかで女性らしいかな?
樹齢は不明ですが、相当の古木で、ケヤキとしては県下最大級だそう。