龍王宮秀郷社の隣にある雲住寺は、俵藤太(藤原秀郷) の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっています。
百足供養堂
毎年10月の第3日曜に俵藤太と百足供養会が催されるそうです。
龍王宮秀郷社の隣にある雲住寺は、俵藤太(藤原秀郷) の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっています。
百足供養堂
毎年10月の第3日曜に俵藤太と百足供養会が催されるそうです。
瀬田の唐橋の東岸にある龍宮秀郷社には、ムカデ退治伝説が伝わっています。
瀬田の唐橋には、平安時代、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(俵藤太)が、唐橋の川底にある竜宮の乙姫の願いで、大百足を退治したという伝説があり、当社は、その秀郷と乙姫の霊を祀る神社です。
右が「龍王宮」、左が「秀郷社」
むかしむかし、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々が橋を渡れなくなっていました。そこを通りかかった俵藤太は平気で大蛇を踏みつけて渡ってしまいました。
その夜、藤太が踏みつけた大蛇が美しい娘に化けて藤太を訪ねました。
娘は琵琶湖に住む龍神一族の乙姫で、龍神一族が三上山の百足に苦しめられているので、藤太に百足を退治して欲しいと懇願しました。
藤太は、剣と弓矢を携えて三上山に向かうと、山を7巻き半する大百足が現れました。藤太は、矢を放ちましたが、大百足には通じす、最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して放つとようやく大百足を退治することができました。
藤太は乙姫から御礼として、米の尽きることのない俵、三井寺の名鐘などの宝物を贈られました。
また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといいます。
この伝説は色々なバージョンがあるようです。
彦根の長久寺は、1041年(長久2年)後三条天皇の皇后の祈願所として創建されました。
創建時より寺勢は大いに振るい、比叡山延暦寺を凌ぐほどの勢力でしたが、1510年(永平7年)に、六角・京極両氏の兵火により大打撃を受け、さらに1571年(元亀2年)、信長の比叡山焼き討ちの際、堂塔伽藍を焼き尽くされてしまいました。
その後、彦根藩主となった井伊氏は後水尾天皇の勅を奉じて、普門山常心院の山号院号を賜り、徳川将軍家の助力も受けながら、長久寺の再建に努めました。
本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。
寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿と、お菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。 お皿の常設展示はされていません。事前に電話予約が必要だそうです。
境内には、源頼朝手植えと伝わる梅があります。
滋賀県草津市の鞭崎神社の創建は白鳳4年(676)、大中臣清麿が天武天皇の勅命により勧請したのが始まりと伝えられています。
当初は矢橋八幡宮と称していましたが建久元年(1190)、源頼朝が上洛の際、矢橋の浦から鞭にて神社の森を指し、村人に当社の事を尋ねた故事から鞭崎八幡宮と称するようになりました。
以来、頼朝は当社を深く崇敬し建久3年(1192)には社領を寄進し社殿を造営していました。
現在の表門は、元々、膳所城の南大手門として建てられたもので、明治4年(1871)に膳所城が廃城になった際、当社に移されました。
この表門は、高麗門、切妻、本瓦葺、江戸時代初期の城門建築の遺構として大変貴重な存在で、国指定重要文化財に指定されています。