羅城門跡
2012-09-27 | 史跡
夏の京都の旅で、平安京の遺構を残す石碑巡りをしてきました。
まずは、東寺の西側に残る羅城門跡です。
現在は、小さな公園となっており、その中に石碑が立っています。
794年(延暦13)に建設した平安京の正門に当たります。
当時は、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していたそうです。門は正面33メートル、奥行8メートル。
数年前にここを訪れた時は、
「この地は平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる)と九条通の交差点にあたり、平安京の正面として羅城門が建てられていた。門は二層からなり瓦葺き屋上の棟には鳲尾が金色に輝いていた。正面十丈六尺(約32m)、奥行き二丈六尺(約8m)内側、外四側とも、五段の石段があり、その外側に石橋があった。嘉永3年(1108年)正月、山陰地方に源義親を盗伐した平正盛は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。
しかし平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともに、この門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。その話を取材した芥川龍之介の小説を映画化した「羅生門」はこの門の名を世界的に有名にしたが、今は礎石もなく、わずかに明治28年建立の標石を残すのみである」
という説明でしたが、案内板が新しくなって下記の説明になっていました。
羅城門(らじょうもん)跡
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。
弘仁7年(816)に大風により倒壊し、その後に再建されたが、天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがなかった。
11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が「小右記(しょうゆうき)」にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿になっていたと思われる。
付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像(国宝)や三彩鬼瓦(さんさいおにがわら)(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。
平成20年3月 京都市
(案内板より)
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まずは、東寺の西側に残る羅城門跡です。
現在は、小さな公園となっており、その中に石碑が立っています。
794年(延暦13)に建設した平安京の正門に当たります。
当時は、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していたそうです。門は正面33メートル、奥行8メートル。
数年前にここを訪れた時は、
「この地は平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる)と九条通の交差点にあたり、平安京の正面として羅城門が建てられていた。門は二層からなり瓦葺き屋上の棟には鳲尾が金色に輝いていた。正面十丈六尺(約32m)、奥行き二丈六尺(約8m)内側、外四側とも、五段の石段があり、その外側に石橋があった。嘉永3年(1108年)正月、山陰地方に源義親を盗伐した平正盛は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。
しかし平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともに、この門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。その話を取材した芥川龍之介の小説を映画化した「羅生門」はこの門の名を世界的に有名にしたが、今は礎石もなく、わずかに明治28年建立の標石を残すのみである」
という説明でしたが、案内板が新しくなって下記の説明になっていました。
羅城門(らじょうもん)跡
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。
弘仁7年(816)に大風により倒壊し、その後に再建されたが、天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがなかった。
11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が「小右記(しょうゆうき)」にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿になっていたと思われる。
付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像(国宝)や三彩鬼瓦(さんさいおにがわら)(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。
平成20年3月 京都市
(案内板より)
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