ここから拝観受付をし、妙顕寺の中に入ります。
境内では「孟宗竹の坪庭」、「五色椿と松の庭」「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」、「光琳曲水の庭」といった四つの趣の異なる庭園を鑑賞できます。
こちらが「孟宗竹の坪庭」
この庭は、ネスカフェのCMにも使われたことがあるので、ご覧になっている方も多いでしょう。
ここから拝観受付をし、妙顕寺の中に入ります。
境内では「孟宗竹の坪庭」、「五色椿と松の庭」「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」、「光琳曲水の庭」といった四つの趣の異なる庭園を鑑賞できます。
こちらが「孟宗竹の坪庭」
この庭は、ネスカフェのCMにも使われたことがあるので、ご覧になっている方も多いでしょう。
京都市上京区の妙顕寺は、元亨元年(1321年)、日像により今小路(現京都市上京区大宮通上長者町)建立されました。
応仁の乱や宗派間の紛争(天文法難)により長い間、移転を繰り返し、天正11年(1583)年豊臣秀吉の命によって現地に移建。
現在のお堂は、天保5(1834)年の再建です。
妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれています。
山門
本堂
正しくは四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺といい、日蓮宗の大本山の一つである。
日蓮聖人の孫弟子に当たる日像上人が、元亨元年(1321)に、京都における日蓮宗最初の道場として創建したのが当寺の起こりである。
建武元年(1334)には、後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の綸旨(詔の趣旨)を受け、法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位に認められた。
しかし、度々の法難と災禍により寺地を転々とし、天正11年(1583)に秀吉の命により西洞院二条の旧地から現在地に移された。
その後、天明の大火(1788)で焼失したが、天保5年(1834)に再建され、今日に至っている。
寺宝として尾形光琳筆の「松竹梅」図三幅などがあり、塔頭の泉妙院には、降臨と陶工として有名な弟乾山の墓がある。 京都市
(駒札より)
三菩薩堂
日蓮・日朗・日像の三祖を合祀。
鐘楼
尊神堂
鬼子母神を祀っています。
妙見大菩薩
勅使門
壽福院塔
前田利家の室・壽福院日栄の壽塔
上京区小川通の本法寺は、1436年(永享8)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが起こりです。はじめは東洞院綾小路にありましたが、1536年(天文5)法華の乱によって山徒に焼かれ、後に現在の地に移りました。
江戸時代には後水尾天皇、紀州徳川家の保護をうけて繁栄しました。
現代の経蔵、宝蔵のほかは天明の大火(1788)後に再建されたものです。
仁王門
本堂
1797年(寛政9年) 本阿弥光悦筆の扁額
本法寺は、琳派の祖・本阿弥光悦の菩提寺で、本堂の前には、本阿弥光悦お手植えの松があります。
本阿弥光悦(1558-1637)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家で、その才能は多岐にわたり、書・絵画・陶芸・漆芸などに優れた作品をのこしています。
本阿弥家は元来、刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えていました。光悦の曾祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者になります。
爾来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしました。また、これにあわせて光悦によって造られたとされる「巴の庭」は、室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭です。昭和47年に修復され、昭和61年に国指定名勝となりました。(本法寺HPより)
長谷川等伯像
多宝塔
唐門
開山堂
鐘楼
摩利支尊天堂
叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起りという。
はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護をうけて繁栄し、中山法華経寺(千葉市中山にある日蓮宗総本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。
現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴(ともえ)の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。
寺宝には、銭舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得(かんざんじっとく)画像、長谷川等伯筆の仏涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄なお書二点の重要文化財を所蔵している。
京都の繁華街・寺町通りにある矢田寺は、西山浄土宗の寺院で、通称矢田地蔵(やたじぞう)と呼ばれています。
平安時代初期、奈良の矢田寺の別院として五条坊門に創建され、以後、寺地を転々とし、天正7年(1579年)に現在地に移されたといわれています。
当寺の梵鐘は六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として信仰されています。
正平14年(1359年)に鋳造された梵鐘は戦時中の金属供出により失われ、昭和48年(1973年)に新鋳されました。
金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で、通称、矢田地蔵の名で知られている。
寺伝によれば、当寺は、平安時代の初め、大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)に創建され、以後、寺院を転々とし、天正7年(1579)に現在の地に移されたといわれている。
本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は高さ約2メートルの立像で、開山の満慶(満米)上人が冥土へ行き、そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ、俗に代受苦地蔵と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。
また、当寺の梵鐘は、六道珍皇寺の『迎え鐘』に対し『送り鐘』と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として人々から信仰され、一年を通じて精霊送りには、多くの参拝者で賑わう。 (駒札より)
しあわせ大日如来
「代受苦地蔵」と呼ばれるご本尊の地蔵菩薩立像は、地獄の火焔の中に身を置かれおり、地獄で罪人を救っている地蔵の姿を彫刻して祀ったものと伝えられています。