井伊家は藤原鎌足の後裔で、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。
保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。
室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。
戦国時代になると、24代・直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。
幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。
こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。
境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、井伊家霊屋などの建物が立ち並び、国指定名勝の小堀遠州作「龍潭寺庭園」は、石組みを配した築山と心字池からなる池泉鑑賞式庭園となっています。
山門
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井伊家発祥の地の石碑
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庫裡
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開山堂
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井伊家のお籠
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左甚五郎の龍の彫刻
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井伊家霊屋
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元祖・共保公、22代・直盛公、24代・直政公の木像が安置されています。
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元祖・井伊共保公像
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22代・井伊直盛公像
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24代・井伊直政公像
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井伊家24代。永禄4年2月9日井伊領内祝田で誕生。15歳の時浜松城で徳川家康公に仕え、関ケ原の戦いでの武勲により、彦根へ。彦根藩江戸時代三百年の基を築き、42歳、慶長7年2月1日逝去。龍潭寺に葬れました。
次は墓地と庭園です。
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井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。
井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・直弼を輩出した家として知られています。
遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「共保出生の井戸」です。
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白壁の塀に囲まれているので、車に乗っていてもすぐにわかります。
共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた井伊氏の元祖です。共保は、藤原冬嗣6世孫で、遠江国主・藤原共資の子に当たりますが、この地には、次のような伝説が残されています。
井伊氏祖 共保公出生の井
この井戸は井伊家の始祖井伊共保公出生の井戸として往古から伝承されています。一條天皇の寛弘年間藤原鎌足十二代の子孫 備中守共資公が遠江介として村櫛へ下向、元旦 領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し当地方の宰主となり家紋をこの聖井を型取り、井桁に橘を以ってし、名門井伊氏の基を開いたと謂われます。
又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります。
(浜松市教育委員会)
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碑文は、第39代当主・井伊直愛氏(井伊直弼の曾孫)の撰述。
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共保公出生の井戸
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周りはこんなのどかな風景です。
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熊谷 直実は、はじめは平家に仕えていましたが、石橋山の戦いをきっかけに源頼朝に従い、御家人となりました。後に出家して蓮生(れんせい)と名乗ります。
「平家物語」の「敦盛最期」での平敦盛との一騎打ちは、能の「敦盛」をはじめ様々な作品に取り上げられています。
京都の金戒光明寺には熊谷直実ゆかりのものがあります。
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熊谷直実(法力房蓮生法師)鎧掛けの松
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熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、建久4年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。
供養塔は法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられています。古樹は枯れ、現在の木は二代目です。(案内板より)
「平家物語」によれば
源平の戦いで、直実は、波打ちぎわを逃げようとした平家の平敦盛を呼び止め、一騎打ちをする。直実が敦盛をむんずと取っ組んで、馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の若武者だった。
直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」とけなげに答えた。これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。首実検した結果、息子と同じ16歳の平敦盛であったとわかり、世の無常を感じ、出家して法然上人に師事した。
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新京極にある誓願寺は飛鳥時代、天智天皇 6年(667)、天皇の勅願により創建されました。
鎌倉時代に奈良から一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、天正19年(1591)、秀吉の命により現在の地に移転し、慶長2年(1597)、松の丸殿(京極龍子)の援助によって伽藍の再興が完了しました。
清少納言、和泉式部、松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高いお寺です。
ご本尊の阿弥陀如来座像は木造、寄木造布貼の丈六の座像で平安時代後期の定朝様で鎌倉時代から南北朝時代の頃の作と見られています。
能の曲目に『誓願寺』がありますが、この本山のことを指しています。
扇塚のある寺として芸能関係、また説教から発達した講談、落語、漫才などの芸人の成就を祈願する寺として知られています。
扇塚
世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。
特に舞踊家が多く、文化・文政・天保(1804~44)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踊家がありました。
誓願寺の『扇塚』に、芸道上達を祈願し『扇子』を奉納することには、上のような深い歴史的な意味が秘められているのであります。また、誓願寺第五十五世策伝日快上人(1544~1642)が『醒睡笑』八巻を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。
(案内板より)
落語発祥の寺とも言われ、関西地方の芸人たちがこの寺で練習会を営んでいるそうです。
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