反り橋を渡って神門をくぐります。
神門
手水舎
神馬舎
拝殿
手前が拝殿。その奥が神楽殿。
さらに奥が本殿。
社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。
本殿右に能舞台
左に絵馬殿が立っています。
絵馬殿
反り橋を渡って神門をくぐります。
神門
手水舎
神馬舎
拝殿
手前が拝殿。その奥が神楽殿。
さらに奥が本殿。
社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。
本殿右に能舞台
左に絵馬殿が立っています。
絵馬殿
多賀町多賀に鎮座する多賀大社は、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。
式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。
当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあり、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされています。
天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い、1万石を寄進しました。
大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営された石造りの反り橋は、このことから、「太閤橋」の雅名でも呼ばれています(正しくは太鼓橋)。
近江鉄道多賀駅から多賀大社に向かう途中にある真如寺。
朱色の山門が目を引きます。
山門、本堂、庫裏、書院、鐘楼は、創建以来の建物であるといわれています。
本堂に安置されている本尊の木造阿弥陀如来坐像は、元々は多賀大社の本地堂の本尊でしたが、明治時代初期の神仏分離の際、真如寺に移されました。
像高は140cmほどの藤原時代の仏像で、なで肩でふっくらと肉づきがよく、やわらかな曲線をしており、国指定の重要文化財です。
寺宝には、生前の行いを閻魔大王に裁かれ、罰を受ける様子が描かれた「地獄絵図」などがあります。
多賀大社の門前町にある桜町延命地蔵尊は、古くから地蔵信仰の場で、多賀大社の参拝客も多く立ち寄っていました。
本堂前には、半跏地蔵菩薩、来迎三尊仏、本堂の中央には、本尊地蔵菩薩を安置し、左側に地獄で人の罪を裁くという閻魔大王を中心にして、罪を記録し報告するという俱生神 ( ぐしょうじん )、司録神 ( しろくじん)、浄玻梨 ( じょうはり ) を配して、地獄の場面をあらわし、右側に地獄の苦を救う千手千眼自在菩薩を配している。
ここ桜町は、多賀大社の門前町で、多くの参詣者で賑わっていた。また、桜町地蔵の境内は、古くから地蔵信仰の場で、多賀大社参拝の人も立ち寄っていた。
地蔵菩薩はわが名を称える人の苦しみを救い、また姿を変えて、延命・子育・腹帯地蔵などに化身して、人々の願いを聴き入れる現世の救済の神秘な力を持つとされている。
天保年間 ( 1830~1840年 )、北国屋市兵衛は多賀大社ゆかりの名物糸切餅を発案し、木之本地蔵の分身を請い、桜町地蔵の堂を建て、境内を整備した。
本堂は、中央に本尊地蔵菩薩を安置し、左側に地獄で人の罪を裁くという閻魔大王を中心にして、罪を記録し報告するという俱生神 ( ぐしょうじん )、司録神 ( しろくじん)、浄玻梨 ( じょうはり ) を配して、地獄の場面をあらわし、右側に地獄の苦を救う千手千眼自在菩薩を配している。
本堂前には、半跏地蔵菩薩、来迎三尊仏を置く。来迎三尊仏像は西方極楽浄土から、阿弥陀仏が観音・勢至を含め、地蔵など二十五の菩薩を従えて雲に乗り、音楽を奏でながら迎えて、極楽浄土へ導く姿を表現する。
多賀町教育委員会