日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

大善寺の亀姫の墓

2024-08-18 | 

JR飯田線「新城駅」から徒歩4分のところにある大善寺には、亀姫の墓とされる五輪塔があります。



本堂



亀姫は、徳川家康との築山御前の長女で、兄は松平信康。奥平信昌の正室。

永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。元亀4年(1573年)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)7月、信昌へ嫁いだ(「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜第一』)[3] 。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲ける。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、慶長6年(1601年)夫・信昌が美濃加納10万石に封じられ、三男・忠政共々加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。やがて忠政、宇都宮藩の嫡男・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。

寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去した。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)、法蔵寺(愛知県岡崎市)、大善寺(愛知県新城市)にある。4人いた妹たちには全て先立たれている。(Wikipediaより)

この五輪塔は、信昌と亀姫の子・4男の松平忠明が、亀姫の供養のために建立したものです。



大善寺と亀姫

天正3年、長篠の戦いで大功のあった奥平貞昌は、織田信長から信の字を賜って信昌と改め、家康の長女亀姫をめとり、新城城を築き、入城しました。

亀姫は熱心な浄土宗の信者で、当地に大善寺を建立し、後年母築山御前の法要、長篠の戦いの戦死者の供養を行いました。

天正18年信昌は、上州(現在の群馬県)宮崎3万石、さらに岐阜加納10万石に移封され、亀姫は加納御前とよばれ、寛永2年死去されました。

亀姫の没後、四男松平忠明は母の供養のために五輪塔を大善寺に建立し、現在に至っております。

大善寺が江戸時代から葵の紋の使用を許されているのは、亀姫の開基によるからであります。   新城市観光協会

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本多忠豊の墓碑

2024-08-05 | 

本多忠豊は、徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父にあたります。

1544年(天文13年)9月、安祥城は、織田信長の父・織田信秀に支配されました。

安祥城を奪還するため、岡崎城の徳川家康の父・松平広忠は、1545年(天文14年)9月、上条西で織田軍と交戦。(第二次安祥合戦)

織田軍の援軍によって挟み撃ちにされ、敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍(しんがり)を務めて討死したといわれています。

三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬されました。

墓碑は、討ち死にしたと考えられる場所に建立されています。

 

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本多忠高の墓碑

2024-07-27 | 

安祥城の近くの住宅地の中に、本多忠勝の祖父と父の墓碑があります。

墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)にあり、戦死地の安城町赤塚にも墓碑が建てられています。

まずは、本多忠勝の父・本多忠高の墓碑から紹介します。

市指定史跡 本多忠高墓碑
 天文九年(1540)尾張の織田信秀(織田信長の父)が、安城城(安祥城)を奪い取ります。その後、天文十八年(1549)までの約10年間、安城城争奪戦、いわゆる『安城合戦』が繰り返されました。

 天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)が没しました。同年、今川・松平軍は太原崇孚(たいげん そうふ)雪斎を総大将とし、織田軍が占領する安城城を攻撃しました(第3次安城合戦)。先鋒となった松平軍の主将・本多忠高(本多忠勝の父)は、安城城代・織田信広(信長の兄)に追い迫りましたが、城の本丸近くまで深入りしたため、この場所で敵の矢に当たり戦死しました。

 寛政九年(1797)、岡崎藩主・本多忠顕(ただあき)により、忠高は戦死した地に墓碑が建てられました。さらに同十一年(1799)、妙源寺(岡崎市)に葬られていた忠高の遺骨を安城に改葬したとされます。

 忠高は天分十四年(1545)の安城清畷(せいなわて)の合戦(第2次安城合戦)で戦死した本多忠豊の嫡子であり、本多父子の墓は徳川に功績があった者だけに許される大亀の墓碑をもちいて築かれ、大学頭林衡(だいがくのかみ はやしたいら)の撰文で顕彰されています。忠豊の墓碑は、安城町赤塚の住宅地の中に建てられています。

安城市教育委員会


本多 忠高(ほんだ ただたか)は、戦国時代の三河国の武将。松平氏の家臣。子に本多忠勝。

本多忠豊の長男として誕生。弟に忠真がいる。

父同様、松平清康や松平広忠に仕えた。天文16年(1547年)、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱を起こした際にも出陣し、また、翌年にも、尾張国の織田信秀が三河国に侵攻すると、今川氏の太原雪斎と広忠は小豆坂にて迎撃し、忠高もそれに従い織田軍と戦い、勝利を収めた(小豆坂の戦い)。

しかし、天文18年(1549年)3月、主君・広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺した。今川氏当主・今川義元は三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れ、腹心の太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点であった安祥城を攻めた(第三次安城合戦)。守将の織田信広は城をよく守ったため、忠高は大久保忠俊らとともに昼夜たがわず攻めたてたが、敵の矢に眉間を貫かれ討死した。

墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)。戦死地の安城市安城町赤塚(安城市歴史博物館横・大乗寺の境内)にも墓碑が建てられている。
(Wikipediaより)

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鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

2023-12-12 | 

鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、 1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。

日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。

寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。

1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。


山門をくぐると本堂が見えて来ます。

 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。
 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く、寺紋に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした。
 明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。
 本堂正面の日蓮坐像は、第十一代将軍家斉公の命により幕府が造立、説法形の口を開けた珍しい像です。


その本堂の右側に、「駿河大納言 徳川忠長公 供養塔」があります。

駿河大納言 徳川忠長公 供養塔

駿河大納言 徳川忠長公(三代目将軍 徳川家光公 弟)は、粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃させられ所領も没収された。
悲歎やるかたない奥方松孝院殿(織田信長 次男 信雄の息女)は、時の当山三世恵眼院日珖上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み追善供養のために当供養塔を建立した。

徳川忠長

1606‐33(慶長11‐寛永10)
江戸前期の大名。幼名国松。世に駿河大納言ともいわれる。2代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。3代将軍家光の弟。甲府20万石にはじまり,1624年(寛永1)甲斐・駿河などで55万石を領し,駿府城に入る。才知にすぐれ父母に寵愛されたため家光にはうとまれたといわれ,また30年ころから乱行が目だったため,31年甲府に蟄居(ちつきよ),翌年上野高崎城に幽閉され,33年自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された。(コトバンクより)


徳川忠長の供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていたため、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺だったそうです。

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岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓

2023-09-16 | 

大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。


西郷頼嗣の墓

初代岡崎城主

次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。
(Wikipediaより)

西郷信貞の墓

4代・岡崎城主

大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。

兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂(七郎右衛門忠茂)の調略によるものとする『三河物語』の記述がある。

岡崎の地を明け渡すと共に娘「於波留」を清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。墓所は大林寺(岡崎市魚町1-6)。法名・泰叟昌安禅定門。

これに対して、村岡幹生が何らかの事情(安祥松平家の内紛か?)によって安祥城を離れていた松平清康が昌安の婿養子に迎えられて岡崎城に入ってこれを継承し、後に安祥松平家を継承したとする新説を唱えている。

子は七郎「昌久」とされ(「干城録」巻2)、また娘は上記・清康の正室のほかに水野忠政の正室がいる(「寛政譜」新訂6巻33項)。
(Wikipediaより)

 

そして、赤穂浪士・矢頭右衛門七教兼の墓までありました。

矢頭右衛門七教兼の墓

矢頭教兼(やとう のりかね、貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は右衛門七(えもしち)。四十七士の中では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。『仮名手本忠臣蔵』の佐藤与茂七(さとう よもしち)のモデルとなった。

吉良邸討ち入り時は表門隊に属し奮戦。また、討ち入り時には父の腰巻を付け戒名を懐に忍ばせていた。三河岡崎藩・水野忠之の芝中屋敷にお預けとなる。水野家では矢頭ら九人を使ってない長屋にまとめて入れ、外から戸障子などを釘付けにし昼夜見張りに巡回させた。「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」「寒気強く候にて臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と義士に厳しい対応をした記録が残る。酒や煙草・火鉢も禁じた。 元禄16年2月4日に水野家臣・杉源助の介錯で切腹した。享年18。他の浪士とともに主君・浅野長矩と同じ芝泉岳寺に葬られた。(Wikipediaより)

後に介錯した源助が当寺に供養塔を建て、菩提を弔ったといいます。


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