日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

於愛の方(西郷局)の菩提寺・宝台院(1)

2024-10-25 | 徳川家康

JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。



山号は金米山。寺号は龍泉寺。




宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母
於愛の方(西郷局)の菩提寺です。

西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。

寛永5年(1628)、秀忠は母の菩提を弔うため寺を現在の場所(常磐町)に移し、その時に寺号も龍泉寺から宝台院と改称しました。以来、宝台院と呼ばれるようになりました。



西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性。父は戸塚忠春という。母は西郷氏(源姓土岐氏流三河西郷氏)。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。
成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。そこを、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれたという。義勝との間に1男1女をもうけている。一説には義勝が最初の夫であるとも言われる。

元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚の菅沼定盈に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。またしても未亡人となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。

やがて、母の弟・西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、秀忠、忠吉を産んだ。

天正17年(1589年)に38歳で死去した。死後の寛永5年(1628年)になって、正一位が贈られた。当時の将軍・徳川家光は孫、翌年即位した明正天皇は曾孫に当たる。

西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。なお、不確定ではあるが西郷局の死因は、罪が不確定のまま殺害された家康の正室・築山殿に仕えていた侍女による暗殺、毒殺という説もある。(Wikipediaより)


 27歳より家康公に仕え、浜松城にあり、三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦い等、家康公が最も苦難にあった時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠の妻だった方です。また、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります。(宝台院HPより)



 宝台院  (金米山宝台院)
宝台院は、徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母 西郷の局(お愛の方)の菩提寺である。
西郷の局は、27歳で家康に仕え、翌天正7年(1579)4月、家康の第3子秀忠を生んだ。家康38歳のときである。
このころ、家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字どおり糟糠の妻であったということができる。
天正14年12月、西郷の局は、長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りした。家康の陰の立て役者として、献身的に仕えた西郷の局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正17年5月、38歳の短い生涯を終った。
後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊をなぐさめた。以来、徳川300年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。
 寺宝 白本尊如来像 (重要文化財) ほか多数
 静岡市

※昨年、大河ドラマ「どうする家康」放送を記念して、宝台院にて特別拝観が実施(9月16日~12月16日)され、重要文化財(白本尊阿弥陀如来・家康公自画像)をはじめとして徳川家所縁の品々が展示された際、それを見に行った友人が本尊画像を送ってくれました。

宝台院の本尊は、白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊と共に家康の守り本尊となった阿弥陀如来立像(国・重要文化財)です。



白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたからと言われています。



本尊の両脇には家康の旗印で使っていた「厭離穢土」「欣求浄土」の文字が並んでいます。(本尊の画像提供:めりい)

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華陽院(2)市姫の墓

2024-10-18 | 徳川家康

源応尼の墓の隣には徳川家康の五女・市姫の墓があります。




市姫(いちひめ、慶長12年1月1日(1607年1月28日) - 慶長15年2月12日[1](1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康(市姫は五女)。母は側室のお梶の方(遠山氏)。
徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康はかつて、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。
慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。しかし慶長15年(1610年)2月12日、市姫は幼くして夭折。野苺を摘んでいた際、毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言われている。
家康は市姫の夭折に嘆き悲しむと同時に、忠宗に対して孫娘の振姫(実父は池田輝政で、生母が家康の次女・督姫)を徳川秀忠の養女として婚約させている。(Wikipediaより)

また、家康の側室・お久の方の墓もあります。








家康お手植えのみかん


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華陽院(1)家康の祖母・源応尼の墓

2024-10-10 | 徳川家康

静岡市葵区鷹匠の華陽院





境内には、徳川家康の祖母・源応尼の墓があります。



源応尼の実名は「お富の方」、または「お万の方」といいます。

明応元年(1492年)誕生した源応尼は、はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生みました。しかし、岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれています。
清康の死後、三河の諸豪族に次々に嫁ぎましたが、夫に先立たれ、駿河国の大名・今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗ります。

竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質として駿府に送られると、竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたりました。
法名は華陽院。

当寺・華陽院は、知源院とよばれていたものを華陽院の法名により改めたもの。


 
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徳川家康公出陣キット

2024-10-02 | 徳川家康

駿府城公園外堀沿いにある駿府ホリノテラスに「徳川家康公出陣キット」のモニュメントがあります。

徳川家康が身に着けた金色の鎧「金陀美具足(きんだみぐそく)」をモチーフにしたものです。

大河ドラマ「どうする家康」でも松本潤さんが身に着ける場面がありましたね。

このモニュメントは、静岡市で盛んなプラモデル生産に因んだ「静岡市プラモデル化計画」の一環でつくられたもので、「徳川家康公出陣キット」と題し、兜や袖、小手など十一のパーツに分かれています。

駿府城公園に行くついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか?😊

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