日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

徳川家康ゆかりの大恩寺(1)

2024-02-18 | 徳川家康

JR東海道本線「愛知御津駅」下車 徒歩約15分のところにある大恩寺

豊川市観光協会HPによると、徳川家康が、何度も訪れたことがある場所と知って、昨年訪ねてみました。

当時の住職、成誉上人(じょうよしょうにん)は家康の叔父に当たり、家康はその叔父に会いに訪れていたそうです。

    大恩寺の創建については、推古天皇の時代(593~628)、三論宗の布教のために高句麗から訪れていた僧の恵灌(えかん)が、御津山の約2㌔北東に位置する新宮山に「浄光院」を建立したのが始まりとされています。それから約700年後の1444年、浄土宗を広めるためにこの地を訪れた茨城県の「弘経寺」(ぐぎょうじ)の僧侶、了暁(りょうぎょう)が、当時荒れ果ててしまっていた寺を再興。浄土宗大運寺を開きました。
 1490年、寺は松平家(のちの徳川家)の4代・松平親忠の援助により御津山の現在地に移され、天文年中(1532~55)には徳川家康の父である8代・広忠によって建物の修復が行われるなど、松平家の手厚い支援を受けました。親忠の息子の超誉上人や、広忠の弟の成誉上人などがこの寺で僧になったことから、松平家にとって大恩があるということで、広忠が寺の名前を大恩寺に改めたといわれています。
 1573年の記録では、江戸時代、家康が叔父の成誉上人に会うために、時折大恩寺を参詣していたことが記されています。『広報みと』(1985)などによれば、家康は本尊の宮殿を造り、さらに広石の中で百石を寄進。御津山全山を寺へ贈ったとされています。
 その後、当地の領主となった三河牧野氏が先祖代々墓をおき、菩提寺として寺を庇護。1553年に念仏堂(国重要文化財・1994年消失)を造営するなどしました。山門はこの牧野家の娘を妻(正室)にした大垣藩主の戸田氏信によって、1672年に寄進されました。
(豊川市観光協会HPより)

 

山門


大恩寺の山門は三間一戸の造りで、幅約7.6m、奥行き4.4m、2階建ての重層門で、県指定文化財となっています。

大恩寺

 大恩寺は、もと三論宗浄光院といい、高麗(一説に百済)の僧恵灌が新宮山に開基し、のちに下総国(現在に千葉県)飯沼の弘径寺第二世了暁上人が新宮山大運寺として再興したとされます。
 了暁上人の後を継いだ肇誉上人は、御津山の現在地に移りましたが、この時徳川松平家の四代親忠が中興に尽くしました。また松平広忠(家康の父)は寺の伽藍藍を修理したほか、寺の名前を浄土真院
御津山大恩寺と改めました。浄土真院は松平清康(家康の祖父)の内室の法号です。境内には、清康夫妻、広忠、亀姫の四つの墓があります。
 また、牛久保の豪族牧野氏は、大恩寺の大檀那として念仏堂を寄進したほか、一族の墓を祀り、越後長岡城主となって以降も、明治に至るまで大恩寺を大切にしました。

「国指定重要文化財」
絹本著色王宮曼荼羅図(大正七年四月八日指定)
親忠が寄進した一軸で、我が国に伝わる高麗仏画の名品といわれ、皇慶元年(1332)の年号と作者名がわかります。

「県指定文化財」
建造物 大恩寺山門(昭和二十九年二月五日指定)
牛久保牧野家の娘の嫁ぎ先である大垣城主戸田釆女正が寛文十二年(1672)に寄進しました。禅宗様式ですが、垂木は平行になっており重厚な造りです。

  絵画  蓮の図(昭和三十三年六月二十一日指定)
  阿弥陀廿五菩薩来迎図(昭和三十三年六月二十一日指定) 
  彫刻  木造阿弥陀如来坐像昭和(三十三年三月二十九日指定)

「市指定文化財」
  古文書  大恩寺文書(平成七年一月二十四日指定)

  豊川市教育委員会

 

本堂

大恩寺会館

鐘楼

 
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蒲郡の竹島 八百富神社(2)

2024-02-09 | 徳川家康

八百富神社と徳川家との関係は深く、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前には徳川家康が参拝し、その後朱印4石8斗を寄進したといわれています。

また、家康が会津の上杉征伐に向かう途中、船で竹島に着き、郷土である内田弥右衛門義隆が蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があり、その際縁起が良いと喜んだそうです。

八百富神社


八安徳天皇の養和元年(1181年)に、藤原俊成によって創建されたと伝えられています。
ご祭神は天照大神が剣を折って霧を出した時に現われたと言われている市杵島姫命で、
開運・安産・縁結の神として知られ、江の島・竹生島・厳島と共に、日本七弁天の中に挙げられています。





八大龍神社 / 祭神 豊玉彦命

藤原俊成の夢に、「永く竹島に遷りて諸人に幸福を与えん」(竹島に長く留まり、全ての人々に幸福を与えなさい)という宣託があり、海底に綱があって引き上げて、ここに祭ったという言い伝えがあり、雨乞いに霊験著しい神様として知られています。
 



帰りの階段の途中で見た景色は・・・



なかなかの絶景でした。





そして対岸の遥拝所へ



ここから竹島を臨むことができます。





八百富神社公式HP参照

 
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岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

2024-01-21 | 徳川家康

龍海院の本堂裏手の墓所には、酒井正親墓のほか、松平広忠後室・真喜姫(田原御前)の墓など、家康ゆかりの方の墓が祀られています。


松平清康
の墓

徳川家康の祖父。信忠の子。大永3 (1523) 年 13歳で家督を継ぎ,翌年西郷弾正左衛門尉信貞を攻めて安祥 (安城) から岡崎に入り,次いで西三河を平定。享禄2 (29) 年牧野伝蔵ら4人兄弟のこもる吉田城を攻め落し,田原に押寄せて東三河も手中に収めた。その後,今川氏に属し天文2 (33) 年三河に進出した信濃の兵と井田野で戦ってこれを敗走させた。同4年 12月織田信秀を討つため尾張森山に陣をしいたが,家臣阿部弥七郎の誤解から不慮の死をとげた。この事件は一般に「森山崩れ」と呼ばれている。(コトバンクより)


酒井雅楽頭正親
の墓

清康、広忠、家康の3代に仕えた家臣。

建立の際、清康が改宗を希望しましたが、松平家の菩提寺である大樹寺が反対をしたため、代わって、酒井正親が檀家となりました。
以来、龍海院は酒井家の菩提寺となっています。

天文11年(1542年)12月、家康の誕生時、へその緒を切る胞刀の役を務めた。
永禄4年(1561)、今川方の吉良義昭の西尾城を攻め、家康から西尾城を与えられた。

 

家康の継母・真喜姫の墓

田原城主・戸田康光の娘。
出身地から田原御前と呼ばれ、天文14年(1545年)於大の方と離縁した松平広忠と結婚。
家康が江戸に国替えした後も岡崎城にとどまりました。

(岡崎ルネサンス、Wikipedia参照)

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岡崎の龍海院(1)是之字寺

2024-01-10 | 徳川家康

東岡崎駅から徒歩3分、駅の近くに建つ龍海院は、享禄3年(1530年)6月、模外惟俊を開山として、徳川家康の祖父・松平清康が創建し、武運長久の祈願寺としました。



家康の父・松平広忠によって再興された岡崎市内の龍渓院が山の近くにあるのに対して、当寺は海側にあるので、龍海院と名付けられたと言われています。

通称「是之字寺(ぜのじでら)」といい、山門や鐘撞き堂・灯籠など、境内のいたるところに「」の文字があります。

清康が20歳の時、元旦の初夢に左手に「是の字」を握る夢を見たので、これを模外和尚に占わせたところ
「是の字を分けると、日の下の人となる。是の字を握るは天下を取ることなり。遅くとも、清康公の三代後までには、必ず、天下人が現れるであろう。」と予言しました。

それを聞いた清康は、模外禅師を初代として龍海院を建立。

その予言どおり、三代後に当たる家康は、1603年に天下統一を果たすことになります。同年9月11日付で家康から朱印状を拝領。

本堂

創建以来、本堂は2度再建されました。

1回目は、家康の関東への国替えに伴い、酒井重忠が武蔵・川越(現在の群馬県前橋市)で龍海院を建立したため、岡崎の龍海院は岡崎城主となった田中吉政によって破却されました。その後、1601年(慶長6年)に本多康重によって再建されています。

2回目は、1945年(昭和20年)の岡崎空襲で山門以外が全焼、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風により墓地が大被害を受け、その後、檀家の支援もあり、1972年(昭和47年)に再建されました。

観音堂

三河三十三観音霊場 第7番


鐘楼

地蔵堂

地蔵堂は、岡崎三十六地蔵第29番礼所です。

岡崎三十六地蔵とは、江戸時代後期、1834年(天保5年)の記録で成立が確認される岡崎城下全長約27㎞の地蔵霊場で、地蔵菩薩を念じればどこにでも現れて、すべての人々に救いの手を差し伸べ、どんな苦難からも救済してくれると信じられており、庶民からの信仰を大いに集めました。

(岡崎ルネサンス、Wikipedia参照))

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家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

2023-12-01 | 徳川家康

鎌倉市扇ガ谷にある英勝寺は、鎌倉唯一の尼寺です。

寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡とされています。

太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、徳川家康の側室です。

家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めました。

家康の死後は落飾して英勝院と称し、3代将軍・家光より扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建しました。

第一世庵主は頼房の娘・小良姫(清因尼)で、以降は水戸徳川家のお姫さまが庵主を務めました。
 
そのため水戸様の尼寺と称され、法要に際しては徳川将軍菩提寺の増上寺などから僧が派遣されました。

1923年の関東大震災で倒壊した山門は市内の他所に移されていましたが、2011(平成23)年に境内の元の場所に再建されました。

 

山門

仏殿

竹林と紅葉のコラボが美しい!

鐘楼

総門前のイチョウが見事でした。

 
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