日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

谷中めぐり(5)瑞輪寺 その弐 大久保主水の墓

2019-04-24 | 

瑞輪寺の墓地には、江戸水道の開設者である大久保主水の墓があります。


 

大久保主水墓(都旧跡)

台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺

名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以降、家康に菓子を献じたという。天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を務めた。元和3年(1617)没。なお、墓への通路脇にある八角形の井戸「大久保主水忠記の井戸」は、天保6年(1835)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。平成23年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。

平成27年3月

台東区教育委員会


また、大沼枕山の墓もあるそうですが、見逃してしまったので、台東区HPより画像をお借りします。

 大沼枕山の墓の画像(台東区HPより)

 大沼枕山墓(台東区史跡)

台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺

大沼枕山は、幕末から明治時代前期にかけて活躍した漢詩人。代表作に『枕山詩鈔』があり、江戸時代最後の漢詩人といわれる。日本漢詩史上重要な人物である。文政元年(1818)、下谷三枚橋付近に生まれる(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)。父の死後、10歳の枕山は尾張(今の愛知県)に身を寄せたが、天保6年(1835)江戸に戻った。漢詩の大家、梁川星厳に出会い、才能が開花する。弘化2年(1845)星厳が江戸を離れたあと、枕山は下谷三枚橋に「下谷吟社」を開き、江戸詩壇の中心となった。枕山は明治維新後も活躍したが、明治24年10月、74歳で死去した。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれる。墓石は安山岩で、高さ145センチ、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられたものである。現在の台東区内に生まれ、住み、不忍池の蓮や、隅田川の月など、江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財である。平成5年に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。

平成21年12月

台東区教育委員会


鐘楼堂

元禄年間(1700年頃)徳川三代将軍・徳川家光の寄進により建立されました。


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大谷吉継の首塚(米原)

2019-01-21 | 

米原にある大谷吉継の首塚を訪ねて来ました。

JR米原駅から徒歩約15分。

米原郵便局を目印に進み、下多良神社の脇の道を通り過ぎて行くと、

IMG_8756 下多良

IMG_8760 吉継

畑の真ん中に祠が見えてきます。

IMG_8762 吉継

大谷吉継は、豊臣秀吉の小姓として信任を得、奉行となって越前敦賀で5万石を拝領。

朝鮮の役に石田三成らとともに参加。

秀吉没後、慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いで西軍石田方として参戦。
小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯で自刃。
家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の僧・祐玄に持たせ、敦賀の逃亡の途中に、この地に埋め隠したといわれています。
吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にしました。

Ōtani_Yoshitsugu

IMG_8764 吉継

IMG_8765 吉継

吉継の首については、諸説あり、自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかったとも。

IMG_8767 吉継

吉継の首塚は、綺麗に整備されていて、今も地元の人に大切に祀られているのがわかりました。 

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妙心寺の塔頭寺院(10)大法院 真田家の墓所~佐久間象山の墓

2017-11-21 | 
大法院の境内には、松代藩の真田家一門や、幕末の松代藩士で攘夷派に暗殺された兵法学者・佐久間象山の墓があります。

墓所入口


真田一族の墓所



真田信之



真田信吉(信之の長男)



真田信利(信吉の次男)



長姫(信吉の長女)



佐久間象山


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山口重信の墓

2016-10-13 | 
続いて、徳川方の山口重信の墓を訪ねてみました。

第二寝屋川を挟んで、木村重成の墓の向かい側に位置しています。

木村重成の墓は八尾市、こちらは東大阪市になります。





山口伊豆守重信の墓

山口重信は元和元年(1615)「大坂夏の陣」の戦いで、徳川方の武将として豊臣方武将木村重成とこの地で戦い共に戦死しました。

この墓は重信の弟、弘隆により正保4年(1647)重信三十三回忌に建てられました。

三メートル角の礎石の上に亀の背(亀趺)が乗りそのうえに高さ三メートル、幅九十センチ、厚さ四十五センチの墓塔が建てられ銘文には若江堤の戦いの様子が幕府、大学頭、林道春(羅山)の文章を石川丈山の篆刻により刻まれており、篆額上には幡龍二尾を鐫した非常に貴重な墓塔です。

周囲の玉垣は重恒(重信の弟)が、燈籠は家臣の山口忠兵衛重成が承応三年(1654)に、花立は弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)にそれぞれ寄進したものです。

本体も碑文も当時のままであります。

平成十六年四月 若江南墓地管理委員会




山口伊豆守重信と若江の戦い

山口家は周防の守護大内氏の流れをくみ、重信の父但馬守重政が徳川家康より常陸国牛久に領地を与えられ大名となりますが、慶長18年(1613)嫡子重信の婚姻をめぐり幕法に反したとして領地を没収されます。

このため、武功を上げて旧に復するべく、元和元年(1615)大坂夏の陣に井伊掃部守直孝率いる徳川軍(兵3200人)に父子で参戦しました。

5月6日早朝、徳川軍は八尾楽音寺を発し。玉串川から若江堤へと進み、若江に布陣していた木村長門守重成率いる豊臣軍(兵4700人)と壮絶な戦闘を繰り広げました。

これが「若江の戦い」です。

この戦いで、先陣を競い合った重信は木村方の飯島三郎右衛門など5騎を討つ功をあげますが、武運拙く26歳の若さで戦死し、一方豊臣軍は木村重成が井伊方の家臣安藤長三郎に討ち取られ撤退しました。

寛永5年(1628)、重信の武功により父重政に牛久など1万5千石が復され、のち次男但馬守弘隆が本領1万石、三男備前守重恒が5千石を継ぎました。

墓は、兄重信の霊を弔うために弟弘隆が正保4年(1647)に墓碑を建立し、その後さらに弟重恒が承応3年(1654)に石柵を建立。家臣の山口忠兵衛重成が同年に石燈籠を寄進、弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)に石花瓶を寄進し、現在の姿となりました。

墓碑前の石柱は若江村庄屋西村九郎兵衛の建立です。

平成17年2月

この墓には、エピソードがあるそうです。



重信の墓が中央から折れて砕けてしまったことがあり、これは重成の怨念だと騒ぎになり、重信の墓を横向きに、重成の墓は後ろ向きにしたそうです。

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木村重成の墓

2016-10-06 | 
八尾市幸町の木村公園に、木村重成の墓があります。





もとはここから東50m地点にあったのですが、 昭和42年第2寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移されたそうです。

  

この墓は、宝暦14年(1764)の重成の150回忌にあたって、重成の首を落とした安藤長三郎の子孫で、彦根藩士・安藤次輝が建てたもので、昭和14年、大阪府の史跡として指定されました。



重成の墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれています。



この左隣りには、重成と同日、戦死した重成の妹婿の山口左馬介の墓もあります。



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