日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

大雲院

2014-08-16 | 織田信長
大雲院は、京都市東山区にある寺院で、通常は非公開。

ねねの道から円山公園に行く途中にあります。





1587年(天正15年)、正親町天皇の命により、貞安が織田信忠の菩提を弔うため、信忠が討たれた二条御所跡に創建したのに始まり、その後、秀吉の政策により寺町四条(下京区)に移転。



その後、1972年(昭和47年)に、島屋京都店増床に伴い、東山区の大倉喜八郎旧邸を買得して現在地に移転。



境内墓地には織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。



五右衛門については、処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁によるのだそう。

また、大雲院という寺院名は、信忠の法名からとっているそうです。

以下、豊臣秀次の供養塔について、京都新聞の記事から抜粋です。

京都市下京区の河原町通四条下ルの発掘調査で、豊臣秀吉の甥(おい)、豊臣秀次(1568~1595年)の供養塔の一部が21日までに見つかった。調査地は、安土桃山時代に寺院「大雲院」が移された場所にあたり、非業の最期を遂げた関白・秀次と大雲院の関連を示す物証となりそうだ。

 調査した民間発掘調査会社のイビソク関西支店(伏見区)が発表した。見つかったのは五輪塔下の基礎部分で幅23センチ、高さ16センチ。鞍馬産の石に「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」の文字が刻まれていた。「道意」は秀次の高野山に入った際の法号で、年号と月日は秀次が切腹した日だった。

 現在、大雲院は祇園にあるが、元来は織田信長の子、信忠が「本能寺の変」の際に自害した二条御所跡に建立された。その後、秀吉の寺町整備で今回の調査地に移された。大雲院は秀次の切腹後、三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献があり、秀次との関係が考えられていた。(2014年8月22日)


記事全文はコチラ
   ↓↓↓

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140821000106


本堂の背後に山鉾を模した祇園閣がそびえています。



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桶狭間の戦い(5)七ツ塚

2014-01-31 | 織田信長
七ツ塚(ななつづか)は、名古屋市緑区桶狭間北2丁目にある史跡です。



勝利を収めた織田信長は、全軍を釜ヶ谷あたりに集め、勝どきをあげ、村人に命じてこのあたりに七つの穴を等間隔に掘らせ、大量の戦死者を埋葬させたといいます。



桶狭間の戦いでの戦死者は、両軍合わせて、約3,500名と言われており、古戦場まつりの万灯会では、3,500本のローソクを灯して供養するそうです。



また、この塚を取り崩したりすると「たたり」があると言われ、命を失った人もいると伝えられています。

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桶狭間の戦い(4)釜ヶ谷

2014-01-24 | 織田信長
釜ヶ谷は、桶狭間の戦いで、織田軍を勝利に導いた重要なポイントで、現在は大学の駐車場になっています。



善照寺砦から中島砦を経て桶狭間に進軍した信長軍が、荒れ狂う雷雨の中、おけはざま山に陣取る今川本陣への突撃のチャンスを待っていた所です。



信長は雷雨が上がると、すかさず今川本陣へ突撃を命じて、今川義元を打ち取り、大勝利を収めました。





信長軍が一気に駆け上がったとい信長坂





頂上付近





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臨渓院

2011-10-07 | 織田信長
臨渓院は、瑞泉寺の塔頭のひとつで、1482年に創建されました。



堂塔は、1565年、織田信長の犬山攻めにより、近隣の寺院とともに消失しましたが、二代目城主・成瀬正虎により再建されました。





山門の東南の高台に、犬山城主・成瀬家の墓所があり、初代正成、正虎、正親、正幸の4基の一族の碑が立ち並んでいるとのことです。

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瑞泉寺

2011-10-06 | 織田信長
犬山の瑞泉寺は、信長、秀吉らに崇敬され、尾張徳永家にも庇護された寺です。



山門



犬山城の門を移築したものといわれています。





 

 当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。室町初期応永年間、犬山の継鹿尾観音の一房で大蔵経を学ぶう ち、内田の人、内田左衛門次郎が自分の山に一寺建立を懇請した。現地を見た禅師は、この山に水が出ないことを知り、弟子蜂屋玄瑞(土岐一族)に命じ岩頭を うたせたところ、清泉がわき出た。
 禅師はその人の「瑞」をとって瑞泉寺と名付け、泉から立ち昇る水気が太陽に映えて龍が昇天するさまに似ていたので、山号 を「青龍」と決めたと伝えられる。禅師は師の無因宗因を開山に勧請し、自らはへりくだって二世となった。
 禅師は以来十年の歳月をかけて、応永二十二年(1415)に大伽藍を完成させた。本堂には朝態山の虚空蔵菩薩を勧請して本尊とした。日峰禅師は在住14年 子弟の育成に当たったが、折から本山妙心寺は取りつぶしとなっていたために、派中で再興の意欲が高まり、その推挙をうけて本山再興に当たることになった。
 禅師は後事を義天・雲谷・桃隠に託して永享五年(1433)本山へ上った。そして十年間を費してこの大業を成就し、妙心寺中興開山と仰がれるに至ったのである。文安五年(1448)正月二十六日妙心寺養源院で示寂された。
禅師のあとは義天・雲谷・桃隠から雪江・景川・悟渓・特芳・東陽などの高僧に引きつがれ、明治に至るまで四派輪住の寺であった。
 当寺は永禄八年(1565)の兵火で焼失したが、織田信長より朱印状を得て再建、次いで、秀吉が寺領五十石を寄せ、その後、尾張徳川家も当寺を被護した。塔頭は判明するだけでも二十四ヵ院を擁した。現在は龍済・龍泉・臥龍・輝東・臨渓・妙喜の六ヵ寺がある。
 鐘楼は古く室町時代明応三年(1494)建立と伝えられ、三猿は左甚五郎の作と伝えられる。山門は犬山城内田御門を移したものである。
(瑞泉寺由緒)











左甚五郎の作と伝えられる鐘楼の三猿







境内からは犬山城が見えます。



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