みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

負傷兵という障害者と、スポーツと、

2016年09月12日 23時32分47秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3860/index.html

http://o.x0.com/m/338979

今日のクローズアップ現代、とても興味深かった。


パラリンピック
生まれつき、病気で、怪我で、戦争で、
なにがしかの障害を持った人たちの、
スポーツと平和の祭典。



障害の有無に関わらず、
スポーツから力をもらえるって人が、
世の中にはいる。

少なくとも、その人たちにとって、スポーツの効能は素晴らしいものだと思う。
体を動かす気持ち良さ、
勝負をするという面白さ、
選手を応援する楽しさ、
負けた時の悔しさ、
勝った時の嬉しさ。など。

スポーツに親近感を持つ人の、
その心さえ澄んでさえいれば、
スポーツは本当に多くの
素晴らしいものをもたらしてくれると思う。


だけど、スポーツの力は強すぎて、
時として、目に見えない何かを歪ませてしまったりもする。

力のある石は人を幸せにすることもあるが、不幸を招くこともよ〜くあるのじゃ。
byポム爺さん

みたいな?



「パラなどで活躍する負傷兵の姿は、他の負傷兵を奮い立たせる」
という、某国の軍の狙いに ひいた。

負傷兵が、
素晴らしい義足や義手を与えられて、
使いこなせるようになって、
また戦場に帰っていく。
という構図も怖い。



負傷兵の社会復帰を促すために、
スポーツに活路を見いだすべく、
負傷兵のための、スポーツの
世界大会などもあるらしい。
その活動も素晴らしいと思う。

けど、

ホントの願いは、その大会に出る人が
1人もいなくなることだ。


オリンピックにもパラリンピックにも、
人殺しが一人も出場していない。


そういう状態になったらと
願わずにはいられないんだにゃあ



「後から言うな」「その場で言えよ」理論について

2016年09月11日 22時00分44秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ。
「後からいうな」「その場で言えよ」理論について、自分は
「まったくそのとーりである!プンスカ!」
と思ってきたけど、最近少し考えが変わってきました。

誰かになにか嫌な事をされたり言われたりした時、相手の事が好きでも嫌いでも、けっこうみんな我慢したり、受け流したりしてると思うんだよね。
「こんな事くらいで、怒りたくない」
「今日1日を楽しく過ごしたい」
多分そんな感じで。

だけど、それが繰り返されたり、積み重なったりしてくると、だんだん我慢も辛くなる。けど
「なんかもう今更かも」
「これが最後かもしれない」
って、もう一踏ん張りしちゃう人も多かろう。

あるいは、しばし我慢してしまったせいで、
「後からいうなよ〜」
「早く言ってよ〜」
「ずっと気にしてたの?小せえ奴だな」
って言われそうで、ますます言えない。
みたいな?

けどね、ちょっと待ってくださいよ。

「早く言ってよ〜」ってか「早く気付いてやれよ」なわけで、
「小せえ奴だな」ってか「鈍い奴だな」なわけで、
こーゆー輩には、今更でも、後からでも、言うしかない。言ってよし。
そんな風に思い始めてます。

それに、その時は感じてなかったけど、後から傷ついてた自分に気付くって事もあるもんね。
そんなに、なんでもかんでも、その場で即座に言えたもんじゃない。

もちろん、誰かに何かを指摘されて
「それなら言わせてもらいますけど〜」
的な、言い返しの材料としてってのはナシだと思うけど。

できるだけ丁寧に、何に傷ついたのか、何が苦手なのか伝えられるようになりたいし、
もし誰かが自分に伝えてくれたなら、「ごめんね」「ありがとう」って言えるようになりたい。

自分はまだまだ未熟だけど、
「後出しじゃんけん大歓迎!」
というスタンスにシフトしていきたいと思ってるんで、そこんとこよろしく。

だにゃあ

相模原の障害者施設の事件をうけて思うこと

2016年07月28日 22時22分55秒 | みう・つれづれ

相模原の障害者施設で起きた事件について考えると、私は自信を持って「あいつとは違う」と言い切れない自分が怖いなと思う。

あの犯人と同じ成分が、自分の中に一滴たりとも存在しないとは言い切れない。というより、間違いなく存在していると感じる。

「意思疎通ができない重度の障害者の人は生きていてもしょうがない」
的なことを、犯人は言ってた。らしい。

それは「(自分と)意思の疎通が出来ない→意思や心がない」って、いつの間にか思い込んでたように思える。
そして、価値があるとか無いとか、自分の感覚だけを信じているみたい。

自分が感じ取れないものを、無いものとして扱ってしまう事は、私は日常茶飯事。

たとえば、シルバーシートにノーマークの若い人が座ってて、向かいにお年寄りが立ってるときとか「君が座ってる必要は無い」と決めつけてしまいがちだ。
自分に理由が見えないってだけで。

ポケモンGOをやってる人に「危ない」「迷惑」(な場合がある)と言うのはともかく、
「くだらない人間」「愚か者」って言い切ってる人も、似たようなもんだと思う。
自分が理解出来ない価値を、あまりにも簡単に軽んじているのが怖い。

全員が同じ価値観を持つ必要はないと思うけど、相容れない価値観を許容することは必要だと思う。

っていうのも、多分うわべの話だと思う。

結局は
「人間の価値、命の価値は、
皆同じで、等しく尊い」
って、曇りなく言えるのか?
ってことなんだと思う。

たとえば、目の前に子供の病人と、老人の病人がいて、私が特効薬を一人分持っていたら、私はあまり迷わないで子供に渡す気がする。

すべての人が等しく尊いと心から思っていたら、きっと選べないはず。
選べてしまう私は、「人の価値、命の価値は、それぞれ異なる」と感じている人間なんだと思う。
それじゃあ、あいつと同じだと思う。




あと、今回の報道で少し気になった点。

いつもは事件の被害者って顔や名前が報道されるけど、今回は「遺族や親族から出さないでほしいと言われたから」って事で、報道を控えてるとのこと。

これまで報道されてきた被害者や関係者の中にも「嫌だな」って人はたくさんいたと思う。
なのに、なぜ今回だけ?

なにかがおかしいと思う。

生まれ変わる

2016年04月25日 08時05分42秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

人間の体のほとんどの細胞は、二週間で入れ替わる(代謝される)と読んだことがある。
(まあ、部位や期間は諸説あるけど)

それなら、今の自分から細胞がほとんど入れ替わったGW明けの自分は、同じ声、同じ顔をしていても、もはや別人という事も出来るのかもしれない。

細胞の入れ替わりって、二週間に一度「せーの!」で入れ替わるわけじゃなく、きっと毎日ジワジワ交代してるわけで、そしたら1日で5%くらいは変わってるんだと思う。

あんなに違う人間とチンパンジーだって、遺伝子レベルでは2%くらいしか違わないらしい。
ほんの2%であの違い。

ってことは、昨日の自分と今の自分だって、もう全然別人かもしれない。

生まれ変わるなんて、ある意味カンタンなのかもね。

にゃあ

無力だけれど

2016年03月03日 01時27分29秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

人の死ぬ話は苦手。
自分と全然関係ないはずの人でも、心臓ギューッと掴まれたみたいに息苦しくなる。

私は常々無力だけど、死んだ人なんて絶対に蘇らせることはできないし、
泣いてる人の涙を止めることはもちろん、拭うこともできない。

ただテンパって、心の内側でジタバタして、想像力が現実に追いつかない事だけはヒリヒリと自覚して、まごまごして、超絶困難なジェンガと対峙してる時みたいに、固まる。
言葉も、身体も、使えなくなる。

普段の減らず口はどこはやら、気の利いた言葉もかけられず、
いつものやんちゃはどこへやら、全関節が動くことを忘れる。
そして、こーゆー態度は相手に「腫れ物に触るみたいな扱いだなぁ」なんて誤解を与えてそうで、また怖くなる。

知らせはいつも後から来るってのも苦手。
その時、自分は何してたかな?って思い出すと、大抵は能天気に過ごしてるから、そういう時の恥ずかしさといたたまれなさも苦手。
それが罪悪感に変わるのも時間の問題。


んで、そーゆーこと、またすぐ忘れて遊ぶ。楽しむ。喜ぶ。幸せ感じる。
油断してると、またニュース飛び込んでくる。

これを繰り返していくんだろうなと思う。

随分と長いこと生きてるのに、まだ慣れない。
折り返し地点まで来てるのに、まだ慣れない。

多分ずっと慣れないから、後半戦ではせめてもう少し役に立つ人間になりたいと思う。

特に今年は「祈らない、願わない」って決めたんだから、にゃあ。

トリコロールが目に沁みる

2015年11月17日 23時11分13秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

パリでのテロを受けて、一部の国では色々なものを自由平等博愛に染め上げています。
これは(もしかしたら個人の所有物を個人の意思でやってる場合もあるのかもしれないけど、他所から見たら)「その国の意見」として受け止められると思います。

そういう意味では、日本の建物をトリコロールに染めるのはあまり好きではありません。

何かに迎合してるようにも見えるし、
何かをないがしろにしてるようにも見えます。

政治的にとか、国的な親密度とか、色々あるのかもしれないけれど、自分は釈然としないのであります。


この哀悼の意の表明方法について、特に気になるのは2点

1つは【パリ市旗でいいのでは?】って事。

パリ市旗とフランス国旗では、意味が異なる気がします。

パリ市旗だった場合、パリでのテロの被害者への哀悼の意がメインに見えるけど、
フランス国旗だと、フランスの味方、
フランスを支持というニュアンスが濃くなるように見えるのは自分だけでしょうか?
この件に関して「国」という単位を持ち出すのは、なんだか怖い気がするのです。


もう1つは、やはり【今回だけ】って事

様々な意味でニュースバリューがあるのは分かるので、日本や欧米で今回だけ特別に報道が多いのは理解できます。

けど、今回だけトリコロールを掲げて、フランスのために祈りを捧げよう。というのは自分の中では違和感があります。

「祈るほどの事じゃない」と言いたいのでありません。
本当に悲惨な事だと思うし、悲しい。
だけど、ピュアに怒りを燃やす事は出来ません。
立ち止まって見回してしまいます。
そして、他のテロなどの被害に対しての扱いの違いに愕然とします。

ちょっとあんまりじゃないかな。

こーゆー扱いの差で、欧米以外のテロの被害者たちを傷つけてしまいそうで怖いです。
空爆の巻き添えを食らった人たちも釈然としないと思います。
テロリストだってますます憎悪を募らせていくと思います。
こーゆー扱いの差が、ジワジワと溝を深めていく気がします。

Aくんが転んでも見ないふり、
Bくんが転んだときだけ「痛いの痛いの飛んでいけ~」

Aくんが虐められても無視、
Bくんが虐められてたら怒る。

こんな事が繰り返されていたとして、
Bくんや、Bくんに親近感を持ってる人がグレたとして誰がそれを責められるのかな?

この先、彼らに対して「話し合おう」という提案が通用するのかな?

こーゆー事の積み重ねが、世界の風通しを悪くしてる気もするのです。


さて、このトリコロール染めを個人レベルにした時の話ですが、それは各自の判断に委ねるしかないと思います。
やってる人は悪いとか、やめるべきって事を言いたいのではありません。
(ここ大事)
自分だって、逆に「やれ」と言われたら困るし。

ただ自分としては、
ほんの数日その国に行っただけで全て理解したかのように「あの国は**だ」と言い切る人や、
たった1人の知り合いを引き合いにして「△△人は〇〇ばかり」と語る人が時々いるように、
結局私たちは自分が希望しようとしまいと色んなものを背負ってしまってるんだと思います。
インターネットとかの中では、自分の言動が「日本人の言動」として受け止められる可能性もある気がします。
その時にトリコロールという手段で哀悼の意を表す事は、自分にはちょっと怖い手段でした。

それに自分が繋がってる人に限っても、各自の背景を知らないし。

普段から地雷踏みがちな自分だけど、こ
の件に関しては慎重になりたい。


そして、
一人一人が熟慮した上で、あるいは何気なく「フランスのために」祈るとき、1つ1つは小さくても、集まった時のエネルギーってすごく大きい気がするのです。
そういうムードに失望したり追い詰められたりしている人々がきっといる。


沢山のトリコロールは善意で行われていると思います。
だけど、
トリコロールでやろうとしている色々な事は、
トリコロールでしかできない事だったのでしょうか?

トリコロールに染めていくことで、自由平等博愛を濁らせてしまうのではないだろうか?

そんなこんなが頭の中を駆け巡って、ポチッとできませんでした。



そして話は少しそれますが、
今回改めて軽く調べてみて、報道されなさ過ぎなテロ被害者の多さに、ひいた。
頻発しすぎて麻痺してる的な事もあるだろうし、危険すぎて取材が難しいのもあるだろうし、視聴率やら購買意欲云々もあるだろうけど、もっと知らせて欲しい。
(そのためには私たちがもっと知りたがる必要もあると思う)

私たちは一億総ジャーナリスト(?)状態で、美味しい物とか楽しい場所とか悲しい事とか、誰でもドンドン発信出来るけど、まだそうじゃないエリアの、そんな余裕がない人たちの声って誰が拾ってくれるの?
まぁ、自分らも空爆とか誤爆とかで一般市民を巻き添えにしてる手前、あの辺りのことは報道しにくいってのもあるだろうけど。

そもそも空爆のような手段を採れるのって、結局 彼らの心のどこかに、親近感や愛国心なんていう甘い言葉で片付けてはいけない選民意識や優越感のようなものが、確かに存在しているように思えてしまう。

だからこそ空爆という彼の地の一般市民を巻き込みかねない方法も採れるんだろうなと。
そしてそれらの巻き添えを「やむをえない犠牲」という一言で片付けたとか片付けてないとか。


パリでのテロを「人類が共有する普遍的な価値への攻撃」だとするなら、
一般市民を巻き込むことが分かってる空爆を5000回も行い、これからも続けていく、増やしていくっていうのは、いったいどういう攻撃なんだろう。

自由平等博愛は自分達だけに授けられた特権だとでも思っているかのような振る舞いだと思えてきてしまうけど、それは平等とは言わないのではないでしょうか。


なんて、どれだけ言葉を紡いでも、むしろ紡ぐほど、自分が思っている事との微妙な溝が埋まらない。
書ききる事も、書き尽くす事もできないんだにゃあ

2015.11.13 パリでテロ

2015年11月15日 18時26分54秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ。

私はシャルリ
とは思えなかった自分です。
スミマセン。

人が人を殺すのは良くない事だし悲しい事だと思います。
だから、今回のテロでなにがしかの被害に遭われたすべての人に寄り添いたい気持ちがあります。
だけど、フランスのために祈るとか思えない自分がいます。

犠牲者に祈りを捧げるというのと、
フランスのために祈りを捧げるというのでは、
全然意味が違うと思うのです。

よくよく考えての行動なんだとは思うのですが、それでも
世界中の著名な人たちが「フランスのために祈りを捧げる」と呟いたり、
FBやランドマークがトリコロールに染まっていったり、
そういった状況に傷つけられている、傷つかなくてもいい人たちが沢山いるような気がします。

そういう傷は、世界に新しい軋轢の芽を産むような気もします。


犠牲者に
被害に遭われた方々に
心からお悔やみ申し上げます。

そして一刻も早く、話し合いのできる世界になる事を願っています。

行き先

2015年06月12日 21時46分01秒 | みう・つれづれ
誰も行ったことのないとこに行きたい。
マニアックなところに行きたい。

一時間前まで自分も思ってた。
けど、違うな。
って、今感じてる。

自分と旅
自分と体験
そーゆーサシの関係なら、大切なのは
自分がまだ行ったことの無い場所。
自分史上未開の地。
とか、
自分とその場所との関係性なんじゃない?

ま、話のネタ的に
同席者が行ったことの無い場所や、マニアックな場所ってのは、それなりに面白いと思う。

けど、
自由を気取った旅好きや旅人が、
次の行き先を決める時に、
次の行き先の付加価値として、
マニアック
とか
知り合い史上初
とか
どんだけ不自由なんだ。
って感ちゃう。

自由ぶってるくせに
行き先のトキメキ指数を、
絶対値じゃなくて
相対値で測ってるみたいでダサいや。

ま、そーゆー価値観自体はアリだと思うけど。
自分の中にもあるけど。

もっと、
耳を塞いで
耳を澄まして
みたらどうかと思う。



だにゃあ

私のセンサー

2015年02月16日 00時52分03秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

昨日「シュガータイム」という本を読み終えた。

初めて小川洋子さんの本を読んだのは、ごく最近。
人質の朗読会
という本で、タイトルと表紙の子鹿の置物に惹かれて購入。
読んでみて、とても面白かったし、こーゆー本を面白いと思えるようになった自分にも驚いた。

ライ麦畑でつかまえて
で二回目の途中棄権をしてからは、何気に挫折感みたいなものすらあって、以後無意識に慎重に芥川賞的な物語を回避し、直木賞的なルートばかり辿ってた。

別にエンタメを否定する気はない。
てか、エンタメ大好き!
純文学ぶって小洒落た曖昧さで読者を煙に巻くようななんちゃって小説なんぞより、スリルとサスペンスとセクシーとバイオレンスとロマンスと汗と涙と青春と労働と部屋とワイシャツと私と愛しさと切なさと心強さに彩られたエンタメ小説の方が 好き!楽しい!好き!

ただ、エンタメはストレートに面白いとか面白くないとか言えるけど、純文学系に対しては、ある種の負い目や引け目みたいなものがあって、「分からない」とは言えても、「面白くない」とか「面白い」とかは言えなかった。


だけど、面白かった。

昨年、遅ればせながら、三回も途中棄権した人間失格をようやく読了したのですが、その時もスイスイ読めた。

別に、新しい日本語を覚えたわけではないし、純文学をなんでも読めるようになったわけでも無いけれど、いつの間にか「読める」物語が増えていたことは、とても嬉しい。


「人質の朗読会」の後、(本屋大賞でガッカリする事が多かったので)読まず嫌いしてた「博士の愛した数式」を読んで、とても良くて、今回の「シュガータイム」に至る。

基本的に好きな感じだったけど、最後の最後に「この文章は蛇足なのでは?」と思う箇所があった。

だけど自分は、自分の感覚というものを信用できない分野や瞬間があって、今回も「小説家のセンセのお書きになった文章に、私なんぞが蛇足だなんだという判断?評価?は間違いに違いない」的なことも感じてしまう。

が、あとがきで別の小説家のセンセが、自分と同じ箇所を指摘しているのを読んで、権威に弱い自分はなんだか安心してしまう。


まだまだだなと思う。

もっとまっすぐ向き合って、感じて、考えて、決めたり、着地したりしたい。


本でも映画でもファッションでも旅でも食事でも、
値段、批評家、ブランド、ぐるなび、賞とかに惑わされたくない。
(参考にはするけど)

「だから良い」なんて思いたくないし、
「でもダメ」みたいに、多勢に反論する事だけでアイデンティティーを作り出すようなこともしたくない。


早く色々なものに対するつまらんコンプレックスから解放されて、くだらん見栄なんぞも捨てて、自分が本当に必要で好ましく思えるものを見定められるようになりたいにゃあ



中三だった

2015年01月17日 16時22分03秒 | みう・つれづれ
やぁ(・ω・)ノ

中三の冬は特別な冬だったなぁ。
別に受験勉強とか頑張ってないし、
キラキラした青春も送ってないし、
素敵な恋に落ちてた訳でもないし、
ホント、自分の身近は普通だった。
けど、特別な冬だったなぁ。

横倒しの高速道路に唖然としたり、
忌野清志郎のヘリコプターに「そうだそうだ」
と、ともにイライラしてみたり、
珍しく真面目に新聞読んだり。

だけど、まだまだ子供で、
テレビで凄まじい映像を見せられて、
「なんてこった!」「大変だ!」「頑張って!」
とか思ったけど、
どこか「遠い場所の出来事」感もあった。
湾岸戦争のミサイル映像に、思わず「キレイ」と思ってしまうような遠さ。
「誰か何とかしてくれ」っていう距離感。

中学生の自分はまだまだ想像力が足りなかったし、
関西ってすごく遠い、自分の意思や力では到底たどり着けない場所だった。


今、自分にとって関西方面は、
その気になればいつでも行ける近所になった。

想像力や共感力も少しはついてきた。
ような気がする。

こーやって、自分の地球が少しずつ小さくなって、
少しずつ少しずつ心を育てていくと、
他人事が減って、時には生きづらく感じたりもするし、
自己嫌悪に陥ってズドーンと落ち込んだりもするけど、
また忘れて遊んだりする。

で、行きたいのに行けない場所がある事を知ったり、
行った先で「ああ、ホントに…」「え?まさか…」を見せつけられたり、
ちょくちょく往復ビンタを食らうような衝撃を受ける。

これを繰り返していくんだろうなと思う。


少し大人になった自分は、20年前に出来なかった事が、3年前には少し出来るようになってた。

「なんてこった!」「大変だ!」
の後に
「何かできることある?」
が続くようになった。


私はこんなに変わったけど、
もう変わらない事もあるし、
今も変わらず闘ってる人もいるわけで…。

みんなの色々が少しでもうまくいけばいいと思う。
生き延びれてよかっと思えるように、
見守る星や千の風が安心出来るように、ね。


香水

2014年12月10日 15時30分00秒 | みう・つれづれ

35才のお祝い
に、自分に香水をプレゼントしようと思っているけど、いいなと思う香りが好きな人のと同じラインで、
「これ買ったら自分、何か終わる」
って気がして、でも一番いいなと思う香りがそれで、とりあえず自分プレゼントに香水はやめよ。と思った。


将来の夢
って、その時々で色々あったり(なかったり)するけど、自分の小5からの夢に
「好きな人に香水をプレゼントされる」
ってのがある。
もちろん、まだ叶っていない。
この先、叶いそうな気もしない。
やっぱり自分で買っちゃうかも。


5年くらい前にマイナンバーワンだった、rose the oneあたりで手を打とうかな。
今の自分には、少し若すぎる香りな気もするけど。



優しさは難しい

2014年11月19日 12時20分39秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

いつから行間を読みすぎるようになったのかな?
と思います。

子供の頃は、言うのも聞くのもストレートでした。
たぶん、周りの子たちよりも、そのストレート期間は長かったと思います。
なかなか成長しないというか、いつまでと空気読まないというか・・・。

でも、だんだん空気とか読めないまでも感じられるようにはなってきます。
が、「どうしてそんなに?」というほど天邪鬼な自分は、読んでも無視とかしてました。

空気を読むより水を差したい。

この病というか性癖は二十歳過ぎまで続きます。
(今でも時々やってしまいますが、昔と違ってウッカリです)

で、なんでそんなに空気を読みたくない、というか、読んでも無視したくなっていたのかというと、幾つか理由があります。

一つは、場の空気が凝り固まっていると、居心地の悪さに我慢できず、水を差したくなる。
これは悪いことばかりじゃないと思ってるけど、上手くできないと逆効果なことが多い気がする。
そして上手くなかったorz

もう一つは「察してチャン」「察してクン」が苦手・・・というか、嫌いだったから。

自分にとって、自分の意見を言うということは、時として勇気がいることだったりします。
そんな自分から見ると、ハッキリ言葉に出さずに自分の意見を通してしまえる「察してチャン」や、うまく察してもらえなかった時も、相手を「察しの悪い奴がいると困るよな~」と言わんばかりの、保身に長けた「察してクン」を見るたびに、かなりズルいというか、ちょっと卑怯というか、すごく羨ましいと思ってました。

だって、自分は上手に「察してチャン」が出来なかったから。
たぶん上手に出来たら、やってたと思います。メッチャやってたと思います。

だけど、大人になる過程で、そういう気持ちはかなり減ってきました。
なぜなら、今でも「読みたくないなぁ」と思わせる人にも出会うけど、そういう人が減ってきたから。
自分の周りにはたくさんの優しい気遣い屋さんがいます。

そーすっと、どういうわけだから「なるべく察して差し上げたい」と思うようになります。
やはり根っからの天邪鬼なのです。

そして、結果として「なんでもいいよ」が苦手になるのです。

「なんでもいいよ」は「なんでもいいわけじゃない」のは有名なお話で、自分は「なんでもいいよ」と言われると、その人の正解を探りたくなる。「かなりいいね」を、見つけたくなる。
たぶん言ってる人も、多くの場合は自分自身の正解が分かってないんだと思います。
「じゃ、ハンバーガーは?」と聞かれて、初めて「それは違う」ってことに気づく。みたいな?

「どっちでもいいよ」も危険です。
こちらは本当にどっちでもいい人も相当数いると思われますが、やはり正解を持っている場合もあります。
しかも、この場合の正解は本人も自覚してるはず(だって二択だし)なので、余計にハードル高いです。

何度となく、この「なんでもいいよ」「どっちでもいいよ」に撃沈する人々を見てきたり、自ら撃沈してきた身としては、これらはかなり怖い言葉です。

もちろん例外もあります。

「自分はどちらのお店も行ったことがあるから、君が選んでいいよ」
「君の方が詳しい分野だと思うから、お任せしてもいいかな?」
などなど、理由のわかる「決めてちょ」は大丈夫。

あと、普段ある程度自分の意見というものを伝えてくれてる人の使う「なんでもいいよ」「どっちでもいいよ」は、大丈夫。重くない。

でも、そういうのばかりじゃないんですよね。
通常の「なんでもいいよ」「どっちでもいいよ」、あるいはそれに似た何かにぶつかった時、自分はいつもプチパニックです。

だって、その人の希望を叶えたい。気持ちを汲み取りたい。そう思うから。
そして、上手に読み取れなかった時、とても落ち込むから。
さらに、上手に読み取れているかの確認がとても難しいから。

「ゆずる」的な優しさは、簡単で楽チンで安全だけど、優しさのようでも時として相手を追い込んだり、息苦しくさせたりすることもあると思う。

だから、自分の意見を伝えてくれる人には本当に感謝してる。
しかも、伝えるけど押し付けたり決めつけたりしない人を尊敬してる。

ありがとうございますますだにゃあ。


明るいバカになる!

2014年10月26日 22時19分39秒 | みう・つれづれ
つづき

アップして、すぐ思った!


自分、もしかしたら
「自分が自分を許したら、他人は自分を許してくれないかも」
って、怖いのかも。

「自分を許してる自分を、他人は許してくれないかも」
って、怖いのかも。

そーやって、ある意味で他人を疑ってるから、
自分を疑う事をやめられないのかもしれない。


でも、友達がずっとウジウジ反省してるより、
テキトーなところでシレッと忘れてくれてる方が気楽な事ってある。
てか、ほとんどがそうだと思う。


人を信じて、自分を許す。

そこ目指してこう。


目標は、明るいバカになる!

かにゃあ

人を許す 自分も許す

2014年10月26日 21時59分05秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ
自分で自分を疑う事が止まりませんorz

自分で出した、自分の中の結論や、
自分の心の中の様子、
そういうものも疑ってしまいます。

何かの過ちを振り返る時とか、
「でも、自分ではいいと思ってやったこと・・・」
いや、本当はちょっぴりマズイかも?って、その時点で思ってなかったか?

「自分は悪意も悪気もなかったし・・・」
じゃあ、純粋に善意だけだったって言える?

自分を誤魔化してないか?
みたいな。


ひと昔前の自分なら、
そーゆー、自分を誤魔化してる人を許せなかったと思う。
けど、今はそーでもない。

記憶なんて、無意識に都合よく書き換えられていくものだと思うし、
自分の中でくらい、自分を正当化していかなかったら、
たぶん心が壊れちゃう。

だから、散々悩んだ挙句に、
その人がその人なりに
自分には理由があったんだ。
自分なりにベストを尽くしたんだ。
と、折り合いをつけることは自然で、普通だと思う。

が、
自分が同じ事をしようとするとザワザワする。

で、
ザワザワする自分って何様だと思う。

自分は別に偉人でもなんでもない、普通の人なのだから、
人に許せることは、自分にも許していいはずなのだ。

だって、それを自分にだけ許さないなんて、なんだかとっても偉そうだもの。

にゃあ?



しあわせのコツ

2014年10月22日 18時21分21秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ。

幸せになるために効果的と思われる5つの行動(?)

つながる
うごく
かんじる
まなぶ
あたえる

だそうで。
これって前々から知ってたはずなのに、
いつのまにか忘れちゃうんだよね。


つながる
やっぱ孤独は幸せの大敵ってことで、友達とか家族とか
関係の名前はさておき、自分にとって大切な人たちと繋がり続ける
ってのは、幸せであるために効果的だよ、と。

うごく
ブルーな時、傷ついた野生動物みたいに、
傷が癒えるまで身じろぎもしないでジッとしてたいけど、
心の傷はそれだけじゃ治らない。
お散歩したり、何か作ったり、とりあえず動く
ってのは、幸せであるために効果的だよ、と。

かんじる
四季の移ろいでも、守衛さんの髪型でも、隣の家の子のピアノの上達具合でも、
そういう変化とかを敏感に感じる
ってのは、幸せであるために効果的だよ、と。

まなぶ
別に学校の勉強じゃなくても、趣味でも何でも学ぶ
ってのは、幸せであるために効果的だよ、と。


ホント、そうだと思う。


一人が好きとか、孤高ってカッコイイとかも思うけど、
孤高か孤独かなんて紙一重だし、
一人の時間も大好きで大切だけど、ずっっっとぼっちでいたいわけじゃない。

体が元気なら、辛い時や苦しい時こそ体を虐め抜いた方がいい。
ヘトヘトになれば充実感あるし、頭は空っぽ。
ドーバー海峡泳ぎ切った後に「最近の悩みは?」とか聞かれても
「え?なんの話?」って感じだと思う。

小さい変化に敏感になれたら、
美味しい!キレイ☆なんじゃこりゃ?ラッキー♪
って、ときめくことや、面白いことが増えるはず。
色々あるけど、何も感じないより1000倍マシ?

何かを学べば、まったく変化無し、上達無しってことはないだろう。
それは充実感や、自信につながる気がする。


そして、あたえる。

人に何かをあげるのって、ホントに楽しい。
プレゼントでも、おみやげでも、笑顔でも、アイデアでも、電車の席でも、
あげるって楽しい。
たまに少々億劫だったり、惜しい気がする時もあるけど、
人のために何かした後は、けっきょく気分がいい。

だから受け取ってくれる人に「ありがとう」って思う。


全部、前から知ってたことなのに、
つらい時こそ忘れちゃうっていう罠orz

でも、思い出せてよかった(^-^)

がんばりたいにゃあ