例えば「差別反対と叫ぶことも、差別をすることも、各々の自由である」という言い分を、差別をなくしたい人と、差別をしたい人(あるいは、これは差別ではないと主張する人)の双方に対する中立的な意見と捉える人もいるらしいが、それは大間違いである。こんなのは差別の放置でしかないわけで、全然中立的な意見ではない。
差別をなくしたい人は、自分が差別したくない&されたくないだけでなく、世の中から差別や、その被害者をなくしたいわけだから、「各々の自由」では意味が無いのである。
色々な局面で「指図をするな」「他者を巻き込むな」という言い分もあるけれど、環境問題とか、銃の規制とか、いじめとか、感染症対策とか、社会的な影響が大きく、被害者が存在するようなことに関しては「各々の自由」というのは中立的意見とはなりえず、それどころか利己主義への加担でしかない。
そういう利己主義や自己チューを、中立風の言い回しや、薄っぺらな両論併記で誤魔化すのは卑怯だ!
と世界の中心で愛の代わりに叫びたい。
そして、だまされるもんかー!と握りこぶしを握りしめる。
「各々の自由」と締めくくることが不向きな案件が世の中にはたくさんある。
面倒くさすぎて思考停止したくなって「もう各々の自由でよくね?」って言っちゃいたくなる時もあるけど、しんどくてもめんどくても、真摯に向き合い考えていかなきゃいけないことが、この世の中にはあるんじゃなかろうかと、コロナ禍の巣籠りにうちで踊らず考えてる。