大濱信泉訓
大濱信泉像
石垣島 大濱信泉記念館
石垣港と大濱信泉記念館
年譜によれば 大濱信泉(おおはまのぶもと)先生は第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)だった。恥ずかしながら石垣島に来るまで大濱先生がこの地の御出身ということを知らなかった。
大濱先生は石垣島で生まれ、沖縄師範学校に進学したが些細なことで退学し、姉上の勧めで早稲田大学を卒業し、民間に就職した後、同大学で教鞭をとり経済法学の分野で業績を上げ1954年に早稲田大学の総長に就任した。大東亜戦争敗戦後、沖縄問題解決促進協議会の代表委員を務めるなど沖縄返還に尽力した。1965年(昭和40年)8月佐藤栄作首相が戦後の総理として初めて沖縄訪問した際に、大濱先生は特別顧問となり同行している。その後、早稲田大学の学費値上げに発した学園紛争により1966年(昭和41年)に総長を辞職した。気概のある人だったとの印象があり、このころのことは朧気ながらも記憶がある。
しかし、大濱先生はその後も沖縄返還諮問委員会の主力として佐藤首相のブレーンとなった。日米の政財界を巻き込み返還の基盤を作った。1969年(昭和44年)11月の日米首脳会談で沖縄返還の原則的合意が成立し、1972年(昭和47年)5月15日に沖縄は日本に返還された。
当時は「核抜き本土並み」は生ぬるいなどとの批判があったが、1945年の敗戦で占領された沖縄は東アジアの戦略上の重要拠点であり、米国は27年後によくぞ返還したものだと思う。ソ連ロシアが終戦直前に不可侵条約を破棄して満州樺太千島に侵攻して占領して殺戮し、何十万の日本兵をシベリアに長期にわたって抑留し死亡させたこと、中共が内戦で千万人単位で殺戮し未だにチベットウイグル香港で弾圧していることを考えると、米国の沖縄返還は奇跡に近い。大濱先生たちや日本政府の返還に係わる努力は苦渋の妥協だった。島嶼出身で沖縄出身者でしか解らない思いが、まずは日本への返還を最優先にしたのだろう。
大濱先生が石垣島を出て、那覇に行き、その後東京に行き学問を続けるに当たっては、島嶼出身者としては肩身の狭いことも多々あっただろうと推測する。
かく言う小生も中学までは淡路島にいて、島内には高校がいくつかあったにも係わらず高校は対岸の明石に進学した。以前から父親が神戸で働いていたことと、1年下の妹が進学するのに合わせてボクの両親ときょうだいの一家は神戸に転居して集合した。その後は関西にも大学がいくつもあったが、大学は仙台か早稲田かという選択をした。
その間、島嶼の出身ということで目に見えない偏見に晒されたりプライドを傷つけられたりしたこともあったが、幸い自分はいい環境に恵まれ大学を終えることが出来た。ただ、中学の同級生も同じように淡路を出てそのまま関西や首都圏に定住している人が多数いる。また、もとの故郷に帰った人もいる。彼らの人生も如何だったか苦労も多かっただろうと想い巡らすことがある。
大濱信泉 訓 「人の価値は生まれた場所によって決まるものではない。いかに努力し自分を磨くかによって決まるものである」
大濱信泉 「老鷲心馳南海空」:老いたる鷲の心は南海の空を馳せる
大濱先生のこれらの言葉が身にしみる。どんな苦境があったのだろうか。学問や仕事に没頭すると偏見や差別がもはや届かなくなる。苦境を前進の力に変えて行ったのだろう。
石垣島 大濱信泉先生生誕の地
石垣島 石垣港
石垣市街を望む
石垣島 北部 川平湾
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます