「こまエコ散歩」は区立駒場体育館の主催で年に二度行われているウォーキングイベントです。すこやか歩こう会では十年以上このイベントをお手伝いしています。
ミライトワとソメイティ
駒場体育館に貼ってあったポスターです。来年のラグビーワールドカップ、2020年の東京オリンピックと世界的なスポーツイベントが目白押しで、体育館の利用者も増えている。のかどうかわかりませんが、体を動かして健康になる人が増えるといいですね。病気になった人のために税金が使われることは必要だと理解していますが、運動をして医療費を抑制している方々への金銭的な支援はもう少しあってもいいんじゃないかと思います。特に体育館の職員をしながら、活動を続けるアスリートが安定した生活を築けるようになるといいですね。
気象予報士の池田洋人さん
エコ散歩で歩く前に「楽しい観天望気のお話」というテーマで、お話されました。「観天望気」はなじみのない言葉ですが、「天気のことわざ」というとなじみ深いでしょうか。いくつか例を挙げてお話されていましたが、中には科学的な裏付けがなくよくわからないものもあるようです。一点資料から抜粋してみましょう。
Q 猫が顔を洗うと、その後、雨になる
【イエスかノーか?】
A ノー??
これも本当かどうか、よく分かっていません。でも、晴れの日が続くと空気が乾燥するので、猫の目や鼻が乾いて、顔を洗って水気を与えるという説もあるようです。
晴が続いたので、近いうちに雨が降るということだそうですが、今度、観察してみてください。
駒場野公園のカリン
駒場体育館は駒場野公園内あります。駒場野公園の開園は昭和61年なので比較的新しい公園と言えるでしょう。近くに駒場公園があり、昭和42年に都立公園として開園し、昭和50年に目黒区へ移管されました。小学生の頃、徒歩遠足で訪れたことがありますが、その頃は都立公園だったのですね。駒場野公園の歴史について目黒区のページから抜粋します。
駒場野公園の歴史
この一帯は、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていました。
明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となりました。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげました。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田んぼ」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒さんによって今でも行われています。
駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転しました。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園です。
駒場野公園のバラ園
淡島通り沿いの駒場野公園は拡張部分で平成19年にオープンしました。駒場バラ園のバラの一部がこちらに移され、駒場バラ会の皆さんがお世話をされています。駒場バラ会について会のホームページから引用します。
駒 場 バ ラ 会 は、目黒区駒場 1丁目に古くからある「駒場ばら園」のバラ達と、バラを愛する心を、この地の文化的財産として保存し、伝えてゆくことを目的とした会です。
「駒場ばら園」は明治44年開園で日本最古のバラ専門店とされ、日本中の愛好家に親しまれています。平成17年に駒場ばら園 は敷地の縮小されることになりました。駒場ばら園とオーナーである入澤夫妻を慕う人たちが中心となって、その縮小を惜しみ、地元の人達の協力を得、目黒区と東京都のご理解と入澤夫妻のご好意を頂いて、縮小部分のバラを「駒場公園」内の旧前田邸西洋館前に移植しました。
その後、バラは、駒場東大正門横、目黒区立駒場小学校、目黒区立第一中学校、渋谷区立加計塚小学校にも寄贈されました。これらの駒場地区のバラを、維持育成して行くためにできたのが『駒場バラ会』です。
目黒川緑道のキバナコスモス
〆切地蔵、筑波大学付属中高、騎兵山遺跡、馬神碑を見て、目黒川緑道を歩きます。こちらの花壇もボランティアの方たちが手入れをして、季節の花々を楽しませてくれます。ちょっと広域の説明になりますが、目黒区のページの「歴史を訪ねて」から駒沢練兵場の項を引用します。
更新日:2013年9月5日
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
兵営が続々と出現
幕末期に持ち上がった駒場野演習場拡張計画は、周辺農民たちの激しい抵抗に遭い、とうとう実現しなかった。いわゆる駒場野一揆の一件である。
しかし、明治政府が富国強兵策を進めるに至って、駒場野周辺は、軍用に適した土地として、再び注目を浴びた。幕末の動乱で、軍事力強化の必要性を痛感していた明治政府は、差し当たって諸外国から自国を守るために軍備を固めた。やがてそれは、アジア大陸への領土拡大をもくろむものへと変わっていった。「富国強兵」の旗の下に、わが国は、軍国主義の道を歩き始めたのである。
明治の初めには、旧大名屋敷が兵営に充てられていたが、明治6年に徴兵令が敷かれて以後、兵隊が増えたこともあって、兵営は郊外へ移転を始めた。また新しい兵営も続々と建てられた。その適地として目をつけられた土地のひとつが駒場野であった。帝国陸軍用地として買収の話が持ち上がったときには、幕末の駒場野一揆のような動きは起きなかった。むしろ、招致運動さえあったという。何の補償も示されなかった幕末のときとは違い、今度は幾ばくかの土地代金が与えられたし、買い上げられた土地の用途は、増強に増強を続ける帝国陸軍の用地である。軍事施設が出来ることによる地元発展への期待も、人びとの中にあったのかもしれない。
最初に現れた軍事施設は、明治24年に移転してきた騎兵第1大隊(のち連隊)の兵営であった。翌年にはその東に、新しく創設された近衛輜重(しちょう)兵大隊第1中隊(のち大隊)が兵営を築いた。輜重(しちょう)兵とは、弾薬や食糧の輸送を任務とする兵隊である。これらの兵営の北、駒場野の一角に駒場練兵場が置かれた。
明治30年、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものだった。その後、駒沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第1連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第8連隊営が続々と建てられた。駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊であった。
三宿辺りのにぎわい
軍事施設が出現して、三宿辺りには兵隊やその家族相手の店や旅館が軒を並べるようになった。兵隊たちが「員数屋」と呼ぶ店には、軍服の肩章やベルトなどこまごました物が並べられ、紛失した兵隊はそこで買い揃えた。
兵営の周辺が、ことににぎわったのは、兵役の交替期であった。兵役を終えた兵隊と家族が再会を喜び、新しく入営する者の親類縁者は「祝入営」と書いたのぼりを立てて見送った。遠くから入営する者は、入営前夜は兵営近くの旅館に家族とともに泊まり、別れを惜しんだ。
つらかった急坂路訓練
駒沢練兵場では、さまざまな訓練が行われたが、東山の傾斜地での急坂路訓練は、大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて、坂を駆け上がり、下りてはまた上がるというものだった。後には牽引車が登場した。馬や牽引車が故障したという想定で、兵隊たちが引き上げるという訓練もした。
急坂路訓練は人にとっても馬にとってもつらい訓練で、鍛えられていたはずの兵隊も恐れたほどという。ときには事故もあったのだろう、東山中学校脇にある馬頭観音には、苫良号と福宮号という2頭の軍馬が祭られている。軍馬は非常に大切にされたのである。
東山公園の紅葉
東山公園は東山小学校周辺、二か所に分かれていますが、こちらの公園にはもともと国土地理院がありました。国土地理院が筑波へ移転した跡地や、統合して空きスペースになった官舎の跡などが、東山公園として整備されました。
東山いちょう通り
南北方向の東山いちょう通りは紅葉が始まっていますが、東西方向の通りはまだ緑色です。南北方向の通りは西側が自衛隊三宿駐屯地で開けていて、日当たりが良いせいでしょう。目黒区のページから東山の項を引用します。
更新日:2014年2月3日
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 東山
古い歴史を持つ地名が次第に姿を消し、忘れ去られていくなかで、今も脈々と生き続け、ときとともにかえってその比重を増していく地名も幾つかある。「東山」は、そんな数少ない地名の一つである。
今日、住居表示としてはもちろん、小・中学校名、さらに住区の名称となって広く知られる「東山」は、もとは、旧目黒六カ村の一つ、上目黒村の小字名。当時の字「東山」は現在よりかなり狭く、また、その地名の由来も、今は地名としては姿を消した。旧上目黒村の中心的集落「宿山」の東方の地という程度の理由から名付けられたものといわれている。
ところで、この「東山」の歴史を語るときに欠かすことができないのは、東山貝塚と旧駒沢練兵場。東山貝塚は、明治の中ごろからその存在を知られていたが、大正15年、土地区画整理の工事中に、現在の東山貝塚公園の南側から縄文時代のタテ穴住居跡や縄文後期を中心とする土器、石器などの遺物が発見され、これが新聞紙上で大きく報道されて、貝塚とともに「東山」の名が一躍知れ渡ることとなった。
また、明治の中ごろから終戦まで、東山の丘陵部のほぼ全域を占めていたのが、旧駒沢練兵場。西は世田谷の三軒茶屋近くにまで及ぶ広大な施設で、旧陸軍の近衛第一師団五千人の将兵が、千三百頭の軍馬とともにこの地で日夜訓練に励んでいた。現在、東山三丁目の大半を占める国家公務員住宅群や防衛庁などの広大な施設は、この練兵場跡に建設されたものである。
このあと菅刈公園、西郷山公園、三田用水跡、松見坂、駒場バラ園、東京大学教養学部をめぐり、駒場野公園に戻りました。エコ散歩秋のお楽しみはなんといっても焼きいも、参加者とともに我々も焼きいもをいただき、秋の味覚を楽しんだウォーキングとなりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
ミライトワとソメイティ
駒場体育館に貼ってあったポスターです。来年のラグビーワールドカップ、2020年の東京オリンピックと世界的なスポーツイベントが目白押しで、体育館の利用者も増えている。のかどうかわかりませんが、体を動かして健康になる人が増えるといいですね。病気になった人のために税金が使われることは必要だと理解していますが、運動をして医療費を抑制している方々への金銭的な支援はもう少しあってもいいんじゃないかと思います。特に体育館の職員をしながら、活動を続けるアスリートが安定した生活を築けるようになるといいですね。
気象予報士の池田洋人さん
エコ散歩で歩く前に「楽しい観天望気のお話」というテーマで、お話されました。「観天望気」はなじみのない言葉ですが、「天気のことわざ」というとなじみ深いでしょうか。いくつか例を挙げてお話されていましたが、中には科学的な裏付けがなくよくわからないものもあるようです。一点資料から抜粋してみましょう。
Q 猫が顔を洗うと、その後、雨になる
【イエスかノーか?】
A ノー??
これも本当かどうか、よく分かっていません。でも、晴れの日が続くと空気が乾燥するので、猫の目や鼻が乾いて、顔を洗って水気を与えるという説もあるようです。
晴が続いたので、近いうちに雨が降るということだそうですが、今度、観察してみてください。
駒場野公園のカリン
駒場体育館は駒場野公園内あります。駒場野公園の開園は昭和61年なので比較的新しい公園と言えるでしょう。近くに駒場公園があり、昭和42年に都立公園として開園し、昭和50年に目黒区へ移管されました。小学生の頃、徒歩遠足で訪れたことがありますが、その頃は都立公園だったのですね。駒場野公園の歴史について目黒区のページから抜粋します。
駒場野公園の歴史
この一帯は、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていました。
明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となりました。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげました。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田んぼ」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒さんによって今でも行われています。
駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転しました。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園です。
駒場野公園のバラ園
淡島通り沿いの駒場野公園は拡張部分で平成19年にオープンしました。駒場バラ園のバラの一部がこちらに移され、駒場バラ会の皆さんがお世話をされています。駒場バラ会について会のホームページから引用します。
駒 場 バ ラ 会 は、目黒区駒場 1丁目に古くからある「駒場ばら園」のバラ達と、バラを愛する心を、この地の文化的財産として保存し、伝えてゆくことを目的とした会です。
「駒場ばら園」は明治44年開園で日本最古のバラ専門店とされ、日本中の愛好家に親しまれています。平成17年に駒場ばら園 は敷地の縮小されることになりました。駒場ばら園とオーナーである入澤夫妻を慕う人たちが中心となって、その縮小を惜しみ、地元の人達の協力を得、目黒区と東京都のご理解と入澤夫妻のご好意を頂いて、縮小部分のバラを「駒場公園」内の旧前田邸西洋館前に移植しました。
その後、バラは、駒場東大正門横、目黒区立駒場小学校、目黒区立第一中学校、渋谷区立加計塚小学校にも寄贈されました。これらの駒場地区のバラを、維持育成して行くためにできたのが『駒場バラ会』です。
目黒川緑道のキバナコスモス
〆切地蔵、筑波大学付属中高、騎兵山遺跡、馬神碑を見て、目黒川緑道を歩きます。こちらの花壇もボランティアの方たちが手入れをして、季節の花々を楽しませてくれます。ちょっと広域の説明になりますが、目黒区のページの「歴史を訪ねて」から駒沢練兵場の項を引用します。
更新日:2013年9月5日
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
兵営が続々と出現
幕末期に持ち上がった駒場野演習場拡張計画は、周辺農民たちの激しい抵抗に遭い、とうとう実現しなかった。いわゆる駒場野一揆の一件である。
しかし、明治政府が富国強兵策を進めるに至って、駒場野周辺は、軍用に適した土地として、再び注目を浴びた。幕末の動乱で、軍事力強化の必要性を痛感していた明治政府は、差し当たって諸外国から自国を守るために軍備を固めた。やがてそれは、アジア大陸への領土拡大をもくろむものへと変わっていった。「富国強兵」の旗の下に、わが国は、軍国主義の道を歩き始めたのである。
明治の初めには、旧大名屋敷が兵営に充てられていたが、明治6年に徴兵令が敷かれて以後、兵隊が増えたこともあって、兵営は郊外へ移転を始めた。また新しい兵営も続々と建てられた。その適地として目をつけられた土地のひとつが駒場野であった。帝国陸軍用地として買収の話が持ち上がったときには、幕末の駒場野一揆のような動きは起きなかった。むしろ、招致運動さえあったという。何の補償も示されなかった幕末のときとは違い、今度は幾ばくかの土地代金が与えられたし、買い上げられた土地の用途は、増強に増強を続ける帝国陸軍の用地である。軍事施設が出来ることによる地元発展への期待も、人びとの中にあったのかもしれない。
最初に現れた軍事施設は、明治24年に移転してきた騎兵第1大隊(のち連隊)の兵営であった。翌年にはその東に、新しく創設された近衛輜重(しちょう)兵大隊第1中隊(のち大隊)が兵営を築いた。輜重(しちょう)兵とは、弾薬や食糧の輸送を任務とする兵隊である。これらの兵営の北、駒場野の一角に駒場練兵場が置かれた。
明治30年、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものだった。その後、駒沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第1連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第8連隊営が続々と建てられた。駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊であった。
三宿辺りのにぎわい
軍事施設が出現して、三宿辺りには兵隊やその家族相手の店や旅館が軒を並べるようになった。兵隊たちが「員数屋」と呼ぶ店には、軍服の肩章やベルトなどこまごました物が並べられ、紛失した兵隊はそこで買い揃えた。
兵営の周辺が、ことににぎわったのは、兵役の交替期であった。兵役を終えた兵隊と家族が再会を喜び、新しく入営する者の親類縁者は「祝入営」と書いたのぼりを立てて見送った。遠くから入営する者は、入営前夜は兵営近くの旅館に家族とともに泊まり、別れを惜しんだ。
つらかった急坂路訓練
駒沢練兵場では、さまざまな訓練が行われたが、東山の傾斜地での急坂路訓練は、大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて、坂を駆け上がり、下りてはまた上がるというものだった。後には牽引車が登場した。馬や牽引車が故障したという想定で、兵隊たちが引き上げるという訓練もした。
急坂路訓練は人にとっても馬にとってもつらい訓練で、鍛えられていたはずの兵隊も恐れたほどという。ときには事故もあったのだろう、東山中学校脇にある馬頭観音には、苫良号と福宮号という2頭の軍馬が祭られている。軍馬は非常に大切にされたのである。
東山公園の紅葉
東山公園は東山小学校周辺、二か所に分かれていますが、こちらの公園にはもともと国土地理院がありました。国土地理院が筑波へ移転した跡地や、統合して空きスペースになった官舎の跡などが、東山公園として整備されました。
東山いちょう通り
南北方向の東山いちょう通りは紅葉が始まっていますが、東西方向の通りはまだ緑色です。南北方向の通りは西側が自衛隊三宿駐屯地で開けていて、日当たりが良いせいでしょう。目黒区のページから東山の項を引用します。
更新日:2014年2月3日
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 東山
古い歴史を持つ地名が次第に姿を消し、忘れ去られていくなかで、今も脈々と生き続け、ときとともにかえってその比重を増していく地名も幾つかある。「東山」は、そんな数少ない地名の一つである。
今日、住居表示としてはもちろん、小・中学校名、さらに住区の名称となって広く知られる「東山」は、もとは、旧目黒六カ村の一つ、上目黒村の小字名。当時の字「東山」は現在よりかなり狭く、また、その地名の由来も、今は地名としては姿を消した。旧上目黒村の中心的集落「宿山」の東方の地という程度の理由から名付けられたものといわれている。
ところで、この「東山」の歴史を語るときに欠かすことができないのは、東山貝塚と旧駒沢練兵場。東山貝塚は、明治の中ごろからその存在を知られていたが、大正15年、土地区画整理の工事中に、現在の東山貝塚公園の南側から縄文時代のタテ穴住居跡や縄文後期を中心とする土器、石器などの遺物が発見され、これが新聞紙上で大きく報道されて、貝塚とともに「東山」の名が一躍知れ渡ることとなった。
また、明治の中ごろから終戦まで、東山の丘陵部のほぼ全域を占めていたのが、旧駒沢練兵場。西は世田谷の三軒茶屋近くにまで及ぶ広大な施設で、旧陸軍の近衛第一師団五千人の将兵が、千三百頭の軍馬とともにこの地で日夜訓練に励んでいた。現在、東山三丁目の大半を占める国家公務員住宅群や防衛庁などの広大な施設は、この練兵場跡に建設されたものである。
このあと菅刈公園、西郷山公園、三田用水跡、松見坂、駒場バラ園、東京大学教養学部をめぐり、駒場野公園に戻りました。エコ散歩秋のお楽しみはなんといっても焼きいも、参加者とともに我々も焼きいもをいただき、秋の味覚を楽しんだウォーキングとなりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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