野川シリーズの第三弾で、先日下見の様子を報告しました。この日は本番です。
新型特急あずさ
中目黒GTに集合し、東横線→副都心線で新宿三丁目。歩いて新宿駅へ行き、中央線快速ホームで待っていると真新しい列車が入線してきました。中央本線のスーパーあずさの車両でE353、2017年12月23日から営業運転を始めているので一年もたっていません。去年の秋の旅行が信州原村だったから、その時にはまだ導入されていなかった車両です。Wikipediaから引用しようにも、専門的なことが多くよくわからないのでほんの一部だけ引用します。
車体塗色は、南アルプスの雪をイメージした「アルパインホワイト」を基本に「あずさ」伝統の「あずさバイオレット」の細帯を側面に配している。前面は「ストリームブラック」、側窓周りは松本城の青みがかった漆黒をイメージした「キャッスルグレー」である。
神輿
山車
国分寺駅周辺ではお祭りが行われており、神輿の担ぎ手は大人で帽子に「本」と書いてあるようです。
国分寺崖線の坂
国分寺崖線の崖に家を建てるために多摩川から運んだ玉石で石垣を作っているものと思われます。
鞍尾根橋から見た野川
野川
この日は日曜日で暑かったので、野川に入って遊ぶ家族ずれが多く見られました。国分寺崖線から染み出る湧水を集めた野川に入って遊べるのは贅沢ですね。
小金井大勝軒
貫井大橋
新小金井街道沿いの大きなお店です。「小金井」という地名も国分寺崖線のハケに由来するという説があります。Wikipediaから引用します。
小金井の由来について複数の説がある。一つは市の「はけ」(崖のこと)南側を金井原と呼んでいたものを「こがねいはら」と読んだというもの。もう一つは「はけ」に沿って黄金(こがね)に値する豊富な湧水があるのを「黄金の井」や「こがね井」と称したというものである。
栗
前原小付近の旧野川
暑いといっても日暮れは早くなり、夜になると虫の声が聞こえ確実に秋がやってきています。この栗もその証拠の一つでしょう。前原小学校は野川を暗渠にしてその上に校庭を設けています。脇に一世代前の野川といった感じの流れの跡があり、現在は遊歩道になっていますが、水は流れていませんでした。
広い空
小金井街道を横断し、小金井自動車教習所を過ぎると川幅が広くなり、元の川原はかなり広かったものと想像できます。このあたりまで来ると空が広くなり気持ちがいい!
ススキ
キクイモ
都立武蔵野公園に入り、BBQをやっている人などが増えてきました。通勤にはちょっと不便かもしれませんが、こんな公園に歩いてこられる場所に住むことは贅沢ですね。
着陸態勢の双発機
都立野川公園
公園についてむさしのの都立公園というページから引用します。
公園の概要
豊かな水と緑に恵まれた野趣に富む公園です。野川公園の前身は、国際基督教大学のゴルフ場です。昭和49年からゴルフ場を買収し、その周辺の神代植物公園、武蔵野公園、多磨霊園、調布飛行場、浅間山公園、府中の森公園などの緑地を含め「武蔵野の森構想」のもとに造成を行い、昭和55年6月に開園しました。 この公園は、調布、小金井、三鷹の三市にまたがり、野川と都道246号線(東八道路)とで三つの地区に分かれています。国分寺崖線に接し、豊かな自然が残されている野川の北側、野川と都道にはさまれた起伏のある芝生広場、そして広々とした芝生広場とテニスコート・アスレチックのある南側。 緑にひたり、のびのびした気分を味わうことができます。
自然観察園
数少ない貴重な植物群落の学習の場として昭和63年6月に一般開放されました。 園内には昔、多摩川が武蔵野の台地を削ってできた河岸段丘「国分寺崖線」があります。この崖下からは地下水が湧き出していて、四季折々の野草や野鳥、昆虫などが見られ自然の宝庫となっています。また、自然観察園の対岸にある自然観察センターでは、野川や国分寺崖線を中心とした自然と人文についての展示、解説のほか、自然観察会などの催物を行っています。 この貴重な自然を守り、維持管理作業をしているのがボランティアで、現在約100名が四季を通して活躍しています。(定休日:月曜日※但し祝日の場合は翌日/開園時間:9時30分~16時30分)
大沢山龍源寺
新撰組局長近藤勇のお墓があるお寺です。三鷹市の西の端にあたり、小金井市、調布市、府中市との市境が複雑に入り組んでいます。
掩体壕
調布飛行場
飛行場についてやや長めにWikipediaから引用します。
開設
1941年(昭和16年)4月30日、竣工式が行われ、東京府によって現在の位置に公共用飛行場として開設された。そのときの名称は「東京調布飛行場」で、これが現在の「東京都調布飛行場」の前身である。開設当初は現在の滑走路とほぼ同じ位置のメイン滑走路(全長1000 m・幅80 m)とメイン滑走路の南端近くで交わる東西方向の横風用滑走路(全長675 m・幅80 m)との合計2本のコンクリート舗装滑走路が存在した。
大戦中
太平洋戦争中は、もっぱら日本陸軍が使用した。特に1942年(昭和17年)のドーリットル空襲以降は帝都防空拠点として重要視されるようになり、南は現在の味の素スタジアムのあたり、西は現在の警視庁警察学校のあたりまでそれぞれ拡張され、未舗装の滑走地帯となった。
第二次世界大戦末期には、首都圏に飛来するボーイングB-29爆撃機などを撃退するために戦闘機隊が配備された。中でも有名なのは三式戦闘機を装備した飛行第244戦隊で、京浜地区の空襲のたびに出動しB-29に体当たりするなどして戦果を挙げているが、沖縄戦が始まると同戦隊は特攻作戦支援のために九州へ移動したため、調布飛行場には偵察機だけが残された。
アメリカ軍による占領
第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20年)9月、調布飛行場は日本を占領下に置いた連合国軍の主力であるアメリカ軍によって接収された。舗装滑走路は飛行場として使用され、戦時中に拡張された未舗装の西側地区は当初、アメリカ軍の水耕農場(人糞堆肥を用いない衛生的野菜の生産場)とされた。また、これら物資輸送のため、西武多摩川線から専用線が引かれていた。なおその後、その専用線は廃線となる。
1952年(昭和27年)になると対日講和条約と日米安保条約が発効し、それに伴って日米安全保障条約付随の日米行政協定により、飛行場とともに「調布水耕農園(施設番号 FAC 3702)」の名称で接収財産から提供施設区域に切り替えられた。
その後、東京都渋谷区にあったアメリカ軍兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」が1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催にあわせて日本に返還されることになったことから、代替住宅施設が建設され、「関東村住宅地区及び補助飛行場」と名称変更された。
返還
1954年(昭和29年)8月、飛行場の日米共同使用がアメリカ側から認められた。
1955年(昭和30年)2月、飛行場地区の一部が日本に返還され、国(運輸省)の管理によって場外離着陸場として運用されるようになった。
1972年(昭和47年)2月、地元の三鷹・府中・調布の3市は、全面返還後の利用などについて協議するために、市長及び市議会議長で構成する「調布基地対策連絡協議会(略称「六者協」)」を結成。同年4月、東京都は継続使用を求める日本国政府に対し3年以内に代替空港の選定及び移転をすることを条件に暫定使用を了承した。
1973年(昭和48年)3月、飛行場地区が日本に全面返還された。
その後約10年にわたり政府(運輸省、現国土交通省)、東京都及び六者協の間で返還後の跡地の利用について協議・折衝が繰り返される。
その間、1979年(昭和54年)3月には、新中央航空が調布 - 新島間の不定期便運航を開始。更に1984年(昭和59年)12月には調布 - 大島間が、そして1992年(平成4年)7月には調布 - 神津島間の不定期便が運航されるようになった。
荒井由実は中央フリーウェイの中で「調布基地」と歌っています。この曲が含まれるアルバム「十四番目の月」がリリースされたのが1976年なのでその時点では、調布飛行場が正しい呼ばれ方でした。中央フリーウェイはいつの時代を歌ったものでしょう?
曲の中で中央自動車道を走る車を運転しているのは松任谷正孝氏です。ユーミンのファーストアルバム「ひこうき雲」は1973年11月にリリースされていますが、一年以上の歳月をかけて丁寧に作られています。その制作にキーボードとして参加していたのが松任谷氏で、ひこうき雲のレコーディング中から二人は付き合うことになりました。松任谷氏がユーミンの実家がある八王子まで車を飛ばした1972年から1973年にかけては、調布基地の返還という話題はホットなテーマだったのかもしれません。
また曲の中で「この道はまるで滑走路」というフレーズが繰り返されるので、歌いだしに「調布飛行場」を持ってきたのでは、表現がストレートすぎるのかもしれませんね。中央自動車道の調布・八王子間は1967年12月開業なので、調布基地と同時に存在していたのはわずか6年となります。
都立武蔵野の森公園
こちらでストレッチをして解散となりました。午後になって日差しが強くなり、ストレッチ用に見つけた木陰では池の鴨たちも涼んでいました。にぎやかな団体が、鴨たちの休息を邪魔してしまったかもしれませんね。
反省会場所の候補はいろいろあったのですが、中目黒まで帰ってきて串カツ田中でささやかな会となりました。食事後ONCEへ移動し、秋場所初日の様子を大画面で見ながら、ついつい飲みすぎました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
新型特急あずさ
中目黒GTに集合し、東横線→副都心線で新宿三丁目。歩いて新宿駅へ行き、中央線快速ホームで待っていると真新しい列車が入線してきました。中央本線のスーパーあずさの車両でE353、2017年12月23日から営業運転を始めているので一年もたっていません。去年の秋の旅行が信州原村だったから、その時にはまだ導入されていなかった車両です。Wikipediaから引用しようにも、専門的なことが多くよくわからないのでほんの一部だけ引用します。
車体塗色は、南アルプスの雪をイメージした「アルパインホワイト」を基本に「あずさ」伝統の「あずさバイオレット」の細帯を側面に配している。前面は「ストリームブラック」、側窓周りは松本城の青みがかった漆黒をイメージした「キャッスルグレー」である。
神輿
山車
国分寺駅周辺ではお祭りが行われており、神輿の担ぎ手は大人で帽子に「本」と書いてあるようです。
国分寺崖線の坂
国分寺崖線の崖に家を建てるために多摩川から運んだ玉石で石垣を作っているものと思われます。
鞍尾根橋から見た野川
野川
この日は日曜日で暑かったので、野川に入って遊ぶ家族ずれが多く見られました。国分寺崖線から染み出る湧水を集めた野川に入って遊べるのは贅沢ですね。
小金井大勝軒
貫井大橋
新小金井街道沿いの大きなお店です。「小金井」という地名も国分寺崖線のハケに由来するという説があります。Wikipediaから引用します。
小金井の由来について複数の説がある。一つは市の「はけ」(崖のこと)南側を金井原と呼んでいたものを「こがねいはら」と読んだというもの。もう一つは「はけ」に沿って黄金(こがね)に値する豊富な湧水があるのを「黄金の井」や「こがね井」と称したというものである。
栗
前原小付近の旧野川
暑いといっても日暮れは早くなり、夜になると虫の声が聞こえ確実に秋がやってきています。この栗もその証拠の一つでしょう。前原小学校は野川を暗渠にしてその上に校庭を設けています。脇に一世代前の野川といった感じの流れの跡があり、現在は遊歩道になっていますが、水は流れていませんでした。
広い空
小金井街道を横断し、小金井自動車教習所を過ぎると川幅が広くなり、元の川原はかなり広かったものと想像できます。このあたりまで来ると空が広くなり気持ちがいい!
ススキ
キクイモ
都立武蔵野公園に入り、BBQをやっている人などが増えてきました。通勤にはちょっと不便かもしれませんが、こんな公園に歩いてこられる場所に住むことは贅沢ですね。
着陸態勢の双発機
都立野川公園
公園についてむさしのの都立公園というページから引用します。
公園の概要
豊かな水と緑に恵まれた野趣に富む公園です。野川公園の前身は、国際基督教大学のゴルフ場です。昭和49年からゴルフ場を買収し、その周辺の神代植物公園、武蔵野公園、多磨霊園、調布飛行場、浅間山公園、府中の森公園などの緑地を含め「武蔵野の森構想」のもとに造成を行い、昭和55年6月に開園しました。 この公園は、調布、小金井、三鷹の三市にまたがり、野川と都道246号線(東八道路)とで三つの地区に分かれています。国分寺崖線に接し、豊かな自然が残されている野川の北側、野川と都道にはさまれた起伏のある芝生広場、そして広々とした芝生広場とテニスコート・アスレチックのある南側。 緑にひたり、のびのびした気分を味わうことができます。
自然観察園
数少ない貴重な植物群落の学習の場として昭和63年6月に一般開放されました。 園内には昔、多摩川が武蔵野の台地を削ってできた河岸段丘「国分寺崖線」があります。この崖下からは地下水が湧き出していて、四季折々の野草や野鳥、昆虫などが見られ自然の宝庫となっています。また、自然観察園の対岸にある自然観察センターでは、野川や国分寺崖線を中心とした自然と人文についての展示、解説のほか、自然観察会などの催物を行っています。 この貴重な自然を守り、維持管理作業をしているのがボランティアで、現在約100名が四季を通して活躍しています。(定休日:月曜日※但し祝日の場合は翌日/開園時間:9時30分~16時30分)
大沢山龍源寺
新撰組局長近藤勇のお墓があるお寺です。三鷹市の西の端にあたり、小金井市、調布市、府中市との市境が複雑に入り組んでいます。
掩体壕
調布飛行場
飛行場についてやや長めにWikipediaから引用します。
開設
1941年(昭和16年)4月30日、竣工式が行われ、東京府によって現在の位置に公共用飛行場として開設された。そのときの名称は「東京調布飛行場」で、これが現在の「東京都調布飛行場」の前身である。開設当初は現在の滑走路とほぼ同じ位置のメイン滑走路(全長1000 m・幅80 m)とメイン滑走路の南端近くで交わる東西方向の横風用滑走路(全長675 m・幅80 m)との合計2本のコンクリート舗装滑走路が存在した。
大戦中
太平洋戦争中は、もっぱら日本陸軍が使用した。特に1942年(昭和17年)のドーリットル空襲以降は帝都防空拠点として重要視されるようになり、南は現在の味の素スタジアムのあたり、西は現在の警視庁警察学校のあたりまでそれぞれ拡張され、未舗装の滑走地帯となった。
第二次世界大戦末期には、首都圏に飛来するボーイングB-29爆撃機などを撃退するために戦闘機隊が配備された。中でも有名なのは三式戦闘機を装備した飛行第244戦隊で、京浜地区の空襲のたびに出動しB-29に体当たりするなどして戦果を挙げているが、沖縄戦が始まると同戦隊は特攻作戦支援のために九州へ移動したため、調布飛行場には偵察機だけが残された。
アメリカ軍による占領
第二次世界大戦敗戦後の1945年(昭和20年)9月、調布飛行場は日本を占領下に置いた連合国軍の主力であるアメリカ軍によって接収された。舗装滑走路は飛行場として使用され、戦時中に拡張された未舗装の西側地区は当初、アメリカ軍の水耕農場(人糞堆肥を用いない衛生的野菜の生産場)とされた。また、これら物資輸送のため、西武多摩川線から専用線が引かれていた。なおその後、その専用線は廃線となる。
1952年(昭和27年)になると対日講和条約と日米安保条約が発効し、それに伴って日米安全保障条約付随の日米行政協定により、飛行場とともに「調布水耕農園(施設番号 FAC 3702)」の名称で接収財産から提供施設区域に切り替えられた。
その後、東京都渋谷区にあったアメリカ軍兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」が1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催にあわせて日本に返還されることになったことから、代替住宅施設が建設され、「関東村住宅地区及び補助飛行場」と名称変更された。
返還
1954年(昭和29年)8月、飛行場の日米共同使用がアメリカ側から認められた。
1955年(昭和30年)2月、飛行場地区の一部が日本に返還され、国(運輸省)の管理によって場外離着陸場として運用されるようになった。
1972年(昭和47年)2月、地元の三鷹・府中・調布の3市は、全面返還後の利用などについて協議するために、市長及び市議会議長で構成する「調布基地対策連絡協議会(略称「六者協」)」を結成。同年4月、東京都は継続使用を求める日本国政府に対し3年以内に代替空港の選定及び移転をすることを条件に暫定使用を了承した。
1973年(昭和48年)3月、飛行場地区が日本に全面返還された。
その後約10年にわたり政府(運輸省、現国土交通省)、東京都及び六者協の間で返還後の跡地の利用について協議・折衝が繰り返される。
その間、1979年(昭和54年)3月には、新中央航空が調布 - 新島間の不定期便運航を開始。更に1984年(昭和59年)12月には調布 - 大島間が、そして1992年(平成4年)7月には調布 - 神津島間の不定期便が運航されるようになった。
荒井由実は中央フリーウェイの中で「調布基地」と歌っています。この曲が含まれるアルバム「十四番目の月」がリリースされたのが1976年なのでその時点では、調布飛行場が正しい呼ばれ方でした。中央フリーウェイはいつの時代を歌ったものでしょう?
曲の中で中央自動車道を走る車を運転しているのは松任谷正孝氏です。ユーミンのファーストアルバム「ひこうき雲」は1973年11月にリリースされていますが、一年以上の歳月をかけて丁寧に作られています。その制作にキーボードとして参加していたのが松任谷氏で、ひこうき雲のレコーディング中から二人は付き合うことになりました。松任谷氏がユーミンの実家がある八王子まで車を飛ばした1972年から1973年にかけては、調布基地の返還という話題はホットなテーマだったのかもしれません。
また曲の中で「この道はまるで滑走路」というフレーズが繰り返されるので、歌いだしに「調布飛行場」を持ってきたのでは、表現がストレートすぎるのかもしれませんね。中央自動車道の調布・八王子間は1967年12月開業なので、調布基地と同時に存在していたのはわずか6年となります。
都立武蔵野の森公園
こちらでストレッチをして解散となりました。午後になって日差しが強くなり、ストレッチ用に見つけた木陰では池の鴨たちも涼んでいました。にぎやかな団体が、鴨たちの休息を邪魔してしまったかもしれませんね。
反省会場所の候補はいろいろあったのですが、中目黒まで帰ってきて串カツ田中でささやかな会となりました。食事後ONCEへ移動し、秋場所初日の様子を大画面で見ながら、ついつい飲みすぎました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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すこやか歩こう会活動スケジュール
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