今年二度目の七福神巡りは寒中、節分の前日でした。二月の初回に七福神巡りを行うので、いつも節分前後になるのですが、当日にあたってしまうと豆まきをする寺社もあるので、節分前でちょうどよかったです。
茗荷坂
中目黒→東横・副都心線→池袋→丸ノ内線→茗荷谷と乗り継いできました。高校生の時は後楽園駅を利用していて、中目黒から霞ヶ関経由だったので茗荷谷へ行くときもそのルートが浮かんできます。乗換案内で一番に表示されていたのが池袋経由で、乗車時間22分。霞ヶ関経由だと29分なので池袋経由が最早です。料金はPASMOで払うとどちらも237円ですが、切符を買うと池袋経由が330円で、霞ヶ関経由が240円です。副都心線と東横線が接続してから、PASMO利用は不思議な料金になっています。鉄道会社間ではどのように割り振りしているのでしょう?副都心線と接続して東横線の乗客も増えているので、東急としては細かいことは気にしないのかな?
この日のウォーキングでは茗荷谷駅から茗荷坂を下りてゆきます。このあたりに茗荷が自生していたのだろうと思って文京区のホームページで検索すると、意に反して「29年度ロケ撮影協力実績」というタイトルのページが引っかかりました。引用します。
孤独のグルメseason6 第11話「東京都文京区茗荷谷の冷やしタンタン麺と回鍋肉」
テレビ東京で長年人気のグルメドラマ「孤独のグルメ」に撮影協力しました!
現在season6を迎えた本ドラマ、毎回松重豊さん演じるサラリーマンが仕事の合間に様々な地域の飲食店で食事を楽しみます。今回は文京区の茗荷谷エリアを訪れ、飲食店に加え駅周辺や播磨坂等をめぐります。
撮影の詳細は以下の通りです。
【撮影日】平成29年5月30日(火曜日)
【放送日】平成29年6月24日(土曜日)0時12分~0時52分(23日(金曜日)深夜)予定
【放送局】テレビ東京
【撮影場所】茗荷谷駅及び小石川エリア、文京シビックセンター25階展望ラウンジ
目黒区での撮影許可は結構なお役所仕事で土日は受け付けないようなニュアンスで書かれていますが、文京区はホーム>文化・観光・スポーツ>文京の観光案内>観光に関する計画・事業等>フィルムコミッション事業(区内ロケーション撮影の支援)>ロケ撮影協力実績>29年度ロケ撮影協力実績といった感じで、積極的に撮影を受け入れているようです。見習うべきですよね。
茗荷谷町については、Wikipediaから引用します。
旧茗荷谷町は、小石川台地と小日向台地の間の浅い谷が「茗荷谷」と呼ばれていて、江戸時代、茗荷畑が多かったからといわれており、この町名は、この「茗荷谷」からとったものである。なお、現在は茗荷の本格的な栽培は行われていないが、拓殖大学文京キャンパスの脇の小さな畑で、茗荷が栽培されている。また、茗荷谷駅もこの町名から名付けられている。呼び方として、小石川區史にはめうがだにちょう(旧仮名遣い)と書かれていた。
しばられ地蔵(林泉寺)
茗荷坂を下りてゆくと左側に林泉寺があり、その墓地にしばられ地蔵があります。大岡越前のお話で有名ですね。しばられ地蔵は都内にいくつかあるようで、有名なのは葛飾区の南蔵院です。南蔵院のホームページから引用します。
しばられ地蔵とは What's Shibararejizo ?
しばられ地蔵尊は、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄14年(西暦1701年)の造立と伝えられています。「文政寺社書上」によると、この地蔵尊は諸願成就、殊に難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと記されています。
毎年12月31日(大晦日)の夜、しばられ地蔵尊の縄解き供養が行われます。また、大晦日と元日には厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を結ぶ開運の縁起「結びだるま市」が開かれます。
しばられ地蔵の由来
江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。
調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。
かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。
頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。
手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。
越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。
以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
縄解き供養
12月31日午後11時からは、南蔵院住職による「願かけしばられ地蔵尊」の縄解き供養が行われ、解かれた縄は祈祷護摩の火でお焚き上げされます。
もうじき年も明けようという頃、住職が除夜の一番鐘を撞き、年が改まったところで地蔵尊に新年の一番縄が結ばれます。
参詣の人々は、一年に一度縄を解かれた地蔵尊のお姿を拝み、除夜の鐘を撞き、そして新たに地蔵尊に願かけの縄を結び、新年の願いを託すのです。
ご供養の間、住職、衆僧により聲明が唱えられ、境内に新設された舞台では「伶楽舎」による雅楽の演奏が行われます。荘厳な音の世界に浸りながら、新年を迎える儀式が執り行われます。
拓殖大学
深光寺(恵比寿)
滝沢馬琴の墓
七福神の一つ目は恵比寿様。希望者はこちらで小石川七福神案内帳を100円で購入しました。スタンプ帳になっていてますが、七福神めぐりの期間は終わってしまっているので、すべてのスタンプが埋まるわけではありません。
釈迦坂
徳雲寺(弁財天)
こちらの男弁財天は御開帳されていないので、お姿を確認することはできません。撮影禁止となっているので、御開帳されていたもご紹介できないのですが。
播磨坂
極楽水(弁財天)
こちらは女弁財天です。マンションの敷地内に整備されていますが、誰でも参拝することができます。でもこちらも御開帳されておらず確認できません。台地の縁にあたり、よい湧水が出ていたのでしょうね。
宗慶寺(寿老人)
茶阿局墓碑
珂北野口先生之碑
「野口先生」を調べてみると野口雨情の伯父にあたる方だそうです。野口先生は幕末水戸藩の武家の家に生まれ、混乱した水戸藩の中で生き残り混乱の顛末を後世に伝えたとのこと。関連する「維新史料」についてコトバンクから引用します。
1887年(明治20)より96年まで、野史台(やしだい)により発行された明治維新関係の基本史料集。富岡政信、太田長吉、野口勝一らを中心に、「嘉永(かえい)以後明治五年ニ至ル二十五年間ニ生シ、苟(いやしく)モ国事ニ関スルモノハ事大小トナク網羅蒐集(しゅうしゅう)シテ遺漏ナカラシメン」という編集方針で、毎月1~3回発行され、182編に及んだ。日記、伝記、書翰(しょかん)のほかに、見聞録、落首、条約正文などまで収めた内容豊かな史料集である。現在、東京大学出版会より『野史台維新史料叢書(そうしょ)』として復刻され、手軽に入手しうる。[横山伊徳]
エーザイ本社
真珠院(布袋尊)
墓地にある布袋尊像
観音様
深光寺で購入したスタンプ帳はこちらの真珠院が中心となり作成されたようです。下見で見逃していた、墓地の布袋様にもお参りしてきました。
福聚院(大黒天)
門わきのお地蔵様
子守大黒天
せきどめ地蔵
文京区のホームページから福聚院について引用します。
浄土宗 霊應山 福聚院 鎮護寺
安永3年(1774)開山。三国伝来大黒天。江戸時代から有名で、甲子の日に参れば商売繁盛、金運に恵まれるといわれにぎわった。鎌倉時代の作と伝わる大黒天座像は、古式で簡潔、量感にあふれている。
門を入ったところにあるとうがらし地蔵は、明治の中ごろとうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいたが、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず食するうちに亡くなった。そこで近所の人があわれんで地藏尊を造りとうがらしを供えた。その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治りお礼にとうがらしを供えるようになったと伝わる。
下見の時は平日で、幼稚園児が境内で遊んでいるので入りずらくてお参りが出来ませんでした。この日は土曜日でお参りできてよかったです。
伝通院
処静院跡
清川八郎墓
天保元年~文久三年(1830~1863)、幕末勤王の志士。羽前(山形県)清川村斎藤治兵衛の長男。嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り文武を学ぶ。はじめ真木保臣・平野国臣らの尊王攘夷運動に参画したが、寺田屋事件に失望して、文久三年幕府の浪士隊(のちの新撰組)結成に参加したが、近藤勇・土方歳三らの佐幕派と対立し江戸に戻され、その後暗殺された。(隣りは貞女阿連の墓)
文京区教育委員会 平成三年三月
佐藤春夫墓
明治25年~昭和39年(1892~1964)。大正・昭和期の詩人・小説家。和歌山県の生まれ。明治43年(1910)上京し、与謝野寛の新詩社に入り、永井荷風を慕って慶應義塾大学に学ぶ。はじめ叙情詩人として出発したが、のちに耽美主義の影響を受けて大正8年(1919)小説「田園の憂鬱」を発表し好評を博し小説家として独自の地位を確立した。
古典的な詩人としては、大正以降の第一人者である。芸術院会員となり、文化勲章を受け、区内関口三丁目の自宅で没した。文京区歌の作詞者でもある
文京区教育委員会 平成三年三月
善光寺坂のムクノキ
えんま通り商店街
金栗四三の旗が加わりましたね。
源覚寺(毘沙門天)
木造閻魔王坐像 一躯
区指定有形文化財(彫刻)
源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして”こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。
像は、高さ100.4㎝。ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると、寛文12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。
この像は、彫刻美術品として優れているとともに、本区所在の仏像のなかで、古い製作年代に属するものとして貴重な文化財である。
閻魔王は、冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も良く知られている。わが国の閻魔信仰は、平安時代後期にはじまり、鎌倉時代に盛んになった。
常光山源覚寺 小石川2-23-14
文京区教育委員会 平成5年3月
東京ドーム(福禄寿)
小石川七福神は男女の弁財天がいらっしゃるので八カ所、これで終了です。ドーム総合案内所わきで場所をお借りして、ストレッチをして解散です。
水道橋駅
この駅に来るのは初めてではないものの、相当長い期間訪れていないでしょう。以前は気にならなかっただろう、線路をリサイクルした構造物が気になりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
茗荷坂
中目黒→東横・副都心線→池袋→丸ノ内線→茗荷谷と乗り継いできました。高校生の時は後楽園駅を利用していて、中目黒から霞ヶ関経由だったので茗荷谷へ行くときもそのルートが浮かんできます。乗換案内で一番に表示されていたのが池袋経由で、乗車時間22分。霞ヶ関経由だと29分なので池袋経由が最早です。料金はPASMOで払うとどちらも237円ですが、切符を買うと池袋経由が330円で、霞ヶ関経由が240円です。副都心線と東横線が接続してから、PASMO利用は不思議な料金になっています。鉄道会社間ではどのように割り振りしているのでしょう?副都心線と接続して東横線の乗客も増えているので、東急としては細かいことは気にしないのかな?
この日のウォーキングでは茗荷谷駅から茗荷坂を下りてゆきます。このあたりに茗荷が自生していたのだろうと思って文京区のホームページで検索すると、意に反して「29年度ロケ撮影協力実績」というタイトルのページが引っかかりました。引用します。
孤独のグルメseason6 第11話「東京都文京区茗荷谷の冷やしタンタン麺と回鍋肉」
テレビ東京で長年人気のグルメドラマ「孤独のグルメ」に撮影協力しました!
現在season6を迎えた本ドラマ、毎回松重豊さん演じるサラリーマンが仕事の合間に様々な地域の飲食店で食事を楽しみます。今回は文京区の茗荷谷エリアを訪れ、飲食店に加え駅周辺や播磨坂等をめぐります。
撮影の詳細は以下の通りです。
【撮影日】平成29年5月30日(火曜日)
【放送日】平成29年6月24日(土曜日)0時12分~0時52分(23日(金曜日)深夜)予定
【放送局】テレビ東京
【撮影場所】茗荷谷駅及び小石川エリア、文京シビックセンター25階展望ラウンジ
目黒区での撮影許可は結構なお役所仕事で土日は受け付けないようなニュアンスで書かれていますが、文京区はホーム>文化・観光・スポーツ>文京の観光案内>観光に関する計画・事業等>フィルムコミッション事業(区内ロケーション撮影の支援)>ロケ撮影協力実績>29年度ロケ撮影協力実績といった感じで、積極的に撮影を受け入れているようです。見習うべきですよね。
茗荷谷町については、Wikipediaから引用します。
旧茗荷谷町は、小石川台地と小日向台地の間の浅い谷が「茗荷谷」と呼ばれていて、江戸時代、茗荷畑が多かったからといわれており、この町名は、この「茗荷谷」からとったものである。なお、現在は茗荷の本格的な栽培は行われていないが、拓殖大学文京キャンパスの脇の小さな畑で、茗荷が栽培されている。また、茗荷谷駅もこの町名から名付けられている。呼び方として、小石川區史にはめうがだにちょう(旧仮名遣い)と書かれていた。
しばられ地蔵(林泉寺)
茗荷坂を下りてゆくと左側に林泉寺があり、その墓地にしばられ地蔵があります。大岡越前のお話で有名ですね。しばられ地蔵は都内にいくつかあるようで、有名なのは葛飾区の南蔵院です。南蔵院のホームページから引用します。
しばられ地蔵とは What's Shibararejizo ?
しばられ地蔵尊は、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄14年(西暦1701年)の造立と伝えられています。「文政寺社書上」によると、この地蔵尊は諸願成就、殊に難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと記されています。
毎年12月31日(大晦日)の夜、しばられ地蔵尊の縄解き供養が行われます。また、大晦日と元日には厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を結ぶ開運の縁起「結びだるま市」が開かれます。
しばられ地蔵の由来
江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。
調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。
かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。
頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。
手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。
越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。
以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
縄解き供養
12月31日午後11時からは、南蔵院住職による「願かけしばられ地蔵尊」の縄解き供養が行われ、解かれた縄は祈祷護摩の火でお焚き上げされます。
もうじき年も明けようという頃、住職が除夜の一番鐘を撞き、年が改まったところで地蔵尊に新年の一番縄が結ばれます。
参詣の人々は、一年に一度縄を解かれた地蔵尊のお姿を拝み、除夜の鐘を撞き、そして新たに地蔵尊に願かけの縄を結び、新年の願いを託すのです。
ご供養の間、住職、衆僧により聲明が唱えられ、境内に新設された舞台では「伶楽舎」による雅楽の演奏が行われます。荘厳な音の世界に浸りながら、新年を迎える儀式が執り行われます。
拓殖大学
深光寺(恵比寿)
滝沢馬琴の墓
七福神の一つ目は恵比寿様。希望者はこちらで小石川七福神案内帳を100円で購入しました。スタンプ帳になっていてますが、七福神めぐりの期間は終わってしまっているので、すべてのスタンプが埋まるわけではありません。
釈迦坂
徳雲寺(弁財天)
こちらの男弁財天は御開帳されていないので、お姿を確認することはできません。撮影禁止となっているので、御開帳されていたもご紹介できないのですが。
播磨坂
極楽水(弁財天)
こちらは女弁財天です。マンションの敷地内に整備されていますが、誰でも参拝することができます。でもこちらも御開帳されておらず確認できません。台地の縁にあたり、よい湧水が出ていたのでしょうね。
宗慶寺(寿老人)
茶阿局墓碑
珂北野口先生之碑
「野口先生」を調べてみると野口雨情の伯父にあたる方だそうです。野口先生は幕末水戸藩の武家の家に生まれ、混乱した水戸藩の中で生き残り混乱の顛末を後世に伝えたとのこと。関連する「維新史料」についてコトバンクから引用します。
1887年(明治20)より96年まで、野史台(やしだい)により発行された明治維新関係の基本史料集。富岡政信、太田長吉、野口勝一らを中心に、「嘉永(かえい)以後明治五年ニ至ル二十五年間ニ生シ、苟(いやしく)モ国事ニ関スルモノハ事大小トナク網羅蒐集(しゅうしゅう)シテ遺漏ナカラシメン」という編集方針で、毎月1~3回発行され、182編に及んだ。日記、伝記、書翰(しょかん)のほかに、見聞録、落首、条約正文などまで収めた内容豊かな史料集である。現在、東京大学出版会より『野史台維新史料叢書(そうしょ)』として復刻され、手軽に入手しうる。[横山伊徳]
エーザイ本社
真珠院(布袋尊)
墓地にある布袋尊像
観音様
深光寺で購入したスタンプ帳はこちらの真珠院が中心となり作成されたようです。下見で見逃していた、墓地の布袋様にもお参りしてきました。
福聚院(大黒天)
門わきのお地蔵様
子守大黒天
せきどめ地蔵
文京区のホームページから福聚院について引用します。
浄土宗 霊應山 福聚院 鎮護寺
安永3年(1774)開山。三国伝来大黒天。江戸時代から有名で、甲子の日に参れば商売繁盛、金運に恵まれるといわれにぎわった。鎌倉時代の作と伝わる大黒天座像は、古式で簡潔、量感にあふれている。
門を入ったところにあるとうがらし地蔵は、明治の中ごろとうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいたが、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず食するうちに亡くなった。そこで近所の人があわれんで地藏尊を造りとうがらしを供えた。その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治りお礼にとうがらしを供えるようになったと伝わる。
下見の時は平日で、幼稚園児が境内で遊んでいるので入りずらくてお参りが出来ませんでした。この日は土曜日でお参りできてよかったです。
伝通院
処静院跡
清川八郎墓
天保元年~文久三年(1830~1863)、幕末勤王の志士。羽前(山形県)清川村斎藤治兵衛の長男。嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り文武を学ぶ。はじめ真木保臣・平野国臣らの尊王攘夷運動に参画したが、寺田屋事件に失望して、文久三年幕府の浪士隊(のちの新撰組)結成に参加したが、近藤勇・土方歳三らの佐幕派と対立し江戸に戻され、その後暗殺された。(隣りは貞女阿連の墓)
文京区教育委員会 平成三年三月
佐藤春夫墓
明治25年~昭和39年(1892~1964)。大正・昭和期の詩人・小説家。和歌山県の生まれ。明治43年(1910)上京し、与謝野寛の新詩社に入り、永井荷風を慕って慶應義塾大学に学ぶ。はじめ叙情詩人として出発したが、のちに耽美主義の影響を受けて大正8年(1919)小説「田園の憂鬱」を発表し好評を博し小説家として独自の地位を確立した。
古典的な詩人としては、大正以降の第一人者である。芸術院会員となり、文化勲章を受け、区内関口三丁目の自宅で没した。文京区歌の作詞者でもある
文京区教育委員会 平成三年三月
善光寺坂のムクノキ
えんま通り商店街
金栗四三の旗が加わりましたね。
源覚寺(毘沙門天)
木造閻魔王坐像 一躯
区指定有形文化財(彫刻)
源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして”こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。
像は、高さ100.4㎝。ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると、寛文12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。
この像は、彫刻美術品として優れているとともに、本区所在の仏像のなかで、古い製作年代に属するものとして貴重な文化財である。
閻魔王は、冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も良く知られている。わが国の閻魔信仰は、平安時代後期にはじまり、鎌倉時代に盛んになった。
常光山源覚寺 小石川2-23-14
文京区教育委員会 平成5年3月
東京ドーム(福禄寿)
小石川七福神は男女の弁財天がいらっしゃるので八カ所、これで終了です。ドーム総合案内所わきで場所をお借りして、ストレッチをして解散です。
水道橋駅
この駅に来るのは初めてではないものの、相当長い期間訪れていないでしょう。以前は気にならなかっただろう、線路をリサイクルした構造物が気になりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
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