土曜日の降雪の影響が心配されたのですが、予報ほど降らなかったし積もらなかったので無事実施することができました。下見の時は一眼レフで撮ったのでコンデジでそれ以上の写真は撮れません。下見の時には撮らなかった写真でブログをお届けします。下見の様子は、
【下見】文化財めぐり中目黒コースの祐天寺
【下見】文化財めぐり中目黒コース、続編
で見てみてください。解説板の内容などテキストに書き起こしています。
祐天上人かさね済度(仏舎利殿)
五社神社
阿弥陀堂
仁王門
御本堂
お地蔵様
鐘楼
地蔵縁起碑
皇太子殿下御成婚記念樹の碑
目黒区教育委員会が設置した解説板に地蔵堂への言及がなく、阿弥陀堂が区指定有形文化財となっているので、地蔵堂は文化財登録されていないものと思っていました。国登録有形文化財でした。お寺の境内略図から、文化財をピックアップしてみましょう。
[国登録有形文化財]
本堂、書院、地蔵堂、地蔵堂門、水屋(龍)、鐘楼、表門
[東京都指定旧跡]
祐天上人墓
[目黒区指定有形文化財]
阿弥陀堂、仁王門、梵鐘、海難供養碑
地蔵縁起碑は逆光で正面から撮れず裏面です。裏面の方が祐天寺と江戸火消し組のかかわりがわかっていいですね。祐天寺についてお寺の略縁起を引用します。
江戸の高僧・祐天上人
祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。寛永14年(1637)に四倉(福島県いわき市)でお生まれになり、芝増上寺で修行されました。50歳の時に増上寺を離れて牛島(墨田区)に草庵を結び、念仏三昧の日々を送りながら「南無阿弥陀仏」の名号を書写して多くの人々に授けました。やがて、その名号を手にした人々がさまざまな利益を得ます。名号の噂は5代将軍綱吉公の生母桂昌院のお耳にも達し、将軍家や皇室、諸大名家からも帰依を受けるようになりました。正徳元年(1711)には6代将軍家宣公から増上寺36世住職を命じられました。一度引退した身でこのような出世を遂げたのは前代未聞のことでした。正徳4年(1714)に増上寺を退隠したのちも、ひたすら念仏と名号書写の生活を送り、享保3年(1718)7月15日に82歳で遷化されました。
目黒の念仏道場・祐天寺
「念仏の道場を建てて欲しい」との祐天上人の遺命を受け、弟子の祐海上人が享保3年に建立しました。当時は新しい寺院の建立が禁止されていましたが、8代将軍吉宗公のお取り計らいにより、善久院という小庵に祐天寺の名を付す形で建立することが特別に許可されました。将軍家から寄進された諸堂宇によって伽藍が整えられ、百萬遍講などの念仏講も結成されて、多くの参詣人で賑わう念仏道場として発展してきました。しかし、明治27年(1894)の火災により本堂などを焼失し、祐天寺は起立以来の危機を迎えます。明治31年(1898)に境内にあった将軍家代々の御霊殿を本堂として曳き移し、そこへ内陣・外陣を増築して復興しました。その後も増改築を繰り返し、平成19年(2007)から同29年にかけて免震工事が施され、現在に至ります。
祐天寺裏交差点
自然園下バス停
古地図によるとこの交差点の北東に馬場があります。目黒競馬場のパドックでしょうか?目黒競馬場から辿ってみるとパドックは目黒通り沿いにあり、こちらはパドックではありません。調教のための馬場?
自然園はあまり知られていませんが、谷戸前川沿いにある解説板、このバス停と、マンション名に名を残しています。
長泉院
イイギリの実
長泉院の彫刻を見学し、アーバンハイツ中目黒わきの階段を下り、松風園ハイツ・コーポの看板で、松風園の説明をしました。
めぐろ歴史資料館
白梅
めぐろ歴史資料館で少し長めのトイレ休憩をとります。
懐かしいポスト
馬繋ぎ石
「陸軍用地」境界石
「三田用水」境界石
宿山組道標(みちしるべ)
宿山組道標(旧所在:上目黒4丁目付近)
宿山組は上目黒村に四組あった組の一つで現在の上目黒・東山あたりを範囲としていました。
前面 世田谷并ふちう
あをやまほりの内 道
右面 右 碑文谷仁王尊
いけかみ本門寺 道
左面 左 目黒ゆうてん寺
ふとうそん道
背面 上目黒村宿山組
宿山組道標
田道橋道標
富士講道標
長泉院道標
古地図で見ると字宿山は現在の上目黒五丁目ですが、宿山組の範囲はもっと広いようですね。この組について記述がある目黒区ホームページから引用します。
目黒の地名 五本木(ごほんぎ)
更新日:2014年2月3日
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 五本木
「五本木」のほか、かつての「中一ツ木」(現八雲三丁目付近)、隣りの港区の「六本木」など、数字と木が組み合わされた地名は、枚挙にいとまがない。
昭和43年1月1日、それまでの上目黒五丁目、三谷町の一部および中目黒三丁目の一部は、「住居表示に関する法律」による町名変更で、五本木一丁目・二丁目・三丁目となった。昭和7年の区制施行によって姿を消した五本木という地名が、ここに再び登場したのである。
旧守屋教育会館郷土資料室(目黒区五本木二丁目)裏手の庚申塔群の中に、「上目黒五本木組 庚申供養塔 文化七庚午年十一月吉日」と記されている碑面がある。江戸時代の村には、「組」という小行政単位があって、年貢の徴収や生活共同体としての機能を持っていた。明治22年まで続いた目黒六カ村の一つ上目黒村は、上知(あげち)、宿山、石川、五本木という四つの「組」から成っていた。
こうした組は、江戸時代以前からあった集落を母体としていたというから、五本木という地名は、室町さらには鎌倉時代へとさかのぼれるだろうが、そもそもの由来は、五本の大樹があり、それがこの地の特徴を成していたことから、地名となったのではないかといわれている。前述の庚申塔群の前を走る細い道は、鎌倉幕府の勢力下にあった関東八州と鎌倉を結ぶため、各地に発達した「鎌倉街道」の一つといわれる。旅人は、この五本の大きな樹木をながめながら、鎌倉へと道を急いだことであろう。
「昼間でさえ、身の毛がよだつほど薄暗く、元気のよい若者でも通ることを恐れた」とは、明治の初めごろの様子を語った土地の人の言葉。今の五本木小学校辺りからわき出ていた水を利用した野菜の洗い場もあったという。今日の様子からは想像すらできないほどのんびりとした農村「五本木」に、宅地化の波が押し寄せる原動力となったのは、昭和2年の東横線の開通であった。
上知組、石川組というのは現在目黒区の地名につかわれていないので知りません。調べてみると上知組は駒場周辺、石川組は大橋周辺のようで上目黒氷川神社は石川組の鎮守となっています。上知組は江戸時代に徳川幕府のお鷹場になっており、それまでの集落が崩壊してしまったのでしょうか。
私が住む上目黒三丁目は宿山組ですが、字烏森と字諏訪山に分かれます。道を隔てると字小川で小川坂や小川児童遊園に小字名が残されています。近所で八百屋を営み現在は廃業してしまった小川一族が住んでいたからという話も嘘ではないのかもしれませんが、調べるのも難しそうです。と、思ったら意外と簡単に見つかりました。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 小川坂
更新日:2014年2月3日
「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の坂 小川坂
中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差点から西へ斜めに入る道がある。東山一丁目と上目黒三丁目の境を、烏森小学校のほうへと上るこの道が小川坂。弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのが、名前の由来ときく。
小川坂上の寿福寺辺りは、小高い丘陵地帯で、旧小字名を宿山と呼んだ。鎌倉街道のひとつがここを通過していたから、その宿駅という意味であろうか。
小川坂も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路である。
中目黒八幡神社
天祖神社の神輿
エリカと目黒区役所
中目黒の鎮守と、伊勢脇の名前の由来になっている神社をめぐり、区役所南門前の中目黒しぜんとなかよし公園でストレッチをして解散となりました。区内のウォーキングの割には人が集まり、28名のウォーキングでした。30名を超える日も来るのかもしれません。
この日は10名で反省会となりました。中目黒の高級イタリアンレストランサイゼリヤでマグナムボトルの赤ワインを二本あけた後、伊勢五本店に行ったようないかないような。。。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
【下見】文化財めぐり中目黒コースの祐天寺
【下見】文化財めぐり中目黒コース、続編
で見てみてください。解説板の内容などテキストに書き起こしています。
祐天上人かさね済度(仏舎利殿)
五社神社
阿弥陀堂
仁王門
御本堂
お地蔵様
鐘楼
地蔵縁起碑
皇太子殿下御成婚記念樹の碑
目黒区教育委員会が設置した解説板に地蔵堂への言及がなく、阿弥陀堂が区指定有形文化財となっているので、地蔵堂は文化財登録されていないものと思っていました。国登録有形文化財でした。お寺の境内略図から、文化財をピックアップしてみましょう。
[国登録有形文化財]
本堂、書院、地蔵堂、地蔵堂門、水屋(龍)、鐘楼、表門
[東京都指定旧跡]
祐天上人墓
[目黒区指定有形文化財]
阿弥陀堂、仁王門、梵鐘、海難供養碑
地蔵縁起碑は逆光で正面から撮れず裏面です。裏面の方が祐天寺と江戸火消し組のかかわりがわかっていいですね。祐天寺についてお寺の略縁起を引用します。
江戸の高僧・祐天上人
祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。寛永14年(1637)に四倉(福島県いわき市)でお生まれになり、芝増上寺で修行されました。50歳の時に増上寺を離れて牛島(墨田区)に草庵を結び、念仏三昧の日々を送りながら「南無阿弥陀仏」の名号を書写して多くの人々に授けました。やがて、その名号を手にした人々がさまざまな利益を得ます。名号の噂は5代将軍綱吉公の生母桂昌院のお耳にも達し、将軍家や皇室、諸大名家からも帰依を受けるようになりました。正徳元年(1711)には6代将軍家宣公から増上寺36世住職を命じられました。一度引退した身でこのような出世を遂げたのは前代未聞のことでした。正徳4年(1714)に増上寺を退隠したのちも、ひたすら念仏と名号書写の生活を送り、享保3年(1718)7月15日に82歳で遷化されました。
目黒の念仏道場・祐天寺
「念仏の道場を建てて欲しい」との祐天上人の遺命を受け、弟子の祐海上人が享保3年に建立しました。当時は新しい寺院の建立が禁止されていましたが、8代将軍吉宗公のお取り計らいにより、善久院という小庵に祐天寺の名を付す形で建立することが特別に許可されました。将軍家から寄進された諸堂宇によって伽藍が整えられ、百萬遍講などの念仏講も結成されて、多くの参詣人で賑わう念仏道場として発展してきました。しかし、明治27年(1894)の火災により本堂などを焼失し、祐天寺は起立以来の危機を迎えます。明治31年(1898)に境内にあった将軍家代々の御霊殿を本堂として曳き移し、そこへ内陣・外陣を増築して復興しました。その後も増改築を繰り返し、平成19年(2007)から同29年にかけて免震工事が施され、現在に至ります。
祐天寺裏交差点
自然園下バス停
古地図によるとこの交差点の北東に馬場があります。目黒競馬場のパドックでしょうか?目黒競馬場から辿ってみるとパドックは目黒通り沿いにあり、こちらはパドックではありません。調教のための馬場?
自然園はあまり知られていませんが、谷戸前川沿いにある解説板、このバス停と、マンション名に名を残しています。
長泉院
イイギリの実
長泉院の彫刻を見学し、アーバンハイツ中目黒わきの階段を下り、松風園ハイツ・コーポの看板で、松風園の説明をしました。
めぐろ歴史資料館
白梅
めぐろ歴史資料館で少し長めのトイレ休憩をとります。
懐かしいポスト
馬繋ぎ石
「陸軍用地」境界石
「三田用水」境界石
宿山組道標(みちしるべ)
宿山組道標(旧所在:上目黒4丁目付近)
宿山組は上目黒村に四組あった組の一つで現在の上目黒・東山あたりを範囲としていました。
前面 世田谷并ふちう
あをやまほりの内 道
右面 右 碑文谷仁王尊
いけかみ本門寺 道
左面 左 目黒ゆうてん寺
ふとうそん道
背面 上目黒村宿山組
宿山組道標
田道橋道標
富士講道標
長泉院道標
古地図で見ると字宿山は現在の上目黒五丁目ですが、宿山組の範囲はもっと広いようですね。この組について記述がある目黒区ホームページから引用します。
目黒の地名 五本木(ごほんぎ)
更新日:2014年2月3日
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 五本木
「五本木」のほか、かつての「中一ツ木」(現八雲三丁目付近)、隣りの港区の「六本木」など、数字と木が組み合わされた地名は、枚挙にいとまがない。
昭和43年1月1日、それまでの上目黒五丁目、三谷町の一部および中目黒三丁目の一部は、「住居表示に関する法律」による町名変更で、五本木一丁目・二丁目・三丁目となった。昭和7年の区制施行によって姿を消した五本木という地名が、ここに再び登場したのである。
旧守屋教育会館郷土資料室(目黒区五本木二丁目)裏手の庚申塔群の中に、「上目黒五本木組 庚申供養塔 文化七庚午年十一月吉日」と記されている碑面がある。江戸時代の村には、「組」という小行政単位があって、年貢の徴収や生活共同体としての機能を持っていた。明治22年まで続いた目黒六カ村の一つ上目黒村は、上知(あげち)、宿山、石川、五本木という四つの「組」から成っていた。
こうした組は、江戸時代以前からあった集落を母体としていたというから、五本木という地名は、室町さらには鎌倉時代へとさかのぼれるだろうが、そもそもの由来は、五本の大樹があり、それがこの地の特徴を成していたことから、地名となったのではないかといわれている。前述の庚申塔群の前を走る細い道は、鎌倉幕府の勢力下にあった関東八州と鎌倉を結ぶため、各地に発達した「鎌倉街道」の一つといわれる。旅人は、この五本の大きな樹木をながめながら、鎌倉へと道を急いだことであろう。
「昼間でさえ、身の毛がよだつほど薄暗く、元気のよい若者でも通ることを恐れた」とは、明治の初めごろの様子を語った土地の人の言葉。今の五本木小学校辺りからわき出ていた水を利用した野菜の洗い場もあったという。今日の様子からは想像すらできないほどのんびりとした農村「五本木」に、宅地化の波が押し寄せる原動力となったのは、昭和2年の東横線の開通であった。
上知組、石川組というのは現在目黒区の地名につかわれていないので知りません。調べてみると上知組は駒場周辺、石川組は大橋周辺のようで上目黒氷川神社は石川組の鎮守となっています。上知組は江戸時代に徳川幕府のお鷹場になっており、それまでの集落が崩壊してしまったのでしょうか。
私が住む上目黒三丁目は宿山組ですが、字烏森と字諏訪山に分かれます。道を隔てると字小川で小川坂や小川児童遊園に小字名が残されています。近所で八百屋を営み現在は廃業してしまった小川一族が住んでいたからという話も嘘ではないのかもしれませんが、調べるのも難しそうです。と、思ったら意外と簡単に見つかりました。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 小川坂
更新日:2014年2月3日
「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の坂 小川坂
中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差点から西へ斜めに入る道がある。東山一丁目と上目黒三丁目の境を、烏森小学校のほうへと上るこの道が小川坂。弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのが、名前の由来ときく。
小川坂上の寿福寺辺りは、小高い丘陵地帯で、旧小字名を宿山と呼んだ。鎌倉街道のひとつがここを通過していたから、その宿駅という意味であろうか。
小川坂も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路である。
中目黒八幡神社
天祖神社の神輿
エリカと目黒区役所
中目黒の鎮守と、伊勢脇の名前の由来になっている神社をめぐり、区役所南門前の中目黒しぜんとなかよし公園でストレッチをして解散となりました。区内のウォーキングの割には人が集まり、28名のウォーキングでした。30名を超える日も来るのかもしれません。
この日は10名で反省会となりました。中目黒の高級イタリアンレストランサイゼリヤでマグナムボトルの赤ワインを二本あけた後、伊勢五本店に行ったようないかないような。。。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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