今年6月12日に下見したコースの本番です。下見は曇りの日で薄暗かったのですが、この日は快晴。天気でずいぶん気分が変わるもので、歩きやすい気候の中楽しいウォーキングでした。
上之原通り
けやき通り
みかん
東京学芸大学
中目黒→東横線・副都心線→新宿三丁目→徒歩→新宿→中央線快速→武蔵小金井とやってきて、上之原通りを西へ向かい、上の原公園でストレッチをして、一本北のけやき通りでびっくりです。この時期剪定するか?夏の間に日陰を作ってくれたケヤキの葉も落葉すると厄介者ということでしょうか?
東山中学校の剣道部の顧問で恩師、先生は学芸大学を卒業されこわもての体育教師でした。中学二年の時の担任で朝のホームルームににやけ顔で現れ、「なまえ?『花子』だよ」と生まれたばかりのお嬢さんの話をしていました。山川先生が娘に花子という名前を付けるわけがなく、信じた私がばかだと思います。
この娘さんが大学へ進学される際東京学芸大学に合格し、山川先生は自分が卒業した学校へ行ってくれるものと期待していたのですがかないませんでした。娘さん曰く、「西荻窪の駅を通り過ぎてその先の大学通学すると、毎日後悔することになる」と。東京女子大学に入学されました。
東京学芸大学は武蔵小金井駅から歩いて15分くらいかかるでしょうか。いい環境にあると思います。
ウメモドキ
仙川上流端と里芋
公務員住宅の中の仙川
小金井本町住宅の中の仙川
公務員住宅や、公団住宅の中では川沿いのいい雰囲気が保たれています。その他の場所では水の無い用水路のようですが。
山王窪の築樋
築樋は、低い土地に土を盛って突き固めて土手を築き、その上を用水路とした土木工法です。この築樋は、元禄九年(1696)頃、玉川上水から小金井村方面に分水を引くため山王窪と呼ばれる仙川の窪地に築いたものです。
全長五十六間(約102メートル)、高さ一丈八尺(約5.4メートル)あったと記録されています。
平成二十一年三月
小金井市教育委員会
本町四丁目付近
大松木下之稲荷大神
神社についてまろん通信から引用します。
小金井街道が北大通りと交差する北東側角にある稲荷神社で、「歴史散歩」(小金井市教育委員会発行の「小金井市の歴史散歩」以後このシリーズでは「歴史散歩」とのみ記された場合これを指します。)によれば1842年頃上山谷の皆さんが祀ったとのこと、また大きな松の木の下に祠があったのでそのように名付けられたとのことです。
古地図によれば小金井分水から築樋の北側で分流した用水が東進し、この神社の東側を通って仙川に流れ落ちていたようです。その水路跡の大部分は遊歩道北2号線として今でも利用されています。
小金井分水が許可されて水路が出来たのが1696年、そこから延びる枝状の遊歩道北2号線の水路が出来て仙川に落ちるようになったのもほぼ同じ頃と考えると、それから140年後のこの水路際に神社が造られたことになります。稲荷神社をこの地に創ったことはもしかすると水路に、そして水に対する感謝の気持ちもあったのかもしれません。
境内には1792年の庚申塔や1802年の石灯籠など5基の石造物があります。この神社もそうですが昔の小金井街道(志木街道とも呼ばれていました。)沿いにあったものが、道路の拡幅などによって移動させられてこの神社の境内に集められたのではと考えています。境内は恐らく昔はもっと広かったのではないでしょうか。
桜町から緑町にかけて
仙川沿いに人一人通れるくらいの通路があったのでここを歩いてみました。年配の二十人くらいの団体がここを歩いているの見ると、近所の住民には異様に見えるでしょう。
浴恩館
佐賀偉人伝のページから一部引用します。
佐賀県出身の小説家、社会教育家である下村湖人(1884-1955)が青少年教育活動を行い、湖人の小説『次郎物語』第五部の舞台ともなった浴恩館に行ってきました。
小金井には、まだ所々に武蔵野の雰囲気が残っています。個人のお宅や畑に、この辺り一帯が武蔵野だった時代の景観をそのまま切り取ったような緑や黒い土が残っているのです。
特に浴恩館周辺は、ここが浴恩館として青少年の教育活動に使われていた時代の自然をそのまま伝えており、「浴恩館公園」として、整備されています。
浴恩館は、昭和3年(1928)に京都御所で行われた御大典で使われた建物を「日本青年館」が譲り受け移築したものです。
稗倉
稗倉(穀櫃)
稗倉は、飢饉に備えた稗などの備蓄倉庫で、市内ではこれが唯一のものです。
この稗倉は、貫井村(現貫井南町)の名主であった大沢家が村人のために作ったもので、建築年代は、内部の柱の墨書きから天明元年(1781)十一月と思われます。昭和六十一年に大沢家から寄贈を受け、ここに移築し復元したものです。
規模は、間口約3.6メートル、奥行き1.8メートル、高さ2.3メートルで、内部は二つに仕切られています。穀物などは天井の蓋を開けて入れ、下の小さい口からかき出すようになっています。
平成三年三月
小金井市教育委員会
浴恩館公園のツツジ群
市天然記念物
浴恩館公園のツツジ群
指定 昭和四十九年二月
この園内にあるツツジ群は、昭和五年浴恩館開館に際し、豊多摩郡大久保町(現新宿区大久保)にあったツツジ園から移植されたものです。
いずれも枝葉を茂らせ、なかには高さ三メートルにもおよぶものもあり、近郊まれに見るツツジ群をなしています。
種類はキリシマツツジを主とし、その他オオムラサキ・シロリュウキュウ等を交えています。
小金井市教育委員会
下村湖人歌碑
大いなる道といふもの世にありと
思ふこゝろはいまだも消えず
湖人
教養小説『次郎物語』の作者として知られる下村湖人の本領は教育者であり、同郷の盟友田澤義鋪の招きに応じ浴恩館にて青年教育に尽力しました。湖人は優れた歌人でもあり、千五百首以上の短歌を残しています。
この歌は、昭和二十九年(1954)十月三日、古希の誕生祝いの席で詠まれた湖人最晩年の一首です。「大いなる道」とは田澤義鋪と共有した理念であり、人類の大道をあらわしています。当時病魔と闘い自由に動かせない手で筆をとったといわれ、翌三十年四月、湖人は七十一年の生涯を閉じました。
昭和三十二年(1957)、湖人と活動を共にして来た新風土会会員の手により、ゆかりの地「空林荘」の前に、歌碑が建てられました。
平成三十年六月
小金井市教育委員会
市史跡 空林荘
市史跡 空林荘
この空林荘は、全国の青年団活動の中心であった財団法人日本青年館が、昭和五年にその分館として浴恩館(青年団講習所)を開設したとき、講師の宿舎として建てられたものです。
青年教育の実践家として知られる下村湖人(1884~1955)は、昭和八年から同十二年まで講習所の所長を務めました。
空林荘は下村湖人が講習生と寝食を共にし、指導にあたったところです。
そのころ、「次郎物語」の執筆を始めた胡人はここで構想を練り、次郎の少年時代を記述しました。昭和二十九年に発表された第五部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものです。
なお、空林荘は貴重な文学遺跡として市史跡に指定されましたが、平成二十五年二月に焼失しました。
平成二十六年三月
小金井市教育委員会
仙川と次郎橋
公園内に仙川が流れているので、仙川下りコースとしては重要なポイントの一つとなります。
サザンカ
ヤマボウシの実
東京電機大学高等学校
サザンカが咲き始めました。寒くなるわけです。この日は快晴で湿度も低くて快適でした。日なたはちょっと暑いけど、日陰に入ると涼しい感じで、日差しも斜めから。紅葉シーズンを楽しんだ後は、すぐに寒い冬が来るのかな。木枯らしの便りも聞こえてきますが、この日は小春日和といっていいのかな。
高校は私の母校ですが、私が通っている頃は文京区後楽にあり、学校帰り後楽園球場に日ハム戦を見に行ったものです。移転し、工業科が無くなり、男女共学になり、中学校もできて、知らないうちに大きく変わってあまり母校という感じがありません。校歌も変わっているらしく、卒業以来一度もクラス会ないし。近年従姉の子供が中学校に入学したと聞き、ちょっとだけ親近感があるかな。
梶野通りの大きな松と庚申塔
梶野分水築樋
築樋は、窪地や川を越して水を流すために低地に土を盛ってつき固めて土手を築き、その上を用水路としたものです。
梶野新田の開発にあたり、飲み水や農業用水に困った新田の人々は、玉川上水から水を分けてもらえるよう享保十年(1724)頃から再三幕府に願い出ましたが、享保十七年(1732)に梶野分水が許可され、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ約230メートル・高さ約4メートル)が造られました。また、本町五丁目の山王稲穂神社付近にも築樋があります。
梶野分水は、明治三年(1870)に上流の砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸び、深大寺用水とも呼ばれました。なお、南に続く分水路は「ほっこ抜き」と呼ばれる暗渠(トンネル)になっています。
平成十七年三月三十一日
小金井市教育委員会
公団桜堤団地内の仙川
団地内のビオトープ
公団桜堤団地、現在は建替えられてサンヴァリエ桜堤やパークシティ武蔵野桜堤となっています。かなり大規模な団地ですね。
亜細亜大学
花の通学路
この後仙川は亜細亜大学構内を流れてゆきます。花の通学路途中にある武蔵川公園をお借りしてストレッチしようと思ったのですが、ドッグランや野球場となっていたので断念。
オキナワスズメウリ
アジア大学通り沿いのマンションの公開緑地のような場所をお借りしてストレッチをしました。武蔵境駅へ向かう途中スイカの様な柄のかわいい実があったので撮ってみました。ウォーキング日和の一日でした。
有志は中目黒へ直行しONCEで相撲観戦。アルコール度数の高いビールで酔っ払い続出でした。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
上之原通り
けやき通り
みかん
東京学芸大学
中目黒→東横線・副都心線→新宿三丁目→徒歩→新宿→中央線快速→武蔵小金井とやってきて、上之原通りを西へ向かい、上の原公園でストレッチをして、一本北のけやき通りでびっくりです。この時期剪定するか?夏の間に日陰を作ってくれたケヤキの葉も落葉すると厄介者ということでしょうか?
東山中学校の剣道部の顧問で恩師、先生は学芸大学を卒業されこわもての体育教師でした。中学二年の時の担任で朝のホームルームににやけ顔で現れ、「なまえ?『花子』だよ」と生まれたばかりのお嬢さんの話をしていました。山川先生が娘に花子という名前を付けるわけがなく、信じた私がばかだと思います。
この娘さんが大学へ進学される際東京学芸大学に合格し、山川先生は自分が卒業した学校へ行ってくれるものと期待していたのですがかないませんでした。娘さん曰く、「西荻窪の駅を通り過ぎてその先の大学通学すると、毎日後悔することになる」と。東京女子大学に入学されました。
東京学芸大学は武蔵小金井駅から歩いて15分くらいかかるでしょうか。いい環境にあると思います。
ウメモドキ
仙川上流端と里芋
公務員住宅の中の仙川
小金井本町住宅の中の仙川
公務員住宅や、公団住宅の中では川沿いのいい雰囲気が保たれています。その他の場所では水の無い用水路のようですが。
山王窪の築樋
築樋は、低い土地に土を盛って突き固めて土手を築き、その上を用水路とした土木工法です。この築樋は、元禄九年(1696)頃、玉川上水から小金井村方面に分水を引くため山王窪と呼ばれる仙川の窪地に築いたものです。
全長五十六間(約102メートル)、高さ一丈八尺(約5.4メートル)あったと記録されています。
平成二十一年三月
小金井市教育委員会
本町四丁目付近
大松木下之稲荷大神
神社についてまろん通信から引用します。
小金井街道が北大通りと交差する北東側角にある稲荷神社で、「歴史散歩」(小金井市教育委員会発行の「小金井市の歴史散歩」以後このシリーズでは「歴史散歩」とのみ記された場合これを指します。)によれば1842年頃上山谷の皆さんが祀ったとのこと、また大きな松の木の下に祠があったのでそのように名付けられたとのことです。
古地図によれば小金井分水から築樋の北側で分流した用水が東進し、この神社の東側を通って仙川に流れ落ちていたようです。その水路跡の大部分は遊歩道北2号線として今でも利用されています。
小金井分水が許可されて水路が出来たのが1696年、そこから延びる枝状の遊歩道北2号線の水路が出来て仙川に落ちるようになったのもほぼ同じ頃と考えると、それから140年後のこの水路際に神社が造られたことになります。稲荷神社をこの地に創ったことはもしかすると水路に、そして水に対する感謝の気持ちもあったのかもしれません。
境内には1792年の庚申塔や1802年の石灯籠など5基の石造物があります。この神社もそうですが昔の小金井街道(志木街道とも呼ばれていました。)沿いにあったものが、道路の拡幅などによって移動させられてこの神社の境内に集められたのではと考えています。境内は恐らく昔はもっと広かったのではないでしょうか。
桜町から緑町にかけて
仙川沿いに人一人通れるくらいの通路があったのでここを歩いてみました。年配の二十人くらいの団体がここを歩いているの見ると、近所の住民には異様に見えるでしょう。
浴恩館
佐賀偉人伝のページから一部引用します。
佐賀県出身の小説家、社会教育家である下村湖人(1884-1955)が青少年教育活動を行い、湖人の小説『次郎物語』第五部の舞台ともなった浴恩館に行ってきました。
小金井には、まだ所々に武蔵野の雰囲気が残っています。個人のお宅や畑に、この辺り一帯が武蔵野だった時代の景観をそのまま切り取ったような緑や黒い土が残っているのです。
特に浴恩館周辺は、ここが浴恩館として青少年の教育活動に使われていた時代の自然をそのまま伝えており、「浴恩館公園」として、整備されています。
浴恩館は、昭和3年(1928)に京都御所で行われた御大典で使われた建物を「日本青年館」が譲り受け移築したものです。
稗倉
稗倉(穀櫃)
稗倉は、飢饉に備えた稗などの備蓄倉庫で、市内ではこれが唯一のものです。
この稗倉は、貫井村(現貫井南町)の名主であった大沢家が村人のために作ったもので、建築年代は、内部の柱の墨書きから天明元年(1781)十一月と思われます。昭和六十一年に大沢家から寄贈を受け、ここに移築し復元したものです。
規模は、間口約3.6メートル、奥行き1.8メートル、高さ2.3メートルで、内部は二つに仕切られています。穀物などは天井の蓋を開けて入れ、下の小さい口からかき出すようになっています。
平成三年三月
小金井市教育委員会
浴恩館公園のツツジ群
市天然記念物
浴恩館公園のツツジ群
指定 昭和四十九年二月
この園内にあるツツジ群は、昭和五年浴恩館開館に際し、豊多摩郡大久保町(現新宿区大久保)にあったツツジ園から移植されたものです。
いずれも枝葉を茂らせ、なかには高さ三メートルにもおよぶものもあり、近郊まれに見るツツジ群をなしています。
種類はキリシマツツジを主とし、その他オオムラサキ・シロリュウキュウ等を交えています。
小金井市教育委員会
下村湖人歌碑
大いなる道といふもの世にありと
思ふこゝろはいまだも消えず
湖人
教養小説『次郎物語』の作者として知られる下村湖人の本領は教育者であり、同郷の盟友田澤義鋪の招きに応じ浴恩館にて青年教育に尽力しました。湖人は優れた歌人でもあり、千五百首以上の短歌を残しています。
この歌は、昭和二十九年(1954)十月三日、古希の誕生祝いの席で詠まれた湖人最晩年の一首です。「大いなる道」とは田澤義鋪と共有した理念であり、人類の大道をあらわしています。当時病魔と闘い自由に動かせない手で筆をとったといわれ、翌三十年四月、湖人は七十一年の生涯を閉じました。
昭和三十二年(1957)、湖人と活動を共にして来た新風土会会員の手により、ゆかりの地「空林荘」の前に、歌碑が建てられました。
平成三十年六月
小金井市教育委員会
市史跡 空林荘
市史跡 空林荘
この空林荘は、全国の青年団活動の中心であった財団法人日本青年館が、昭和五年にその分館として浴恩館(青年団講習所)を開設したとき、講師の宿舎として建てられたものです。
青年教育の実践家として知られる下村湖人(1884~1955)は、昭和八年から同十二年まで講習所の所長を務めました。
空林荘は下村湖人が講習生と寝食を共にし、指導にあたったところです。
そのころ、「次郎物語」の執筆を始めた胡人はここで構想を練り、次郎の少年時代を記述しました。昭和二十九年に発表された第五部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものです。
なお、空林荘は貴重な文学遺跡として市史跡に指定されましたが、平成二十五年二月に焼失しました。
平成二十六年三月
小金井市教育委員会
仙川と次郎橋
公園内に仙川が流れているので、仙川下りコースとしては重要なポイントの一つとなります。
サザンカ
ヤマボウシの実
東京電機大学高等学校
サザンカが咲き始めました。寒くなるわけです。この日は快晴で湿度も低くて快適でした。日なたはちょっと暑いけど、日陰に入ると涼しい感じで、日差しも斜めから。紅葉シーズンを楽しんだ後は、すぐに寒い冬が来るのかな。木枯らしの便りも聞こえてきますが、この日は小春日和といっていいのかな。
高校は私の母校ですが、私が通っている頃は文京区後楽にあり、学校帰り後楽園球場に日ハム戦を見に行ったものです。移転し、工業科が無くなり、男女共学になり、中学校もできて、知らないうちに大きく変わってあまり母校という感じがありません。校歌も変わっているらしく、卒業以来一度もクラス会ないし。近年従姉の子供が中学校に入学したと聞き、ちょっとだけ親近感があるかな。
梶野通りの大きな松と庚申塔
梶野分水築樋
築樋は、窪地や川を越して水を流すために低地に土を盛ってつき固めて土手を築き、その上を用水路としたものです。
梶野新田の開発にあたり、飲み水や農業用水に困った新田の人々は、玉川上水から水を分けてもらえるよう享保十年(1724)頃から再三幕府に願い出ましたが、享保十七年(1732)に梶野分水が許可され、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ約230メートル・高さ約4メートル)が造られました。また、本町五丁目の山王稲穂神社付近にも築樋があります。
梶野分水は、明治三年(1870)に上流の砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸び、深大寺用水とも呼ばれました。なお、南に続く分水路は「ほっこ抜き」と呼ばれる暗渠(トンネル)になっています。
平成十七年三月三十一日
小金井市教育委員会
公団桜堤団地内の仙川
団地内のビオトープ
公団桜堤団地、現在は建替えられてサンヴァリエ桜堤やパークシティ武蔵野桜堤となっています。かなり大規模な団地ですね。
亜細亜大学
花の通学路
この後仙川は亜細亜大学構内を流れてゆきます。花の通学路途中にある武蔵川公園をお借りしてストレッチしようと思ったのですが、ドッグランや野球場となっていたので断念。
オキナワスズメウリ
アジア大学通り沿いのマンションの公開緑地のような場所をお借りしてストレッチをしました。武蔵境駅へ向かう途中スイカの様な柄のかわいい実があったので撮ってみました。ウォーキング日和の一日でした。
有志は中目黒へ直行しONCEで相撲観戦。アルコール度数の高いビールで酔っ払い続出でした。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
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