文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

共通項は「江沢民派(上海閥)との関係が深まり浮上した二人」である点だ。

2018年01月09日 14時05分56秒 | 日記

以下は前章の続きである。

ライバルというより敵対関係 

フローレンス・ファンとローズ・パク。

この二人の大物華人女性の夕イプは真逆だ。

知的なイメージを打ち出すためか、大きな眼鏡がトレードマークで、スタイルが良く、おしゃれで品性も感じられるファン女史に対して、パク女史は葉巻を吸い、ハスッパで、化粧っけがなく、ずんぐりと太った女傑である。長年にわたる脱税疑惑や、中国共産党系スパイの容疑で米連邦捜査局(FBI)の調査対象との噂もあった。 

共通項は「江沢民派(上海閥)との関係が深まり浮上した二人」である点だ。

パク女史はサンフランシスコ市長らと江沢民との関係を構築してきたし、ファン家は江沢民の忠実な部下、黄菊元副首相の娘と婚姻関係を結んだのだから。 

この稿続く。

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2001年には、大統領でも首相でも州知事でもないサンフランシスコのブラウン市長が、中国で国賓級の待遇で

2018年01月09日 14時00分48秒 | 日記

以下は前章の続きである。

“赤い選挙戦”を物語る『ニューヨーク・タイムズ』の記事、「背後の権力政治。作られた市長」では、パク女史とウィリー・ブラウン元市長(サンフランシスコ市長として唯一の黒人)の存在があると報じられた。

そして『大紀元時報』には、リー新市長が就任演説でパク女史に謝意を表明したこと、「米国の重要な都市、サンフランシスコでついに華人市長を作る時が来た。この機会逃せない」とパク女史が高らかに述「政治ゲームを楽しむ理由が分かったでしょう」と記者に語ったことも報じられた。 

湖南省出身のパク女史は、文化大革命期の1967年に脱出し、米国へ不法移民し、70年代は新聞記者の肩書を持っていたらしい。

中国国民党系の中華總商會の親玉ステファン・ファン(方国源)との同棲を機に中華總商會は中国共産党とも関係を持つようになったとされる。 

80年代半ばから、サンフランシスコ市の華人と政界は、江沢民ら(上海閥)とズブズブの関係になっていく。

90年代にブラウン市長やアート・アグノス市長へ選挙の資金援助(推測する範囲でも中国マネー)をしていたとされるパク女史は、不法移民という前科がありながら大出世する。

サンフランシスコ市政府の顧問となり、市長らの訪中を手配するなど、地元行政に多大な影響力を持つようになったのだ。 

2001年には、大統領でも首相でも州知事でもないサンフランシスコのブラウン市長が、中国で国賓級の待遇でもてなされ、江沢民国家主席と面談まで行っている。

この稿続く。

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リー代理市長は2011年11月に実施される次期市長選に立候補しないことを表明していたが、なぜか翻意した。

2018年01月09日 13時53分39秒 | 日記

以下は前章の続きである。

しかも、リー代理市長は201111月に実施される次期市長選に立候補しないことを表明していたが、なぜか翻意した。

市長予備選、つまり共和党と民主党の代表候補者を決める段階の候補20数名には、リーランド・イー(余胤良)・カリフォルニア州上院議員やデビッド・チュウ市議長など、民主党の有力候補を含む中国系4名が名を連ねた。 

結果、「弁護士という経験と、過去、四人ほどの市長に仕えてきた経験はあるが、取り立てて目立つ存在ではなかった」リーが代表候補となり、リベラルな牙城の同地において共和党候補にも勝利し、「代理ではない」市長への就任が決まった。

2015年には、さしたる対抗馬も出ない中、現役市長として再選が決まった。 

これらの政治工作を長年、仕掛けてきたのがもう一人の華人女性(華人女性②)。

サンフランシスコ中華總商會の顧問を務めるローズ・パク(白蘭)女史である。

この稿続く。

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彼は後に慰安婦像関連のまとめ役となり、市議11人の内の8人を丸め込んで決議案を提出した男である。 

2018年01月09日 13時49分49秒 | 日記

以下は前章の続きである

女工作員による“赤い選挙戦” 

「カリフォルニア州初の上院議員」「初の下院議員」「初の女性市長」「初の市議会議員」など、2010年前後から、在米の華人メディアがしきりと「初」を連呼し、華人系米国人の政界進出ラッシュを盛り上げていた。 

そのような折、2011年1月、サンフランシスコ史上初の華人系代理市長(第43代)が選出され、現地の華人社会が沸いた。

カリフォルニア州知事だったアーノルド・シュワルツネッガーが辞任を表明し、ジェリー・ブラウンが新知事に就任するのに伴い、サンフランシスコ市長が副知事に転身した。

そして副市長だったエドウィン・リーが満場一致で残りの任期である2012年1月まで市長職を引き継ぐことになったのだ。

シアトル生まれのリー代理市長は、1930年代に広東省から移民してきた両親を持つ。 

そして、「我々が市をつくっていく、その大きなステップとなった」と、彼の就任式の場でこう高らかに述べたのは、やはり華人系のエリック・マー(馬兆光)市議だった。

彼は後に慰安婦像関連のまとめ役となり、市議11人の内の8人を丸め込んで決議案を提出した男である。 

5年前のこの時、すでに華人系市議が3名、韓国系市議が1名の体制だった。

香港・広東系が多いリッチモンド地区(選挙区一、世界最大級の大きさを誇るチャイナタウン周辺(選挙区三)、中国からの新移民が集住するサンセット地区(選挙区四)、つまり選挙区一、三、四では英語以外、広東語や北京語(普通話)が共通語なのだ。

中国語の新聞や雑誌を店頭のラックに並べる個人商店も多く、華人候補にとって選挙戦は有利に展開できる。 

この稿続く。

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「誰の財布」を使ったかは読者に想像してもらいたいが、在米メディアを次々と赤く染めていったファン女史は、

2018年01月09日 13時44分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

サンフランシスコ地元の英字系メディア7社を買収し、同市の『インディペンデント』紙と合併するなどメディアを次々と掌握し、大躍進していった。 

20003月には、135年の歴史を有する地元紙『エグザミナー』を買収。

在米の英字主流メディアをモノにした初めての華人としてファン女史の名前は広く知られるようになる。 

一方、江沢民の忠犬ハチ公だった黄菊は、上海を基盤に長期にわたり要職を歴任し、地盤を固め、胡錦濤体制の2003年には副首相にまで昇格した。

任期途中の2007年に膵臓ガンで死去したが、娘の嫁ぎ先、『アジアン・ウィーク』社が、反日宣伝工作など民間を装った模範的な「米西海岸の出先機関」となるには十分な時間だったのかもしれない。

「誰の財布」を使ったかは読者に想像してもらいたいが、在米メディアを次々と赤く染めていったファン女史は、20001月に北カリフォルニア州中国和平統一促進会をサンフランシスコで創設した。 

同年8月、欧州で開催された全世界華人中国平和統一促進大会には、名誉会長という立場で出席し、「中国と台湾、両岸の平和統一のために支える。統一してこそ中華民族が飛躍し、21世紀を華人世紀にするという理想を実現させることができる」と発言した。 

野望に膨らむ世界の華僑・華人は、主義主張というより権力者、すなわち利権(マネー)と結託し、そのネットワークを基軸に昇進を目指す。

米国に逃げ込んだ後は、「民主主義を求めて」とうそぶき、親玉の中国国民党が弱体化する中、中国共産党の上海閥に擦り寄り、さらなる飛躍を試みたのがファン女史なのだ。

この稿続く。

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現地中国語メディアは「国共聨姻」と記し、「方家は国民党を食い、共産党も食う」などと報じた。 

2018年01月09日 13時39分44秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「誰の財布」を使ったのか 

1990年と2003年に、「カリフォルニア・ウーマン・オブ・ザ・イヤー」にも選出された彼女は、「中小企業の支援制度を通じて知り合った」とされるパパ・ブッシュ夫妻との3ショット写真、クリントン大統領と談笑する写真、近年ではオバマ大統領との共演などがCCTV(中国中央テレビ)で報じられ、ヒラリー元国務長官との関係も近く、北京大学の名誉校董(理事)他、米中で数々の「名誉」の肩書を持つ。 

「チャイナタウンの地下室(の印刷所)から、ホワイトハウス・中南海へ」「苦難の主婦からメディア女王へ」などとファン女史を称える記事も散見する。 

一体なぜ、そこまで“大出世”したのか? 

方李邦琴は、方(ファン)が夫の名字で李(リ)が彼女の名字で、フローレンス・ファンはクリスチャンネームである。 

彼女は1935年に中国河南省鄭州で生まれ、戦後、11歳で台湾へ渡り、国立政治大学を卒業後に米国へ移住し、上海出身で台湾育ちの夫、方大川と共に印刷業を始め、中華料理屋経営などを経て出版業に本格的に乗り出したとされる。

(少年中国晨報》社は中国国民党系の雑誌出版社で、1979年に米国初の英文雑誌『アジアン・ウィーク』(Asian Week)を創刊した。 

そのファン家の転機は、ファン女史の夫が1992年に死去した後の1995年に遡る。

当時、上海市長を務めていた江沢民派の黄菊の娘・黄凡(米国留学中)と、ファン夫妻の長男で二代目社長の方以偉(James Fang)が結婚したのだ。

この婚姻を画策したのは、母親であるファン女史だったとされる。 

前年、黄菊は党中央政治局委員に選出され、上海市党委書記に就任していた。

共産党幹部の娘と国民党のいわば工作員夫婦の息子との婚姻について、現地中国語メディアは「国共聨姻」と記し、「方家は国民党を食い、共産党も食う」などと報じた。 

その“予言”通り、1198年頃から、『アジアン・ウィーク』社は飛ぶ鳥を落とす勢いとなる。

この稿続く。

 

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性奴隷はユダヤのホロコーストに匹敵する戦争犯罪だと印象づけるための動きである。

2018年01月09日 13時29分48秒 | 日記

この稿続く。

以下は前章の続きである。

日本軍の侵略、南京大虐殺30万人、数10万人の慰安婦を強制連行……。

性奴隷はユダヤのホロコーストに匹敵する戦争犯罪だと印象づけるための動きである。 

抗日戦争記念館はその旗艦施設で、長年、米国の西海岸を拠点とする反日工作のキーパーソンであり続け、在米華僑華人社会のトップクラスに上り詰めたのがファン女史だった。 

習近平国家主席が同年9月に訪米した際、在米の華僑華人代表らとシアトルで行われた記念撮影では、ファン女史は2列目のセンター(1列目センターの習主席と彭麗媛夫人の斜め後方)にいた。

1列目は中国共産党の高官ら同行者が座っていたので、2列目センターは事実上トップと考えられる。 

その際の宴席でもファン女史は一卓で、両脇には第二次習政権(2017

10月~)で序列3位となった栗戦書と序列5位の王滬寧が座っていた。

在米華僑華人の中で、ファン女史がどれはどの地位にいるかは、これで分かるはずだ。

この稿続く。

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1994年前後より、北米や香港を中心とする世界中の30前後の中国系、朝鮮半島系、左派の日系団体を結集させ

2018年01月09日 13時26分50秒 | 日記

以下は前章の続きである。

日本はスケープゴートにされた。 

1994年前後より、北米や香港を中心とする世界中の30前後の中国系、朝鮮半島系、左派の日系団体を結集させた世界抗日戦争史実維護連合会(本部はカリフォルニア州クパチーノ市)の活動が始動していく。 

抗日連合会の目的には、「日本が再び不当な侵略への行為を開始することを阻止するため、米国、中国、日本及び他の諸国で、過去の日本の侵略に対する批判が高まるよう、国際世論を喚起する」「人民をはじめアジアの被害者全てに補償を実施させる」などが明記された。 中でも顕著な動きを見せたのが、サンフランシスコ市だ。

私は同市を基点に6年前、カリフォルニア州の広範囲を取材し、書籍や本誌含む雑誌でも記事を発表しながら定点観測も続けてきた。そして恐れていたと言うべきか、やっぱりという事態が、20158月に報じられた。

前述の通り、中国国外で初となる抗日戦争記念館の開館である。

チャイナタウンの街頭では、開幕セレモニーも催された。 

中国語と英語で併記されたA4のパンフレットの挨拶文には、「第二次世界大戦の間、ナチス・ドイツに約600万人のユダヤ人が虐殺され、全世界に167ヵ所のユダヤ記念館や記念碑がある。一方、日本軍国主義により3500万人以上の中国人が抹殺されたが、海外に記念館は一つもない。それでは、この悲惨な歴史を世界が理解することができない」などと記されている。 

財団創設者であり、同館の名誉館長になったのは、在米女性実業家で社会活動家のフローレンス・ファン(方李邦琴。以下ファン女史)である。

御年82歳の彼女が、一人目の重要人物(華人女性①)である。 

抗日連合会のサンフランシスコ支部が置かれるチャイナタウン内の建物を、抗日戦争記念館としてリニューアルした。

建物の所有者はファン女史だ。 

70年を節目に、中国・華人社会は新たな歴史戦への宣戦布告をしたと私は受け取った。

この稿続く。

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と同時に「残虐非道」な中華民族の本性がバレたことで、華僑・華人も肩身を狭くする。

2018年01月09日 13時23分36秒 | 日記

以下は前章の続きである。

天安門事件で本性がバレた 

江沢民が国家主席だった90年代、中国は愛国主義教育模範基地と称した「反日拠点」を国内に次々と設けていく。

並行して、米国の華僑・華人らを動かし、「南京大虐殺」他、捏造の史実の拡散と戦争責任の追及に心血を注ぐ活動を展開していった。 

なぜか? 

中国は当時、大ピンチに陥っていた。

鄧小平による改革開放政策で主に日本マネーで潤っていた最中の1989年6月、天安門事件-民主化を叫んだ若者らが人民解放軍の装甲車にひかれ、銃弾に倒れるなど大量な死傷者が出た―が全世界に報じられたためだ。 

東西ベルリンの壁がギリギリあったその頃、自由と民主と人権の価値観が強烈だった西側社会ならずとも、世界は一瞬にして中国共産党の本性に気づき、距離を置くことにしたのだ。

と同時に「残虐非道」な中華民族の本性がバレたことで、華僑・華人も肩身を狭くする。

その後、ソ連も崩壊し、共産主義への風当たりはより強まった。 

そういった中でのウルトラC案が、被害者のフリをして日本を徹底的に貶める“歴史戦”だったのだ。

この稿続く。

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そういった中でのウルトラC案が、被害者のフリをして日本を徹底的に貶める“歴史戦”だったのだ。

2018年01月09日 13時22分21秒 | 日記

以下は前章の続きである。

天安門事件で本性がバレた 

江沢民が国家主席だった90年代、中国は愛国主義教育模範基地と称した「反日拠点」を国内に次々と設けていく。

並行して、米国の華僑・華人らを動かし、「南京大虐殺」他、捏造の史実の拡散と戦争責任の追及に心血を注ぐ活動を展開していった。 

なぜか? 

中国は当時、大ピンチに陥っていた。

鄧小平による改革開放政策で主に日本マネーで潤っていた最中の1989年6月、天安門事件-民主化を叫んだ若者らが人民解放軍の装甲車にひかれ、銃弾に倒れるなど大量な死傷者が出た―が全世界に報じられたためだ。 

東西ベルリンの壁がギリギリあったその頃、自由と民主と人権の価値観が強烈だった西側社会ならずとも、世界は一瞬にして中国共産党の本性に気づき、距離を置くことにしたのだ。

と同時に「残虐非道」な中華民族の本性がバレたことで、華僑・華人も肩身を狭くする。

その後、ソ連も崩壊し、共産主義への風当たりはより強まった。 

そういった中でのウルトラC案が、被害者のフリをして日本を徹底的に貶める“歴史戦”だったのだ。

この稿続く。

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この二人の華人女性を要とする様々な工作により、同市は「全米一」と言っても過言ではないほど赤く染まってしまった

2018年01月09日 13時18分57秒 | 日記

以下は前章の続きである。

さらに、同市を舞台とする“歴史戦”は、戦後70年を迎えた2015年9月下旬に、市議会で像や碑の設置を求める決議案が全会一致で採択された慰安婦像だけではない。

同年8月15日には、抗日連合会の中心人物(後述する華大女性①)が抗日戦争記念館(中国語の表記は「海外抗日戦争紀念館」)をチャイナタウン内に開館させており、計画はその前年に報じられている。 また、リー市長もそうだが、市議11人の中には現在も華人が3人。市長の補佐役も、市議を二期務めた華人女性である。

そのリー市長だが、いわば「江沢民の傀儡」だったとも言える。

その背景には、市長選や市の行政を長年、動かしてきた人物(後述する華人女性②)や中華總商會の存在がある。 

この二人の華人女性を要とする様々な工作により、同市は「全米一」と言っても過言ではないほど赤く染まってしまった。 

大阪市はサンフランシスコとの姉妹都市関係を60年続けてきたはずだが、この“友好都市”の実態、その変容ぶりを、歴代の市長や市議、市職員ら関係者は注視し、警戒してこなかったのだろうか?

この稿続く。

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そもそも、サンフランシスコ市はとっくの昔から中国の“飛び地”と化している。古くは戦前から。

2018年01月09日 13時16分10秒 | 日記

以下は月刊誌WiLL今月号に掲載されている河添恵子さんの労作からである。

サンフランシスコ慰安婦像の衝撃!

華人“くノ一”の暗躍

チャイナタウンで知られるサンフランシスコーそこはとっくに友好都市ではなくなった

リー市長、突然死

米サンフランシスコ市議会は、9月22日を「慰安婦の日」と定め、世界抗日戦争史実維護連合会らが現地に建てた慰安婦像の寄贈と維持費を受け入れる決議案を11月14日、全会一致で可決させた。

そして華人系二世のエドウイン・リー(李孟賢)市長は、その決議案に署名をした。 

これにより、「性奴隷にされた何十万人の女性」「大多数は囚われの身のまま命を落とした」などと、碑文に“フェイク”が刻み込まれた慰安婦像が市の所有となった。

リー市長宛てに寄贈の受け入れの反対を明記した公開書簡を送付(平成29年2月1日付)していた姉妹都市、大阪市の吉村洋文市長はこの決定を受け、11月23日に、「リー市長の行動により姉妹都市の信頼関係は消滅した。姉妹都市解消に向けた内部手続きを行い、12月中には手続きを完了させたい」とのコメントを出した。

さらに12月11日、市長は「姉妹都市解消後も抗議の書簡を送る」との考えを明らかにした。 

ところが、その翌日、驚きの一報が入った。

リー市長が突然死したのだ。

享年六十五だった。

通知は先送りとなり、哀悼の誠を捧げる書簡に変わった。 

そもそも、サンフランシスコ市はとっくの昔から中国の“飛び地”と化している。

古くは戦前から。

そして、米中が国交を樹立(1979年1月1日)し、同年に上海との姉妹都市関係を締結するが、江沢民が上海市長に就いた1985年以降、ほぼ彼の支配下に入っていたのだ。 

この稿続く。

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Pelo contrário, é a China que enfrenta o fosso de "fraqueza" do Japão, artigo 9

2018年01月09日 11時59分49秒 | 日記

O seguinte é a continuação do capítulo anterior.

Olhando para o assalto 'Takeshima' '' ameaça de Senkaku '' incidentes de irradiação de radar de controle de fogo ', não acho que o artigo 9 da Constituição japonesa seja útil para algo.

Pelo contrário, é a China que enfrenta o fosso de "fraqueza" do Japão, artigo 9 da Constituição japonesa, que liga as mãos e os pés.

Atualmente, é mais eficaz lidar com a defesa do Japão no guarda-chuva nuclear dos Estados Unidos com base no Tratado de Segurança Japão-EUA.

Artigo 9 da Constituição japonesa, você pode prever imediatamente uma condição miserável.

Na verdade, não havia soberano no Japão até 1952 (Showa 27), não havia SDF, houve uma era de apenas "Artigo 9 da Constituição japonesa".

Dois "conflitos armados" que ocorreram naquela época eram,

① A "participação na Guerra da Coreia" no Japão (despacho de dragadores de minas)

② 'Takeshima rope' pela força de armas de Syngman Rhee.

Infelizmente, "o artigo 9 da Constituição japonesa" era apenas "palavras vazias".

Este rascunho continua.

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Es ist vielmehr China, das die Lücke als "Schwäche" Japans, Artikel 9, schließt

2018年01月09日 11時59分06秒 | 日記

Das Folgende ist die Fortsetzung des vorherigen Kapitels.

Betrachtet man 'Takeshima Raub' 'Senkaku Bedrohung' 'Feuerbekämpfung Radarbestrahlung Vorfälle', glaube ich nicht, dass Artikel 9 der japanischen Verfassung für etwas nützlich ist.

Es ist eher China, das sich der Kluft von Japans "Schwäche", Artikel 9 der japanischen Verfassung, die Hände und Füße verbindet, gegenüber sieht.

Derzeit ist es am effektivsten, sich mit der Verteidigung Japans im nuklearen Schutzschirm der Vereinigten Staaten auf der Grundlage des japanisch-amerikanischen Sicherheitsvertrags zu befassen.

Nach Artikel 9 der japanischen Verfassung können Sie sofort einen erbärmlichen Zustand voraussagen.

In der Tat gab es bis 1952 keinen Souverän in Japan (Showa 27), es gab keine SDF, es gab nur eine Ära des "Artikels 9 der japanischen Verfassung".

Zwei "bewaffnete Konflikte", die damals stattfanden, waren:

① Japans Teilnahme am Koreakrieg (Entsendung von Minensuchern)

② 'Takeshima Raub' von Syngman Rhees Waffengewalt.

Leider war "Artikel 9 der japanischen Verfassung" nur "leere Worte".

Dieser Entwurf wird fortgesetzt.

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Au contraire, c'est la Chine qui fait face à la "faiblesse" du Japon, article 9

2018年01月09日 10時16分42秒 | 日記

Ce qui suit est la suite du chapitre précédent.

En regardant le vol de Takeshima, la menace de Senkaku, les incidents d'irradiation par radar de contrôle des incendies, je ne pense pas que l'article 9 de la Constitution japonaise soit utile pour quelque chose.

Au contraire, c'est la Chine qui fait face à la «faiblesse» du Japon, l'article 9 de la Constitution japonaise qui lie les mains et les pieds.

Actuellement, il est plus efficace de s'occuper de la défense du Japon dans le cadre nucléaire des États-Unis, sur la base du Traité de sécurité entre le Japon et les États-Unis.

Article 9 de la Constitution japonaise seulement, vous pouvez immédiatement prédire une condition misérable.

En effet, il n'y avait pas de souverain au Japon jusqu'en 1952 (Showa 27), il n'y avait pas de SDF, il n'y avait qu'une ère de «l'article 9 de la Constitution japonaise».

Deux «conflits armés» survenus à l'époque étaient,

'La participation du Japon à la guerre de Corée (envoi de dragueurs de mines)

② 'Takeshima robbery' par la force des bras de Syngman Rhee.

Malheureusement, «l'article 9 de la Constitution japonaise» n'était que «des mots vides».

Ce projet continue.

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