文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

2018年05月05日 07時06分02秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。

その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

2018年05月05日 07時04分54秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。

その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう

2018年05月05日 07時03分50秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。

その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。

2018年05月05日 07時02分41秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。

その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

2018年05月05日 07時01分08秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

2018年05月05日 07時00分04秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった

2018年05月05日 06時58分55秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


悪用される学者の肩書 学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

2018年05月05日 06時57分25秒 | 日記

以下は前章の続きである。

悪用される学者の肩書 

学問が本来の機能を果たすためには、政治的に中立でなければならない。

にもかかわらず、学者が自ら「安全保障関連法に反対する学者の会」のような政治運動を主導するとは、私は学者の一人として全く信じられない思いだった。

普段、大学の自治や学問の政治的独立を声高に主張する人々が、自ら学者の名で政治運動にコミットすることの矛盾は、まともな理性の持ち主なら気づかぬはずはない。

ところが、この運動に一万人を遥かに超える学者が署名を寄せたのである。 

もちろん、学者であっても一市民として政治的な発言の自由は当然ある。

しかし、その発言は市民の立場で行うべきであって、学者の肩書を使って行われるべきではない。

でなければ、学問の政治的独立性は守れない。

実は、当時、学者の肩書による政治活動に対する抗議運動の展開を模索したことがある。

賛同の声も少なくなかったが、その運動自体が政治運動になるのではないかと危惧する声も多かった。

良心的な学者は政治的な動きをすることにそこまで慎重なのである。その結果、良心に欠ける学者の声ばかりが社会に広まってしまうのは皮肉である。 

『学問とは何か』でも書いたが、学問は価値中立でなければならないものの、学問が学問であり続けることを守るという価値だけは掲げないと、学問が自壊してしまう。

そのため、学問を守るという価値だけは学者の肩書で主張することが許されて然るべきである。

ただし、その主張が特定の政治運動に対して向けられると、逆向きの政治性を帯びてしまうというジレンマに陥る。 

残念なことに、最近は、学問が価値中立でなければならないという主張自体を攻撃する学者が現れている。

原子力や戦争は絶対悪であるから無条件に否定されねばならないという主張である。

確かに原子力の事故は一度起きるとその被害は甚大であり、放射性廃棄物の問題も深刻である。

ただ、その一方で、さきほど述べた通り原子力以外の発電方法も大きな副作用を抱えている。

戦争も絶対悪といえるかどうかは非常に疑わしい。

隣国が攻めてきて、抵抗しなければ国民全員が奴隷になるとき、自衛の戦争をすることについては、少なくとも日本以外の国では大多数の人が正しいと判断する。 

現在の学問分野は多岐にわたるが、その源流は哲学に行きつく。

だから、米国ではどの専門分野で博士号の学位をとっても、Doctorof Philosophy(哲学博士)になる。

哲学の基本はまず疑うことである。

それは一般向けに書かれてヒットした哲学入門書である『ソフィーの世界』や『これから「正義」の話をしよう』からも読み取ることができる。

その健全な懐疑を根本から否定する学者が少なくないのが今の日本の学界が置かれた現状である。

左翼は理論系に多く 工学系に少ない? 

以後の議論では、イデオロギーの区分として「左翼」という言葉を使うが、この言葉には定義の曖昧性があるので、本稿での定義を先に述べておく。

本稿でいう左翼は次の特徴を有する思想を指す。 

●表向きは「リベラル」を標榜するが、実際には自分および自ら共感を寄せる集団の自由にのみ関心があり、それ以外の人間の自由には関心がない。自由や人権を弾圧する国家に共感を持つことも多い。 ●ある種の万能感を有し、自分は常に正しいと考える傾向が強い。そのため、「ダイバーシティ」を標榜しながら、自らの意見と異なる言論をしばしば封殺する。 

●反権力や弱者救済を掲げる一方、自ら権力を得たいという欲求が強く、立身出世に執着する。奉仕の精神に乏しく、社会貢献には関心が薄い。 

●現実に起きていることよりも自らの頭の中にある理想を優先させる。自分の思想が現実と合わない場合、自らの考えを修正するのではなく現実を非難する。 

このような特徴を持つ思想は、本来「左翼権威主義」と呼ぶべきかもしれない。

しかし、権威主義的でない左翼は残念ながら現在の日本の学界には少ないので、本稿では「左翼」と省略させていただくことにする。

この稿続く。


最近、メガソーラーによる自然破壊が問題視され始めているが、こうした事態は、

2018年05月05日 06時49分53秒 | 日記

以下は前章の続きである。

自然科学の政治偏向 

既に述べた通り、人文科学、社会科学、自然科学など、科学と名の付く全ての学問は、予測力を持つ体系的知識の構築を目指すものである。

この目的を達するためには、学問は政治的に中立でなくてはならない。

たとえば、親中国という政治性を持つ学者たちは、中国がWTO加盟などで国際社会の一員になれば、知財権も守るようになるし、領土的野心も見せなくなると主張していた。

しかし、その予測は完全に外れた。

こういう結果になることは、中国共産党の歴史や政治機構を客観的に分析すれば、十分予想できただろう。

残念ながら自然科学の分野にも政治性は存在する。

原子力推進の学者の中には原子力発電は絶対安全と言っていた学者がいたが、科学的に絶対安全などというものはありえない。

実際、福島第一原発は事故を起こした。

一方、自然エネルギーは環境に優しいと宣伝して研究予算を獲得する研究者も少なくないが、自然エネルギーはそのエネルギー密度の低さゆえ、主要電源にするには広大な面積の開発による自然破壊を伴う[4]。

最近、メガソーラーによる自然破壊が問題視され始めているが、こうした事態は、特定の政治やイデオロギーの色眼鏡なしで見れば簡単に予測できたのである。

この稿続く。


自然エネルギーはそのエネルギー密度の低さゆえ、主要電源にするには広大な面積の開発による自然破壊を伴う

2018年05月05日 06時48分55秒 | 日記

以下は前章の続きである。

自然科学の政治偏向 

既に述べた通り、人文科学、社会科学、自然科学など、科学と名の付く全ての学問は、予測力を持つ体系的知識の構築を目指すものである。

この目的を達するためには、学問は政治的に中立でなくてはならない。

たとえば、親中国という政治性を持つ学者たちは、中国がWTO加盟などで国際社会の一員になれば、知財権も守るようになるし、領土的野心も見せなくなると主張していた。

しかし、その予測は完全に外れた。

こういう結果になることは、中国共産党の歴史や政治機構を客観的に分析すれば、十分予想できただろう。

残念ながら自然科学の分野にも政治性は存在する。

原子力推進の学者の中には原子力発電は絶対安全と言っていた学者がいたが、科学的に絶対安全などというものはありえない。

実際、福島第一原発は事故を起こした。

一方、自然エネルギーは環境に優しいと宣伝して研究予算を獲得する研究者も少なくないが、自然エネルギーはそのエネルギー密度の低さゆえ、主要電源にするには広大な面積の開発による自然破壊を伴う[4]。

最近、メガソーラーによる自然破壊が問題視され始めているが、こうした事態は、特定の政治やイデオロギーの色眼鏡なしで見れば簡単に予測できたのである。

この稿続く。


こういう結果になることは、中国共産党の歴史や政治機構を客観的に分析すれば、十分予想できただろう。

2018年05月05日 06時47分48秒 | 日記

以下は前章の続きである。

自然科学の政治偏向 

既に述べた通り、人文科学、社会科学、自然科学など、科学と名の付く全ての学問は、予測力を持つ体系的知識の構築を目指すものである。

この目的を達するためには、学問は政治的に中立でなくてはならない。

たとえば、親中国という政治性を持つ学者たちは、中国がWTO加盟などで国際社会の一員になれば、知財権も守るようになるし、領土的野心も見せなくなると主張していた。

しかし、その予測は完全に外れた。

こういう結果になることは、中国共産党の歴史や政治機構を客観的に分析すれば、十分予想できただろう。

残念ながら自然科学の分野にも政治性は存在する。

原子力推進の学者の中には原子力発電は絶対安全と言っていた学者がいたが、科学的に絶対安全などというものはありえない。

実際、福島第一原発は事故を起こした。

一方、自然エネルギーは環境に優しいと宣伝して研究予算を獲得する研究者も少なくないが、自然エネルギーはそのエネルギー密度の低さゆえ、主要電源にするには広大な面積の開発による自然破壊を伴う[4]。

最近、メガソーラーによる自然破壊が問題視され始めているが、こうした事態は、特定の政治やイデオロギーの色眼鏡なしで見れば簡単に予測できたのである。

この稿続く。


親中国という政治性を持つ学者たちは、中国がWTO加盟などで国際社会の一員になれば、知財権も守るようになるし、領土的野心も見せなく

2018年05月05日 06時46分47秒 | 日記

以下は前章の続きである。

自然科学の政治偏向 

既に述べた通り、人文科学、社会科学、自然科学など、科学と名の付く全ての学問は、予測力を持つ体系的知識の構築を目指すものである。

この目的を達するためには、学問は政治的に中立でなくてはならない。

たとえば、親中国という政治性を持つ学者たちは、中国がWTO加盟などで国際社会の一員になれば、知財権も守るようになるし、領土的野心も見せなくなると主張していた。

しかし、その予測は完全に外れた。

こういう結果になることは、中国共産党の歴史や政治機構を客観的に分析すれば、十分予想できただろう。

残念ながら自然科学の分野にも政治性は存在する。

原子力推進の学者の中には原子力発電は絶対安全と言っていた学者がいたが、科学的に絶対安全などというものはありえない。

実際、福島第一原発は事故を起こした。

一方、自然エネルギーは環境に優しいと宣伝して研究予算を獲得する研究者も少なくないが、自然エネルギーはそのエネルギー密度の低さゆえ、主要電源にするには広大な面積の開発による自然破壊を伴う[4]。

最近、メガソーラーによる自然破壊が問題視され始めているが、こうした事態は、特定の政治やイデオロギーの色眼鏡なしで見れば簡単に予測できたのである。

この稿続く。


前出の「安全保障関連法に反対する学者の会」がそれを乗り越える格好の材料を提供してくれた。

2018年05月05日 06時44分36秒 | 日記

以下は前章の続きである。

難関大学の偏りを比較 

次に試みたのは、大学のホームページに掲載されている文章の分析である[3]。

ホームページに掲載されている大学教員のメッセ-ジや研究科・専攻の教育理念などの文章を学問分野別に収集して分析対象とした。収集・分析の対象とした大学と文章は、東京大学(人文社会科学44、理工学51、生命科学38)、京都大学(同723740)、筑波大学、(同513232)、早稲田大学(人文社会科学55、理工学29)、慶応大学(同4732)である。

早大と慶大の生命科学については該当する組織が少なく十分な数の文章が集まらないため、対象から外している。 

収集した文章について、人文社会科学、理工学、生命科学の3分野に分けて、それぞれ各大学の文章がどの政党の発言と類似度が高いかを判定した結果を左の図1から図3に示す。

全て与党寄りに判定されているのは、大学をアピールする文章を収集しているため、批判的・ネガティブな表現よりポジティブな表現が多いことによる。

その中でも、京都大学の全ての学問分野と慶応大学の文系が野党との類似度が高いこと、学問分野別では理工系が最も与党寄りで、生命科学が最も野党寄りであることが分かった。 

ただ、文章が与党の発言に類似するか、野党の発言に類似するかは、ポジティブ表現、ネガティブ表現の偏りにも影響されるため、考え方が保守的か革新的かの判断材料とするには不十分な点も多い。

そのため、大学のイデオロギー・バイアスを調査する研究は一旦頓挫していたが、前出の「安全保障関連法に反対する学者の会」がそれを乗り越える格好の材料を提供してくれた。

この稿続く。


新聞社説は基本的には何かに批判的なスタンスで書かれることが多いため、こうした結果が得られたと考えられる

2018年05月05日 06時41分17秒 | 日記

以下は前章の続きである。 

1999年から2008年までの国会会議録を機械学習して得られた判定システムに、各議員がどの政党に所属するか、自民党、公明党、民主党(当時)、社民党、共産党の5択で判定させたところ、最も正解率が高いのは共産党(93%)、逆に最も正解率が低いのは民主党(65%)であった。 

つまり、共産党は議員の意見が最も画一的なので、人工知能も「共産党」と判別し易かったのに対し、民主党は議員の意見が最も多様で共通点が見出しにくいため、正答率も下がったと解釈できる。

共産党に所属する議員の意見が画一的であるということは、同党が最も集団思考の傾向が強いとも言える。

逆に民主党の所属議員の意見が多様ということは、分裂しやすい党であるとも言えるが、その予測は民進党分裂で見事的中した。 

自民党は民主党の次に低い正解率7割であった。

この客観的データに基づけば、自民党が集団思考であるという批判は正しくない。 

この研究結果をベースとして、同システムによって、世の中の言説の政治的バイアスを測定できるのではないかと考えた。

各種言説がどの政党の議員の発言と類似度が高いかを数値的に出せるからである。

最初に行ったのが新聞の社説への応用である。

朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、読売新聞、産経新聞の5社を対象にしたところ、朝日新聞が当時の野党三党(民主党、衽民党、共産党)と最も類似度が高く、逆に産経新聞が最も低いという、一般的な認識に沿った順当な結果が出たものの、いずれの5紙も野党との類似度が与党のそれを上回った。

新聞社説は基本的には何かに批判的なスタンスで書かれることが多いため、こうした結果が得られたと考えられる。

この稿続く。


一般的な認識に沿った順当な結果が出たものの、いずれの5紙も野党との類似度が与党のそれを上回った

2018年05月05日 06時40分41秒 | 日記

以下は前章の続きである。 

1999年から2008年までの国会会議録を機械学習して得られた判定システムに、各議員がどの政党に所属するか、自民党、公明党、民主党(当時)、社民党、共産党の5択で判定させたところ、最も正解率が高いのは共産党(93%)、逆に最も正解率が低いのは民主党(65%)であった。 

つまり、共産党は議員の意見が最も画一的なので、人工知能も「共産党」と判別し易かったのに対し、民主党は議員の意見が最も多様で共通点が見出しにくいため、正答率も下がったと解釈できる。

共産党に所属する議員の意見が画一的であるということは、同党が最も集団思考の傾向が強いとも言える。

逆に民主党の所属議員の意見が多様ということは、分裂しやすい党であるとも言えるが、その予測は民進党分裂で見事的中した。 

自民党は民主党の次に低い正解率7割であった。

この客観的データに基づけば、自民党が集団思考であるという批判は正しくない。 

この研究結果をベースとして、同システムによって、世の中の言説の政治的バイアスを測定できるのではないかと考えた。

各種言説がどの政党の議員の発言と類似度が高いかを数値的に出せるからである。

最初に行ったのが新聞の社説への応用である。

朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、読売新聞、産経新聞の5社を対象にしたところ、朝日新聞が当時の野党三党(民主党、衽民党、共産党)と最も類似度が高く、逆に産経新聞が最も低いという、一般的な認識に沿った順当な結果が出たものの、いずれの5紙も野党との類似度が与党のそれを上回った。

新聞社説は基本的には何かに批判的なスタンスで書かれることが多いため、こうした結果が得られたと考えられる。

この稿続く。