文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

マスコミの世論調査を見る限り、扇動的に訴えてきた野党の支持率は上がっていませんが、一方で、「支持政党なし」という層が増えて

2018年05月03日 12時07分52秒 | 日記

以下は前章の続きである。

野党の「文書改竄批判」は皮相的 

日本で扇動が幅を利かせやすくなっている背景には何かあるのでしょうか? 

高井 私はマスコミの影響が大きいと思います。

マスコミは事実を国民に伝えることで民主主義社会を支えてきたのですが、最近はそうした責任を軽視しているように思えます。

実際、朝日新聞が誤りを認めた慰安婦報道などの影響で、少なくない数の国民が「マスコミは自分たちに都合の良い事実だけを知らせているのではないか」と不信感を抱くようになっています。

国民が「事実を知る手段がない」と思うようになると、扇動はますます幅を利かせやすくなるでしょう。

また、マスコミと共に国民から「正しい事実を伝えてくれている」と頼られていた検察も、厚生労働省の村木厚子元局長の無罪が確定した証拠改竄を機に国民の信を失いました。

事実を解明すべき検察と、事実を国民に知らせるべきマスコミへの信頼が地に落ちている現状は、まさに「ゲッベルス」を生みやすく、とても危険だと思います。 

突き詰めて考えると、民主主義にとっては、マスコミの扇動的な報道を鵜呑みにする人が増えることも危険だし、逆に扇動的な報道によってマスコミ不信が強まり過ぎることも危険だということです。

扇動は独裁者を生みかねません。

マスコミの一部に「視聴率が上がるならば少しくらい扇動してもいいや」という安直な考えがあるとしたら、そのような無責任な姿勢が国民の理性を麻痺させ、それに乗じる「モンスター」を誕生させてしまうかもしれないという危機感を持つべきだと思います。

マスコミが生み出した独裁者にマスコミ自身が食べられてしまう、つまり、倒されてしまうことも考えられます。

だからこそ、マスコミはあくまで正確な事実を国民に伝えることを重視し、権力をいかに批判するかは国民の理性的判断に委ねるべきだと思います。 

-『正論』2017年10月号のインタビューで、モーリー・ロバートソンさんが同じような懸念を示されていましたが、政治家やマスコミが扇動の危険性を自覚しているようには見えません。 

高井 非常に深刻だと思いますね。

野党は決裁文書書き換えについて「民主主義の危機だ」「民主主義に対する挑戦だ」などと言っていますが、本質を外していると思います。

もっとも心配すべきは「このまま国民の感情・情緒に訴えるという手法が一般化していくと、日本にモンスターが生まれてしまうのではないか」ということです。

実際、世界を見渡せば“独裁者”が跋扈する時代を迎えつつあるように見えます。

マスコミの世論調査を見る限り、扇動的に訴えてきた野党の支持率は上がっていませんが、一方で、「支持政党なし」という層が増えています。

つまり、政党政治そのものに対する信頼が揺らいでいるという見方もできる。

それこそが「民主主義の危機」と言うべきではないかと思います。

 


もっとも心配すべきは「このまま国民の感情・情緒に訴えるという手法が一般化していくと、日本にモンスターが生まれてしまうのではないか

2018年05月03日 12時06分22秒 | 日記

以下は前章の続きである。

野党の「文書改竄批判」は皮相的 

日本で扇動が幅を利かせやすくなっている背景には何かあるのでしょうか? 

高井 私はマスコミの影響が大きいと思います。

マスコミは事実を国民に伝えることで民主主義社会を支えてきたのですが、最近はそうした責任を軽視しているように思えます。

実際、朝日新聞が誤りを認めた慰安婦報道などの影響で、少なくない数の国民が「マスコミは自分たちに都合の良い事実だけを知らせているのではないか」と不信感を抱くようになっています。

国民が「事実を知る手段がない」と思うようになると、扇動はますます幅を利かせやすくなるでしょう。

また、マスコミと共に国民から「正しい事実を伝えてくれている」と頼られていた検察も、厚生労働省の村木厚子元局長の無罪が確定した証拠改竄を機に国民の信を失いました。

事実を解明すべき検察と、事実を国民に知らせるべきマスコミへの信頼が地に落ちている現状は、まさに「ゲッベルス」を生みやすく、とても危険だと思います。 

突き詰めて考えると、民主主義にとっては、マスコミの扇動的な報道を鵜呑みにする人が増えることも危険だし、逆に扇動的な報道によってマスコミ不信が強まり過ぎることも危険だということです。

扇動は独裁者を生みかねません。

マスコミの一部に「視聴率が上がるならば少しくらい扇動してもいいや」という安直な考えがあるとしたら、そのような無責任な姿勢が国民の理性を麻痺させ、それに乗じる「モンスター」を誕生させてしまうかもしれないという危機感を持つべきだと思います。

マスコミが生み出した独裁者にマスコミ自身が食べられてしまう、つまり、倒されてしまうことも考えられます。

だからこそ、マスコミはあくまで正確な事実を国民に伝えることを重視し、権力をいかに批判するかは国民の理性的判断に委ねるべきだと思います。 

-『正論』2017年10月号のインタビューで、モーリー・ロバートソンさんが同じような懸念を示されていましたが、政治家やマスコミが扇動の危険性を自覚しているようには見えません。 

高井 非常に深刻だと思いますね。

野党は決裁文書書き換えについて「民主主義の危機だ」「民主主義に対する挑戦だ」などと言っていますが、本質を外していると思います。

もっとも心配すべきは「このまま国民の感情・情緒に訴えるという手法が一般化していくと、日本にモンスターが生まれてしまうのではないか」ということです。

実際、世界を見渡せば“独裁者”が跋扈する時代を迎えつつあるように見えます。

マスコミの世論調査を見る限り、扇動的に訴えてきた野党の支持率は上かっていませんが、一方で、「支持政党なし」という層が増えています。

つまり、政党政治そのものに対する信頼が揺らいでいるという見方もできる。

それこそが「民主主義の危機」と言うべきではないかと思います。

 


野党は決裁文書書き換えについて「民主主義の危機だ」「民主主義に対する挑戦だ」などと言っていますが、本質を外している

2018年05月03日 12時05分27秒 | 日記

以下は前章の続きである。

野党の「文書改竄批判」は皮相的 

日本で扇動が幅を利かせやすくなっている背景には何かあるのでしょうか? 

高井 私はマスコミの影響が大きいと思います。

マスコミは事実を国民に伝えることで民主主義社会を支えてきたのですが、最近はそうした責任を軽視しているように思えます。

実際、朝日新聞が誤りを認めた慰安婦報道などの影響で、少なくない数の国民が「マスコミは自分たちに都合の良い事実だけを知らせているのではないか」と不信感を抱くようになっています。

国民が「事実を知る手段がない」と思うようになると、扇動はますます幅を利かせやすくなるでしょう。

また、マスコミと共に国民から「正しい事実を伝えてくれている」と頼られていた検察も、厚生労働省の村木厚子元局長の無罪が確定した証拠改竄を機に国民の信を失いました。

事実を解明すべき検察と、事実を国民に知らせるべきマスコミへの信頼が地に落ちている現状は、まさに「ゲッベルス」を生みやすく、とても危険だと思います。 

突き詰めて考えると、民主主義にとっては、マスコミの扇動的な報道を鵜呑みにする人が増えることも危険だし、逆に扇動的な報道によってマスコミ不信が強まり過ぎることも危険だということです。

扇動は独裁者を生みかねません。

マスコミの一部に「視聴率が上がるならば少しくらい扇動してもいいや」という安直な考えがあるとしたら、そのような無責任な姿勢が国民の理性を麻痺させ、それに乗じる「モンスター」を誕生させてしまうかもしれないという危機感を持つべきだと思います。

マスコミが生み出した独裁者にマスコミ自身が食べられてしまう、つまり、倒されてしまうことも考えられます。

だからこそ、マスコミはあくまで正確な事実を国民に伝えることを重視し、権力をいかに批判するかは国民の理性的判断に委ねるべきだと思います。 

-『正論』2017年10月号のインタビューで、モーリー・ロバートソンさんが同じような懸念を示されていましたが、政治家やマスコミが扇動の危険性を自覚しているようには見えません。 

高井 非常に深刻だと思いますね。

野党は決裁文書書き換えについて「民主主義の危機だ」「民主主義に対する挑戦だ」などと言っていますが、本質を外していると思います。

もっとも心配すべきは「このまま国民の感情・情緒に訴えるという手法が一般化していくと、日本にモンスターが生まれてしまうのではないか」ということです。

実際、世界を見渡せば“独裁者”が跋扈する時代を迎えつつあるように見えます。

マスコミの世論調査を見る限り、扇動的に訴えてきた野党の支持率は上かっていませんが、一方で、「支持政党なし」という層が増えています。

つまり、政党政治そのものに対する信頼が揺らいでいるという見方もできる。

それこそが「民主主義の危機」と言うべきではないかと思います。

 


だからこそ、マスコミはあくまで正確な事実を国民に伝えることを重視し、権力をいかに批判するかは国民の理性的判断に委ねる

2018年05月03日 12時04分23秒 | 日記

以下は前章の続きである。

野党の「文書改竄批判」は皮相的 

日本で扇動が幅を利かせやすくなっている背景には何かあるのでしょうか? 

高井 私はマスコミの影響が大きいと思います。

マスコミは事実を国民に伝えることで民主主義社会を支えてきたのですが、最近はそうした責任を軽視しているように思えます。

実際、朝日新聞が誤りを認めた慰安婦報道などの影響で、少なくない数の国民が「マスコミは自分たちに都合の良い事実だけを知らせているのではないか」と不信感を抱くようになっています。

国民が「事実を知る手段がない」と思うようになると、扇動はますます幅を利かせやすくなるでしょう。

また、マスコミと共に国民から「正しい事実を伝えてくれている」と頼られていた検察も、厚生労働省の村木厚子元局長の無罪が確定した証拠改竄を機に国民の信を失いました。

事実を解明すべき検察と、事実を国民に知らせるべきマスコミへの信頼が地に落ちている現状は、まさに「ゲッベルス」を生みやすく、とても危険だと思います。 

突き詰めて考えると、民主主義にとっては、マスコミの扇動的な報道を鵜呑みにする人が増えることも危険だし、逆に扇動的な報道によってマスコミ不信が強まり過ぎることも危険だということです。

扇動は独裁者を生みかねません。

マスコミの一部に「視聴率が上がるならば少しくらい扇動してもいいや」という安直な考えがあるとしたら、そのような無責任な姿勢が国民の理性を麻痺させ、それに乗じる「モンスター」を誕生させてしまうかもしれないという危機感を持つべきだと思います。

マスコミが生み出した独裁者にマスコミ自身が食べられてしまう、つまり、倒されてしまうことも考えられます。

だからこそ、マスコミはあくまで正確な事実を国民に伝えることを重視し、権力をいかに批判するかは国民の理性的判断に委ねるべきだと思います。 

-『正論』2017年10月号のインタビューで、モーリー・ロバートソンさんが同じような懸念を示されていましたが、政治家やマスコミが扇動の危険性を自覚しているようには見えません。 

高井 非常に深刻だと思いますね。

野党は決裁文書書き換えについて「民主主義の危機だ」「民主主義に対する挑戦だ」などと言っていますが、本質を外していると思います。

もっとも心配すべきは「このまま国民の感情・情緒に訴えるという手法が一般化していくと、日本にモンスターが生まれてしまうのではないか」ということです。

実際、世界を見渡せば“独裁者”が跋扈する時代を迎えつつあるように見えます。

マスコミの世論調査を見る限り、扇動的に訴えてきた野党の支持率は上かっていませんが、一方で、「支持政党なし」という層が増えています。

つまり、政党政治そのものに対する信頼が揺らいでいるという見方もできる。

それこそが「民主主義の危機」と言うべきではないかと思います。

 


事実を解明すべき検察と、事実を国民に知らせるべきマスコミへの信頼が地に落ちている現状は、まさに「ゲッベルス」を生みやすく

2018年05月03日 12時02分02秒 | 日記

以下は前章の続きである。

野党の「文書改竄批判」は皮相的 

日本で扇動が幅を利かせやすくなっている背景には何かあるのでしょうか? 

高井 私はマスコミの影響が大きいと思います。

マスコミは事実を国民に伝えることで民主主義社会を支えてきたのですが、最近はそうした責任を軽視しているように思えます。

実際、朝日新聞が誤りを認めた慰安婦報道などの影響で、少なくない数の国民が「マスコミは自分たちに都合の良い事実だけを知らせているのではないか」と不信感を抱くようになっています。

国民が「事実を知る手段がない」と思うようになると、扇動はますます幅を利かせやすくなるでしょう。

また、マスコミと共に国民から「正しい事実を伝えてくれている」と頼られていた検察も、厚生労働省の村木厚子元局長の無罪が確定した証拠改竄を機に国民の信を失いました。

事実を解明すべき検察と、事実を国民に知らせるべきマスコミへの信頼が地に落ちている現状は、まさに「ゲッベルス」を生みやすく、とても危険だと思います。 

突き詰めて考えると、民主主義にとっては、マスコミの扇動的な報道を鵜呑みにする人が増えることも危険だし、逆に扇動的な報道によってマスコミ不信が強まり過ぎることも危険だということです。

扇動は独裁者を生みかねません。

マスコミの一部に「視聴率が上がるならば少しくらい扇動してもいいや」という安直な考えがあるとしたら、そのような無責任な姿勢が国民の理性を麻痺させ、それに乗じる「モンスター」を誕生させてしまうかもしれないという危機感を持つべきだと思います。

マスコミが生み出した独裁者にマスコミ自身が食べられてしまう、つまり、倒されてしまうことも考えられます。

だからこそ、マスコミはあくまで正確な事実を国民に伝えることを重視し、権力をいかに批判するかは国民の理性的判断に委ねるべきだと思います。 

-『正論』2017年10月号のインタビューで、モーリー・ロバートソンさんが同じような懸念を示されていましたが、政治家やマスコミが扇動の危険性を自覚しているようには見えません。 

高井 非常に深刻だと思いますね。

野党は決裁文書書き換えについて「民主主義の危機だ」「民主主義に対する挑戦だ」などと言っていますが、本質を外していると思います。

もっとも心配すべきは「このまま国民の感情・情緒に訴えるという手法が一般化していくと、日本にモンスターが生まれてしまうのではないか」ということです。

実際、世界を見渡せば“独裁者”が跋扈する時代を迎えつつあるように見えます。

マスコミの世論調査を見る限り、扇動的に訴えてきた野党の支持率は上かっていませんが、一方で、「支持政党なし」という層が増えています。

つまり、政党政治そのものに対する信頼が揺らいでいるという見方もできる。

それこそが「民主主義の危機」と言うべきではないかと思います。

 


場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こる

2018年05月03日 11時47分38秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。

そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは

2018年05月03日 11時46分25秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

2018年05月03日 11時45分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません

2018年05月03日 11時44分23秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

2018年05月03日 11時43分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

2018年05月03日 11時41分24秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

2018年05月03日 11時40分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている

2018年05月03日 11時38分33秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で

2018年05月03日 11時37分06秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。


この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

2018年05月03日 11時36分04秒 | 日記

以下は前章の続きである。

「ミニ・ゲッベルス」が跋扈する懸念 

―立憲民主などの野党議員が佐川氏への証人喚問を前に大阪拘置所(大阪市)へ出向き、学校法人「森友学園」の前理事長、龍池泰典被告=詐欺罪などで起訴=と接見しました。

書き換えが違法か否かを冷静に考えるのではなく、政府を追及するための言葉を何とか引き出したいという姿勢が前面に出ていました。 

高井 被告人との接見によって客観的な事実が明らかになるわけではありません。

単なるパフォーマンスであり、意味はないと思いました。

あんなことをするぐらいだったら、佐川さんの証人喚問に向けて尋問の練習をすれば良かった。

そのほうがよっぽど時間の有効活用になったはずです。 

―野党は感情的かつ断定的に国民に政府・与党の“不正”を訴え、国民も安倍政権や財務省に感情的な怒りをぶつけているように感じました。 

高井 権力を持つ国会議員が国民の感情に訴え、それに国民が呼応している現状は、民主主義の土台が崩されかねないという意味で極めて危険です。

事実に基づき、国民の理性に訴えるのが「説得」で、逆に事実を無視して、国民の感情に訴えるのが「扇動」です。

*朝日新聞などのメディアやNHKなどと辻本清美、福山哲郎、福島瑞穂、小池晃などの野党政治屋…日本以外の国ではスパイと定義されるであろう政治屋たちが行っている事そのものであることを朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビの報道だけを情報源としている人間たちは肝に銘じてこの章を読まなければならない。

昨日、紹介した朝日新聞の鮫島浩などは、正に「ミニ・ゲッベルス」そのものだと言っても全く過言ではない言動である。*

ナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相は「扇動」で国民の支持を集めることに成功しました。

彼のような人物が今の日本に存在するとは思いませんが、「ミニ・ゲッベルス」ならば与野党を問わず誕生しかねません。

国会議員のような立場にある者は、自分に都合が良かろうが悪かろうが、とにかく事実を発信しなければいけません。

事実を正確に伝えようとする者は説得をしようとする者であり、そういう者は曖昧な事実をあたかも確かな事実であるかのように偽ったりはしません。

一方、民主主義国家における国民は「説得される」ことはあっても、「扇動される」ことがあってはいけません。

扇動する者と説得する者とを見分けることが国民の義務、いわば在りようだと思っています。 

野党は少なくとも国民に対して「正確な事実」を提示しようとしているようには見えませんでした。

同時に、国民も昔に比べて扇動に乗せられやすくなっているように感じました。

書き換えが発覚した後、内閣支持率は大幅に下がりましたが、野党やメディアの感情的な訴えが明らかに影響を及ぼしています。

この結果を見て、「扇動は有効ではないか」と思う政治家がいるとすれば、その認識はあながち間違っていません。

有効だからこそナチスが台頭したわけです。 

*ミニ・ゲッペルスの総本山である朝日新聞の論説委員だった富永格は、わざわざ…私に対抗しようとしたのかは知らないが、フランス語で、あろうことか、彼等とは正反対の、本物の民主主義者…骨の髄まで民主主義者であり、常に現実を真っすぐに観ている稀有なリアリストである安倍首相をナチス呼ばわりしたのである。富永よ、鮫島よ、朝日新聞社よ、君たちこそがナチスであることを、君たちだけが知らないのである*

証人喚問で佐川氏が「安倍総理の関与はなかった」と明言したことに野党は不満げでしたが、政権批判めいた証言をしていれば逆にヒーロー扱いをしていたでしょうね。 

高井 真相究明ではなく、政府・与党の「怪しさ」を感情的に訴えるための舞台としてあの場を利用したかったのでしょうね。

野党だけでなく、マスコミも政権批判に熱をあげていたのが印象的でした。 

―マスコミは「権力の監視者である」という使命感が強すぎるのでしょうか? 

高井 マスコミが権力の監視者だったというのは、ある意味、国民を蔑ろにしています。

民主主義社会においては、国民こそが権力の監視者です。

権力とは国民を動かすことのできる大きな力を指します。

そのような意味で、今のマスコミは権力そのもの。

司法、立法、行政の三権は互いに牽制しており、暴走に歯止めをかけることは可能ですが、マスコミに対しては誰も何も言えません。

言えたとしても、「表現の自由だ」「報道の自由だ」という印籠を出されたら最後、健全な批判も許されなくなります。

なんら制約も受けず、自分たちが信じる方向へと国民を引っ張って行こうとしているかのような今のマスコミの立ち居振る舞いは、権力者のそれと同じに見えます。 

―証人喚問と言えば、野党は安倍昭恵首相夫人にも狙いを定めていますね。 

高井 どうして夫人の証人喚問に固執するのか、私には分かりません。

場合によっては、国民の目に「か弱い女性をよってたかっていじめている連中」のように映り、「アッキー同情論」が一気に沸き起こるかもしれないじゃないですか。そうなったら局面は一気に変化するかもしれませんよ。

この稿続く。