文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を

2018年05月28日 16時39分27秒 | 日記

以下は前章の続きである。
http://2006530.blog69.fc2.com/?m&no=357から。
『小泉純一郎と日本の病理』 藤原肇
●ロンドン大学留学は単なる「遊学」にすぎなかった
前文省略
小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。
要するに、各種のデータに相違点が多すぎたのである。
興信データ社刊の『人事興信録』では、「1968(昭和43)年ロンドン大政経学部に留学」とあり、東京大学出版会刊の『日本近現代人物履歴事典』では、「1967(昭和42)年7月ロンドン大・政治学部留学」となっていて、1年もズレている。
さらに、小泉事務所は、「首相は慶応大卒業後の1967年から、父親の急死で衆院選に初出馬する1969年までロンドン大学政治経済学部に留学していた」と説明しているのだから、これを確定する必要があった。
もちろん、これは当事者であり、日本の最大の公人である首相本人の最低限の義務minimum duty である。
したがって、この件で力を発揮したのは週刊誌メディアであり、とくに『週刊ポスト』は再三にわたって追及し、2004年2月9日号の記事で、「小泉首相がロンドン大に学生として登録されていたのは1968年から69年6月20日まで」と確定させた。
つまり、彼が1967年に離日したとすれば、ほぼ1年間「遊学」した後にロンドン大学に行ったことになる。
しかも、そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった。

『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)が下した結論は、次のようなものである。
く小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は、「慶応大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学」とあるが、これは★虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない。〉

ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。
しかし、小泉がしたことは驚くべき破廉恥なことであった。
すでに、読者は承知しているだろうが、彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、「小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を取っていた」「小泉首相は伊藤博文以来、わが校出身の2人目の日本の首相だ。ぜひ、名誉教授になってほしい」などと言わせたのである。
もし、心あるジャーナリストが日本に存在するなら、小泉事務所がロンドン大学に対して、どれほどのコントリビューションcontribution(ワイロ)をしたのかを調べてほしい。
この稿続く。


彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、

2018年05月28日 16時38分15秒 | 日記

以下は前章の続きである。
http://2006530.blog69.fc2.com/?m&no=357から。
『小泉純一郎と日本の病理』 藤原肇
●ロンドン大学留学は単なる「遊学」にすぎなかった
前文省略
小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。
要するに、各種のデータに相違点が多すぎたのである。
興信データ社刊の『人事興信録』では、「1968(昭和43)年ロンドン大政経学部に留学」とあり、東京大学出版会刊の『日本近現代人物履歴事典』では、「1967(昭和42)年7月ロンドン大・政治学部留学」となっていて、1年もズレている。
さらに、小泉事務所は、「首相は慶応大卒業後の1967年から、父親の急死で衆院選に初出馬する1969年までロンドン大学政治経済学部に留学していた」と説明しているのだから、これを確定する必要があった。
もちろん、これは当事者であり、日本の最大の公人である首相本人の最低限の義務minimum duty である。
したがって、この件で力を発揮したのは週刊誌メディアであり、とくに『週刊ポスト』は再三にわたって追及し、2004年2月9日号の記事で、「小泉首相がロンドン大に学生として登録されていたのは1968年から69年6月20日まで」と確定させた。
つまり、彼が1967年に離日したとすれば、ほぼ1年間「遊学」した後にロンドン大学に行ったことになる。
しかも、そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった。

『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)が下した結論は、次のようなものである。
く小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は、「慶応大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学」とあるが、これは★虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない。〉

ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。
しかし、小泉がしたことは驚くべき破廉恥なことであった。
すでに、読者は承知しているだろうが、彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、「小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を取っていた」「小泉首相は伊藤博文以来、わが校出身の2人目の日本の首相だ。ぜひ、名誉教授になってほしい」などと言わせたのである。
もし、心あるジャーナリストが日本に存在するなら、小泉事務所がロンドン大学に対して、どれほどのコントリビューションcontribution(ワイロ)をしたのかを調べてほしい。
この稿続く。


ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。

2018年05月28日 16時37分00秒 | 日記

以下は前章の続きである。
http://2006530.blog69.fc2.com/?m&no=357から。
『小泉純一郎と日本の病理』 藤原肇
●ロンドン大学留学は単なる「遊学」にすぎなかった
前文省略
小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。
要するに、各種のデータに相違点が多すぎたのである。
興信データ社刊の『人事興信録』では、「1968(昭和43)年ロンドン大政経学部に留学」とあり、東京大学出版会刊の『日本近現代人物履歴事典』では、「1967(昭和42)年7月ロンドン大・政治学部留学」となっていて、1年もズレている。
さらに、小泉事務所は、「首相は慶応大卒業後の1967年から、父親の急死で衆院選に初出馬する1969年までロンドン大学政治経済学部に留学していた」と説明しているのだから、これを確定する必要があった。
もちろん、これは当事者であり、日本の最大の公人である首相本人の最低限の義務minimum duty である。
したがって、この件で力を発揮したのは週刊誌メディアであり、とくに『週刊ポスト』は再三にわたって追及し、2004年2月9日号の記事で、「小泉首相がロンドン大に学生として登録されていたのは1968年から69年6月20日まで」と確定させた。
つまり、彼が1967年に離日したとすれば、ほぼ1年間「遊学」した後にロンドン大学に行ったことになる。
しかも、そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった。

『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)が下した結論は、次のようなものである。
く小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は、「慶応大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学」とあるが、これは★虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない。〉

ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。
しかし、小泉がしたことは驚くべき破廉恥なことであった。
すでに、読者は承知しているだろうが、彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、「小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を取っていた」「小泉首相は伊藤博文以来、わが校出身の2人目の日本の首相だ。ぜひ、名誉教授になってほしい」などと言わせたのである。
もし、心あるジャーナリストが日本に存在するなら、小泉事務所がロンドン大学に対して、どれほどのコントリビューションcontribution(ワイロ)をしたのかを調べてほしい。
この稿続く。


小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない

2018年05月28日 16時36分00秒 | 日記

以下は前章の続きである。
http://2006530.blog69.fc2.com/?m&no=357から。
『小泉純一郎と日本の病理』 藤原肇
●ロンドン大学留学は単なる「遊学」にすぎなかった
前文省略
小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。
要するに、各種のデータに相違点が多すぎたのである。
興信データ社刊の『人事興信録』では、「1968(昭和43)年ロンドン大政経学部に留学」とあり、東京大学出版会刊の『日本近現代人物履歴事典』では、「1967(昭和42)年7月ロンドン大・政治学部留学」となっていて、1年もズレている。
さらに、小泉事務所は、「首相は慶応大卒業後の1967年から、父親の急死で衆院選に初出馬する1969年までロンドン大学政治経済学部に留学していた」と説明しているのだから、これを確定する必要があった。
もちろん、これは当事者であり、日本の最大の公人である首相本人の最低限の義務minimum duty である。
したがって、この件で力を発揮したのは週刊誌メディアであり、とくに『週刊ポスト』は再三にわたって追及し、2004年2月9日号の記事で、「小泉首相がロンドン大に学生として登録されていたのは1968年から69年6月20日まで」と確定させた。
つまり、彼が1967年に離日したとすれば、ほぼ1年間「遊学」した後にロンドン大学に行ったことになる。
しかも、そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった。

『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)が下した結論は、次のようなものである。
く小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は、「慶応大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学」とあるが、これは★虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない。〉

ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。
しかし、小泉がしたことは驚くべき破廉恥なことであった。
すでに、読者は承知しているだろうが、彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、「小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を取っていた」「小泉首相は伊藤博文以来、わが校出身の2人目の日本の首相だ。ぜひ、名誉教授になってほしい」などと言わせたのである。
もし、心あるジャーナリストが日本に存在するなら、小泉事務所がロンドン大学に対して、どれほどのコントリビューションcontribution(ワイロ)をしたのかを調べてほしい。
この稿続く。


なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。

2018年05月28日 16時34分37秒 | 日記

以下は前章の続きである。
http://2006530.blog69.fc2.com/?m&no=357から。
『小泉純一郎と日本の病理』 藤原肇
●ロンドン大学留学は単なる「遊学」にすぎなかった
前文省略
小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。
要するに、各種のデータに相違点が多すぎたのである。
興信データ社刊の『人事興信録』では、「1968(昭和43)年ロンドン大政経学部に留学」とあり、東京大学出版会刊の『日本近現代人物履歴事典』では、「1967(昭和42)年7月ロンドン大・政治学部留学」となっていて、1年もズレている。
さらに、小泉事務所は、「首相は慶応大卒業後の1967年から、父親の急死で衆院選に初出馬する1969年までロンドン大学政治経済学部に留学していた」と説明しているのだから、これを確定する必要があった。
もちろん、これは当事者であり、日本の最大の公人である首相本人の最低限の義務minimum duty である。
したがって、この件で力を発揮したのは週刊誌メディアであり、とくに『週刊ポスト』は再三にわたって追及し、2004年2月9日号の記事で、「小泉首相がロンドン大に学生として登録されていたのは1968年から69年6月20日まで」と確定させた。
つまり、彼が1967年に離日したとすれば、ほぼ1年間「遊学」した後にロンドン大学に行ったことになる。
しかも、そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった。

『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)が下した結論は、次のようなものである。
く小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は、「慶応大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学」とあるが、これは★虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない。〉

ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。
しかし、小泉がしたことは驚くべき破廉恥なことであった。
すでに、読者は承知しているだろうが、彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、「小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を取っていた」「小泉首相は伊藤博文以来、わが校出身の2人目の日本の首相だ。ぜひ、名誉教授になってほしい」などと言わせたのである。
もし、心あるジャーナリストが日本に存在するなら、小泉事務所がロンドン大学に対して、どれほどのコントリビューションcontribution(ワイロ)をしたのかを調べてほしい。
この稿続く。


そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった

2018年05月28日 16時33分28秒 | 日記

以下は前章の続きである。
http://2006530.blog69.fc2.com/?m&no=357から。
『小泉純一郎と日本の病理』 藤原肇
●ロンドン大学留学は単なる「遊学」にすぎなかった
前文省略
小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。
要するに、各種のデータに相違点が多すぎたのである。
興信データ社刊の『人事興信録』では、「1968(昭和43)年ロンドン大政経学部に留学」とあり、東京大学出版会刊の『日本近現代人物履歴事典』では、「1967(昭和42)年7月ロンドン大・政治学部留学」となっていて、1年もズレている。
さらに、小泉事務所は、「首相は慶応大卒業後の1967年から、父親の急死で衆院選に初出馬する1969年までロンドン大学政治経済学部に留学していた」と説明しているのだから、これを確定する必要があった。
もちろん、これは当事者であり、日本の最大の公人である首相本人の最低限の義務minimum duty である。
したがって、この件で力を発揮したのは週刊誌メディアであり、とくに『週刊ポスト』は再三にわたって追及し、2004年2月9日号の記事で、「小泉首相がロンドン大に学生として登録されていたのは1968年から69年6月20日まで」と確定させた。
つまり、彼が1967年に離日したとすれば、ほぼ1年間「遊学」した後にロンドン大学に行ったことになる。
しかも、そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった。

『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)が下した結論は、次のようなものである。
く小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は、「慶応大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学」とあるが、これは★虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない。〉

ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。
しかし、小泉がしたことは驚くべき破廉恥なことであった。
すでに、読者は承知しているだろうが、彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、「小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を取っていた」「小泉首相は伊藤博文以来、わが校出身の2人目の日本の首相だ。ぜひ、名誉教授になってほしい」などと言わせたのである。
もし、心あるジャーナリストが日本に存在するなら、小泉事務所がロンドン大学に対して、どれほどのコントリビューションcontribution(ワイロ)をしたのかを調べてほしい。
この稿続く。


小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。

2018年05月28日 16時32分11秒 | 日記

以下は前章の続きである。
http://2006530.blog69.fc2.com/?m&no=357から。
『小泉純一郎と日本の病理』 藤原肇
●ロンドン大学留学は単なる「遊学」にすぎなかった
前文省略
小泉の「留学疑惑」は、「レイプ疑惑」を考慮しなければ、実に単純なものだった。
要するに、各種のデータに相違点が多すぎたのである。
興信データ社刊の『人事興信録』では、「1968(昭和43)年ロンドン大政経学部に留学」とあり、東京大学出版会刊の『日本近現代人物履歴事典』では、「1967(昭和42)年7月ロンドン大・政治学部留学」となっていて、1年もズレている。
さらに、小泉事務所は、「首相は慶応大卒業後の1967年から、父親の急死で衆院選に初出馬する1969年までロンドン大学政治経済学部に留学していた」と説明しているのだから、これを確定する必要があった。
もちろん、これは当事者であり、日本の最大の公人である首相本人の最低限の義務minimum duty である。
したがって、この件で力を発揮したのは週刊誌メディアであり、とくに『週刊ポスト』は再三にわたって追及し、2004年2月9日号の記事で、「小泉首相がロンドン大に学生として登録されていたのは1968年から69年6月20日まで」と確定させた。
つまり、彼が1967年に離日したとすれば、ほぼ1年間「遊学」した後にロンドン大学に行ったことになる。
しかも、そのロンドン大学留学もまた、「留学」 ではなく、ただの「遊学」であって、政治家が履歴書に書けるような代物ではなかった。『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)が下した結論は、次のようなものである。
く小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は、「慶応大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学」とあるが、これは★虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)には政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない。〉

ここまで書かれれば、そして、これが事実で常識がある人間なら、虚偽を認めて謝るのが普通である。
しかし、小泉がしたことは驚くべき破廉恥なことであった。
すでに、読者は承知しているだろうが、彼はロンドン大学(UCL)のマルコム・グラント学長Prof・Malcom Grant を日本に招いて会見させ、「小泉首相は正式の学位degreeを取る学生ではなかったが、1960年に与えられた外国人留学生intemational student向けの単位を取っていた」「小泉首相は伊藤博文以来、わが校出身の2人目の日本の首相だ。ぜひ、名誉教授になってほしい」などと言わせたのである。
もし、心あるジャーナリストが日本に存在するなら、小泉事務所がロンドン大学に対して、どれほどのコントリビューションcontribution(ワイロ)をしたのかを調べてほしい。
この稿続く。


さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には

2018年05月28日 16時24分58秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●「レイプ疑惑」は当時から地元では知られていた
さて、私は後になって知ったのだが、小串さんとの対談が記事化されるのと時期を同じくして、ニューヨーク市立大の雷見(つるみ)芳浩教授が、連載コラム(2002年6月13日号『日刊ゲンダイ』の「ニッポンを斬る」)の中で、この問題に触れていた。
このコラムは、「歪んだ日本の情報公開」と題して、最後の方に次のような記述があった。
く小泉首相の後見人が森「神の国」喜朗前首相だが、ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。すると、森氏は司法官僚と共謀してこの雑誌を訴え、東京地裁は森氏に偽証を許して、同氏の勝ちとした。また、森「オットセイ」氏の弟子の小泉首相の暗い影を英米の諜報機関は握っている。同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が英国にほとぼりがさめるまで逃がしたものらしい。しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である。〉

私と雷見さんは友人として本や記事を交換する仲なので、お互いにそれで情報を得た可能性もあるが、「小泉の暗い影を英米の情報機関が握っている」というのは、私には初耳だった。
さらに、私はその後、日本を訪れるたびに、各方面からこの件に関する情報を得た。それらをまとめると、
○慶大生時代の小泉が女学生と問題を起こし、横浜で警察の取調べを受けたという話は、当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。
○事件は1967年4月頃に起きたこと。そして、その直後に、小泉が留学の名目でロンドンに行ったこと。
○閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる。
しかし、これらの噂は、日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいたのである。
また、ある大手新聞の社会部記者による情報では、代議士になって数年目にも暴行事件が起きており、(婦人に対する)それは示談によって和解が成立したというものもあった。
さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には★飯島秘書官が関与しており、それから飯島秘書官の立場が急に強くなったというのであった。
この稿続く。


日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいた

2018年05月28日 16時23分51秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●「レイプ疑惑」は当時から地元では知られていた
さて、私は後になって知ったのだが、小串さんとの対談が記事化されるのと時期を同じくして、ニューヨーク市立大の雷見(つるみ)芳浩教授が、連載コラム(2002年6月13日号『日刊ゲンダイ』の「ニッポンを斬る」)の中で、この問題に触れていた。
このコラムは、「歪んだ日本の情報公開」と題して、最後の方に次のような記述があった。
く小泉首相の後見人が森「神の国」喜朗前首相だが、ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。すると、森氏は司法官僚と共謀してこの雑誌を訴え、東京地裁は森氏に偽証を許して、同氏の勝ちとした。また、森「オットセイ」氏の弟子の小泉首相の暗い影を英米の諜報機関は握っている。同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が英国にほとぼりがさめるまで逃がしたものらしい。しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である。〉

私と雷見さんは友人として本や記事を交換する仲なので、お互いにそれで情報を得た可能性もあるが、「小泉の暗い影を英米の情報機関が握っている」というのは、私には初耳だった。
さらに、私はその後、日本を訪れるたびに、各方面からこの件に関する情報を得た。それらをまとめると、
○慶大生時代の小泉が女学生と問題を起こし、横浜で警察の取調べを受けたという話は、当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。
○事件は1967年4月頃に起きたこと。そして、その直後に、小泉が留学の名目でロンドンに行ったこと。
○閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる。
しかし、これらの噂は、日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいたのである。
また、ある大手新聞の社会部記者による情報では、代議士になって数年目にも暴行事件が起きており、(婦人に対する)それは示談によって和解が成立したというものもあった。
さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には★飯島秘書官が関与しており、それから飯島秘書官の立場が急に強くなったというのであった。
この稿続く。


閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる

2018年05月28日 16時22分33秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●「レイプ疑惑」は当時から地元では知られていた
さて、私は後になって知ったのだが、小串さんとの対談が記事化されるのと時期を同じくして、ニューヨーク市立大の雷見(つるみ)芳浩教授が、連載コラム(2002年6月13日号『日刊ゲンダイ』の「ニッポンを斬る」)の中で、この問題に触れていた。
このコラムは、「歪んだ日本の情報公開」と題して、最後の方に次のような記述があった。
く小泉首相の後見人が森「神の国」喜朗前首相だが、ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。すると、森氏は司法官僚と共謀してこの雑誌を訴え、東京地裁は森氏に偽証を許して、同氏の勝ちとした。また、森「オットセイ」氏の弟子の小泉首相の暗い影を英米の諜報機関は握っている。同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が英国にほとぼりがさめるまで逃がしたものらしい。しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である。〉

私と雷見さんは友人として本や記事を交換する仲なので、お互いにそれで情報を得た可能性もあるが、「小泉の暗い影を英米の情報機関が握っている」というのは、私には初耳だった。
さらに、私はその後、日本を訪れるたびに、各方面からこの件に関する情報を得た。それらをまとめると、
○慶大生時代の小泉が女学生と問題を起こし、横浜で警察の取調べを受けたという話は、当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。
○事件は1967年4月頃に起きたこと。そして、その直後に、小泉が留学の名目でロンドンに行ったこと。
○閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる。
しかし、これらの噂は、日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいたのである。
また、ある大手新聞の社会部記者による情報では、代議士になって数年目にも暴行事件が起きており、(婦人に対する)それは示談によって和解が成立したというものもあった。
さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には★飯島秘書官が関与しており、それから飯島秘書官の立場が急に強くなったというのであった。
この稿続く。


当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。

2018年05月28日 16時21分31秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●「レイプ疑惑」は当時から地元では知られていた
さて、私は後になって知ったのだが、小串さんとの対談が記事化されるのと時期を同じくして、ニューヨーク市立大の雷見(つるみ)芳浩教授が、連載コラム(2002年6月13日号『日刊ゲンダイ』の「ニッポンを斬る」)の中で、この問題に触れていた。
このコラムは、「歪んだ日本の情報公開」と題して、最後の方に次のような記述があった。
く小泉首相の後見人が森「神の国」喜朗前首相だが、ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。すると、森氏は司法官僚と共謀してこの雑誌を訴え、東京地裁は森氏に偽証を許して、同氏の勝ちとした。また、森「オットセイ」氏の弟子の小泉首相の暗い影を英米の諜報機関は握っている。同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が英国にほとぼりがさめるまで逃がしたものらしい。しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である。〉

私と雷見さんは友人として本や記事を交換する仲なので、お互いにそれで情報を得た可能性もあるが、「小泉の暗い影を英米の情報機関が握っている」というのは、私には初耳だった。
さらに、私はその後、日本を訪れるたびに、各方面からこの件に関する情報を得た。それらをまとめると、
○慶大生時代の小泉が女学生と問題を起こし、横浜で警察の取調べを受けたという話は、当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。
○事件は1967年4月頃に起きたこと。そして、その直後に、小泉が留学の名目でロンドンに行ったこと。
○閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる。
しかし、これらの噂は、日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいたのである。
また、ある大手新聞の社会部記者による情報では、代議士になって数年目にも暴行事件が起きており、(婦人に対する)それは示談によって和解が成立したというものもあった。
さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には★飯島秘書官が関与しており、それから飯島秘書官の立場が急に強くなったというのであった。
この稿続く。


しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である

2018年05月28日 16時20分33秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●「レイプ疑惑」は当時から地元では知られていた
さて、私は後になって知ったのだが、小串さんとの対談が記事化されるのと時期を同じくして、ニューヨーク市立大の雷見(つるみ)芳浩教授が、連載コラム(2002年6月13日号『日刊ゲンダイ』の「ニッポンを斬る」)の中で、この問題に触れていた。
このコラムは、「歪んだ日本の情報公開」と題して、最後の方に次のような記述があった。
く小泉首相の後見人が森「神の国」喜朗前首相だが、ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。すると、森氏は司法官僚と共謀してこの雑誌を訴え、東京地裁は森氏に偽証を許して、同氏の勝ちとした。また、森「オットセイ」氏の弟子の小泉首相の暗い影を英米の諜報機関は握っている。同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が英国にほとぼりがさめるまで逃がしたものらしい。しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である。〉

私と雷見さんは友人として本や記事を交換する仲なので、お互いにそれで情報を得た可能性もあるが、「小泉の暗い影を英米の情報機関が握っている」というのは、私には初耳だった。
さらに、私はその後、日本を訪れるたびに、各方面からこの件に関する情報を得た。それらをまとめると、
○慶大生時代の小泉が女学生と問題を起こし、横浜で警察の取調べを受けたという話は、当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。
○事件は1967年4月頃に起きたこと。そして、その直後に、小泉が留学の名目でロンドンに行ったこと。
○閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる。
しかし、これらの噂は、日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいたのである。
また、ある大手新聞の社会部記者による情報では、代議士になって数年目にも暴行事件が起きており、(婦人に対する)それは示談によって和解が成立したというものもあった。
さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には★飯島秘書官が関与しており、それから飯島秘書官の立場が急に強くなったというのであった。
この稿続く。


同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が

2018年05月28日 16時19分22秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●「レイプ疑惑」は当時から地元では知られていた
さて、私は後になって知ったのだが、小串さんとの対談が記事化されるのと時期を同じくして、ニューヨーク市立大の雷見(つるみ)芳浩教授が、連載コラム(2002年6月13日号『日刊ゲンダイ』の「ニッポンを斬る」)の中で、この問題に触れていた。
このコラムは、「歪んだ日本の情報公開」と題して、最後の方に次のような記述があった。
く小泉首相の後見人が森「神の国」喜朗前首相だが、ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。すると、森氏は司法官僚と共謀してこの雑誌を訴え、東京地裁は森氏に偽証を許して、同氏の勝ちとした。また、森「オットセイ」氏の弟子の小泉首相の暗い影を英米の諜報機関は握っている。同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が英国にほとぼりがさめるまで逃がしたものらしい。しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である。〉

私と雷見さんは友人として本や記事を交換する仲なので、お互いにそれで情報を得た可能性もあるが、「小泉の暗い影を英米の情報機関が握っている」というのは、私には初耳だった。
さらに、私はその後、日本を訪れるたびに、各方面からこの件に関する情報を得た。それらをまとめると、
○慶大生時代の小泉が女学生と問題を起こし、横浜で警察の取調べを受けたという話は、当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。
○事件は1967年4月頃に起きたこと。そして、その直後に、小泉が留学の名目でロンドンに行ったこと。
○閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる。
しかし、これらの噂は、日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいたのである。
また、ある大手新聞の社会部記者による情報では、代議士になって数年目にも暴行事件が起きており、(婦人に対する)それは示談によって和解が成立したというものもあった。
さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には★飯島秘書官が関与しており、それから飯島秘書官の立場が急に強くなったというのであった。
この稿続く。


ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。

2018年05月28日 16時17分57秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●「レイプ疑惑」は当時から地元では知られていた
さて、私は後になって知ったのだが、小串さんとの対談が記事化されるのと時期を同じくして、ニューヨーク市立大の雷見(つるみ)芳浩教授が、連載コラム(2002年6月13日号『日刊ゲンダイ』の「ニッポンを斬る」)の中で、この問題に触れていた。
このコラムは、「歪んだ日本の情報公開」と題して、最後の方に次のような記述があった。
く小泉首相の後見人が森「神の国」喜朗前首相だが、ある雑誌(*『噂の真相』)が同氏が大学生時代に買春で逮捕された動かぬ証拠を公表した。すると、森氏は司法官僚と共謀してこの雑誌を訴え、東京地裁は森氏に偽証を許して、同氏の勝ちとした。また、森「オットセイ」氏の弟子の小泉首相の暗い影を英米の諜報機関は握っている。同首相の「ロンドン遊学」の真相は、ある女性に対するハレンチ行為が警察ざたになるのを恐れて、父親の防衛庁長官(当時)が英国にほとぼりがさめるまで逃がしたものらしい。しかし、日本のメディアはこの真相追及はしない。今、こんな及び腰のメディアをも封じ込めるのが個人情報保護法である。〉

私と雷見さんは友人として本や記事を交換する仲なので、お互いにそれで情報を得た可能性もあるが、「小泉の暗い影を英米の情報機関が握っている」というのは、私には初耳だった。
さらに、私はその後、日本を訪れるたびに、各方面からこの件に関する情報を得た。それらをまとめると、
○慶大生時代の小泉が女学生と問題を起こし、横浜で警察の取調べを受けたという話は、当時から地元の横須賀ではよく知られていた話であり、多くの人が噂の存在を肯定していること。
○事件は1967年4月頃に起きたこと。そして、その直後に、小泉が留学の名目でロンドンに行ったこと。
○閣僚だった父親が政治力で事件をもみ消し、ほとぼりが冷めるまで海外に出したと当時から噂されていたこと。という具合になる。
しかし、これらの噂は、日本のマスコミの中で多くの人間が知りながら、今日まで誰も調査報道せずに放置され、政治家につきもののゴシップで済んでいたのである。
また、ある大手新聞の社会部記者による情報では、代議士になって数年目にも暴行事件が起きており、(婦人に対する)それは示談によって和解が成立したというものもあった。
さらに、小泉の先輩に当たる慶応大学のOBから聞いた話では、暴行事件の和解には★飯島秘書官が関与しており、それから飯島秘書官の立場が急に強くなったというのであった。
この稿続く。


わが社では課長止まりの人ですから、そんなレベルの人に首相をやらせるのはかわいそうです」と、断言している

2018年05月28日 16時13分37秒 | 日記

以下は前章の続きである。
●一連の疑惑をある人物に確かめる
ここで話を戻して、首相就任時の新聞記事を読んだ後で、私がどうしたかということを述べてみたい。
もし、ジャーナリストを自認するなら、そして、故国のことを真剣に憂慮するなら即座にこの問題を取材して、私自身の記憶の真偽を確かめるべきであったろう。 
しかし私はそれをやっていられなかった。
ここからは言い訳がましくなるが、私は小泉政権発足の直後にアメリカに戻っており、ロスLos Angels の「日米文化会館騒動」という問題に巻き込まれていた。
これは日系社会の寄付で成り立つ施設が、そこに集まる幹部の利権として私物化され、専務理事の年俸や個人経費が30万ドルに達し、叙勲の推薦料が利権化しているという、日系社会にとっては放置できない問題だった。
また、そんな中で身内の結婚式のためにドイツ出かけたおりに、ユーロ通貨の発足にまつわる取材で、ヨーロッパ中を歩きまわっていた。 
しかも、その年の9月11日は、通称「同時多発テロ」と呼ばれた「9.11事件」が起きたのである。
そして、こうした取材活動が一段落した後で、私は歴史学徒の1人としての興味から、昭和史の大きな謎の1つとされている大杉栄(1885-1923)と甘粕正彦(1891-1945)にまつわる調査を始めていた。
当時の私はある結論に達していたが、その確認の意味もあって、東京で隠棲しているある人物を訪問した。
その人は小串正三(おぐしまさみ)という名前の老ビジネスマンであり、彼はかつて、パリの三井物産の総支配人などを歴任し、歴史の舞台裏にとても博識な人だった。
シベリア出兵やコミンテルンに関連して、大杉も甘粕も大正期のフランスに行っている。
また、★甘粕は大杉の殺害に関与する前にフランスに渡って「大東会Grand' Orient」 に入っている。これらのことをどう解釈して点を線にするか、フランス体験が豊富な小串翁の知恵を拝借したいと思ったのである。
ところが、この小串老人との話の中で、私は例の古い記憶を確認することになったのである。
当時、パリの日本人社会における三井物産の総支配人というポジションは、日本国・特命全権大使に続いて東京銀行パリ支店長とともに、パリの日本人社会の間では一目も二目も置かれる存在だった。
そこで、私は、小串翁にこう切り出したのである。
「小串さんはパリに長かったので、当時のヨーロッパの日本人社会の裏話に詳しいと思います。そこで、お間きしたいのですが、当時、親が財界や政界の有力者の子供たちの中で、日本で不祥事やスキャンダルを起こして、ほとぼりをさますという目的でヨーロッパに来ていたという人間はいませんでしたか?」
「秘書と駆け落ちして来た政治家の娘とか、ヤクザに騙された売れっ子の女優、傷害で海外逃亡中の大会社の社長の息子、刑務所代わりにパリにいる閣僚の御曹子など、商売柄いろんな話を腐るほど聞きましたね」
小串翁は、私が当時ロンドンから来た人から聞いた、破廉恥事件を起こして逃げた学生の話をすると、次のように答えたのである。
「もちろん、ちゃんと勉強している留学生もずいぶんいましたよ。当時の日本の青年は真面目な人が多かったから。ただ、さすがに海外の別天地であるわけですから、中にはそういう青年も混じっていたでしょうな・・・」
この小串正三翁と喋ったエピソードは、大杉と甘粕についての対談記事の一部として『財界にっぽん』(2002年6月号)に掲載された。
そして、それから2年後、この件を日本の他のメディアが取り上げることになり、民事訴訟まで起こったのであった。
小串さんの話は示唆に富んでいたが、彼が小泉に下した人物考課は、今でも忘れられない。
「小泉首相は細かいことは実に熱心にやるが、大局的なことは考えない一種のオタク族の仲間で、わが社では課長止まりの人ですから、そんなレベルの人に首相をやらせるのはかわいそうです」と、断言しているからである。
この稿続く。