「いいか、あの敗北を再び味わうことは許されないんだぞ!」
「はい、総統、それはわかっております。しかし、これ以上ロシアに深入りすることは危険です。」
今日は総統の狂気がボルマンに向かっているようだ。この、総統の気分をどう持ち直すかでその日の私の仕事が決まるのだ。
「ボルマン、だからおまえは能無しだと言ってるんだ!我が最強の陸軍がたった一度の敗退で怖じ気づくとでも思っているのか!もし軍が覇気を無くし、再び敗北に走るようなことがあったとしたら、それは軍隊が弱体化したからではない。ボルマン、おまえが私への忠誠を忘れた証だ!」
「総統、そ、それはあまりにも・・・。」
「黙れ!この共産党のスパイめ!」
総統と一緒に部屋に近づいて来るボルマンの足音が止まり、一瞬、2人の会話も途切れた。
「総統!今の言葉は・・・。」
「総統、今の言葉を取り消してください。」
私は、立ち止まったままのボルマンをそこに残してまっすぐに部屋に入ろうとした総統を制した。私たち3人は、部屋の前の廊下でしばし次に言う言葉を捜していたが、その間を待っていたかのように部屋の中の長身の男が、私たちの方へ近づいて叫んだ。
「ハイル・ヒットラー!」
中に人がいることに気づいていなかった総統とボルマンは、飛び上がらんほどに驚き、目を見開いてその男を見上げた。
「総統、お久しぶりです。」
「おぉ!ハーシェル・マイラー君じゃないか!ポーランドへ行って以来だが、元気でやっとるかね。」
「えぇ。」
総統は自らハーシェルに歩み寄り、彼の手を取った。
「長官のヒムラーも、さぞ心強いだろうな。」
「光栄です。」
ハーシェルは総統に向かって深く一礼をし、総統が中に入れるように脇に退いた。総統はそのハーシェルの態度を満面の笑顔で見つめながら大股で部屋に入って行った。総統が、まるで今まで何も無かったかのように態度を変えて中に入って行ったのを見て、私とボルマンは少し呆気に取られていたが、中にいた男があのハーシェルだとわかり、ボルマンは私にウインクをして総統の後を追った。私は最後に部屋に入りドアを閉めると、我がドイツの誇るべきゲシュタポの形ばかりの紹介を受けるべく、ボルマンの横に並んだ。
「今ドイツ国内には、私を陥れようとする勢力がいると聞く。ナチス党内にもスパイがいるかもしれない。そのような、ドイツの発展を阻もうとする反逆者の計画にいち早く対処するように、私が直接ヒムラーに、腕の立つゲシュタポの帰国を命じたのだ。」
ボルマンも、私ほどではないがハーシェルとは以前からの知り合いであるため、総統の言葉を待たずに、ハーシェルに握手を求めた。
「覚えていると思うが、ボルマンだ。今、ナチスの党首をさせてもらっている。そして・・・。」
「彼が何者なのかは、私が一番よく知っていますよ。」
ボルマンの言葉を継いで私も続けて彼と握手をしたが、私よりほんの少し上から私を睨みつけて口を開いた彼に、どことなく昔の面影を感じた私は、総統の片腕となるべき有能な1人のゲシュタポがいつまでも個人的な憎しみを持ち続けている愚かさに気づかずに大人になった彼を見上げて、微笑みかけた。
「私もだ。しかし、随分長い間、君のことは忘れていたよ。」
握手を交わした後のハーシェルの顔つきが、この時一瞬変わったのを、私は見逃さなかった。彼が、精神的に子供の頃の面影を強く残しているのは、今ではもう明らかだった。彼は私が危惧していた通り、他人を殺すのに、些細な、それも個人的な感情しか必要としないような人間に成長したのだ。いや、成長したのではない。成長することなく大人になったのだ。
(つづく)
「はい、総統、それはわかっております。しかし、これ以上ロシアに深入りすることは危険です。」
今日は総統の狂気がボルマンに向かっているようだ。この、総統の気分をどう持ち直すかでその日の私の仕事が決まるのだ。
「ボルマン、だからおまえは能無しだと言ってるんだ!我が最強の陸軍がたった一度の敗退で怖じ気づくとでも思っているのか!もし軍が覇気を無くし、再び敗北に走るようなことがあったとしたら、それは軍隊が弱体化したからではない。ボルマン、おまえが私への忠誠を忘れた証だ!」
「総統、そ、それはあまりにも・・・。」
「黙れ!この共産党のスパイめ!」
総統と一緒に部屋に近づいて来るボルマンの足音が止まり、一瞬、2人の会話も途切れた。
「総統!今の言葉は・・・。」
「総統、今の言葉を取り消してください。」
私は、立ち止まったままのボルマンをそこに残してまっすぐに部屋に入ろうとした総統を制した。私たち3人は、部屋の前の廊下でしばし次に言う言葉を捜していたが、その間を待っていたかのように部屋の中の長身の男が、私たちの方へ近づいて叫んだ。
「ハイル・ヒットラー!」
中に人がいることに気づいていなかった総統とボルマンは、飛び上がらんほどに驚き、目を見開いてその男を見上げた。
「総統、お久しぶりです。」
「おぉ!ハーシェル・マイラー君じゃないか!ポーランドへ行って以来だが、元気でやっとるかね。」
「えぇ。」
総統は自らハーシェルに歩み寄り、彼の手を取った。
「長官のヒムラーも、さぞ心強いだろうな。」
「光栄です。」
ハーシェルは総統に向かって深く一礼をし、総統が中に入れるように脇に退いた。総統はそのハーシェルの態度を満面の笑顔で見つめながら大股で部屋に入って行った。総統が、まるで今まで何も無かったかのように態度を変えて中に入って行ったのを見て、私とボルマンは少し呆気に取られていたが、中にいた男があのハーシェルだとわかり、ボルマンは私にウインクをして総統の後を追った。私は最後に部屋に入りドアを閉めると、我がドイツの誇るべきゲシュタポの形ばかりの紹介を受けるべく、ボルマンの横に並んだ。
「今ドイツ国内には、私を陥れようとする勢力がいると聞く。ナチス党内にもスパイがいるかもしれない。そのような、ドイツの発展を阻もうとする反逆者の計画にいち早く対処するように、私が直接ヒムラーに、腕の立つゲシュタポの帰国を命じたのだ。」
ボルマンも、私ほどではないがハーシェルとは以前からの知り合いであるため、総統の言葉を待たずに、ハーシェルに握手を求めた。
「覚えていると思うが、ボルマンだ。今、ナチスの党首をさせてもらっている。そして・・・。」
「彼が何者なのかは、私が一番よく知っていますよ。」
ボルマンの言葉を継いで私も続けて彼と握手をしたが、私よりほんの少し上から私を睨みつけて口を開いた彼に、どことなく昔の面影を感じた私は、総統の片腕となるべき有能な1人のゲシュタポがいつまでも個人的な憎しみを持ち続けている愚かさに気づかずに大人になった彼を見上げて、微笑みかけた。
「私もだ。しかし、随分長い間、君のことは忘れていたよ。」
握手を交わした後のハーシェルの顔つきが、この時一瞬変わったのを、私は見逃さなかった。彼が、精神的に子供の頃の面影を強く残しているのは、今ではもう明らかだった。彼は私が危惧していた通り、他人を殺すのに、些細な、それも個人的な感情しか必要としないような人間に成長したのだ。いや、成長したのではない。成長することなく大人になったのだ。
(つづく)