10月3日、台風が東北沖に去ったのでお天気かと期待して懸案の那須塩原温泉探訪を試みた。
最近は、寄る年波かやけに温泉が好きだと、節操がなくなっている。
塩原は比較的近いから日帰りで温泉巡り、3か所ぐらいは行きたいね。何しろ初めてだ。
朝7時21分北千住駅発の東武スカイツリーラインの快速に乗って東武日光まで。128km1320円。
日光駅でレンタカーを借りて、鬼怒川温泉を越え「日塩もみじライン」で塩原温泉に行く。
塩原温泉は806年大同元年発見されたとか。現在の国道400号線塩原街道が明治17年開通。それから夏目漱石、谷崎潤一郎、斎藤茂吉など文人が多く訪れ有名になったとか。
塩原は街道沿いに11の異なった温泉がある。それぞれに有名な旅館やホテルがあるので、どの温泉やどの湯を選択するのが難しい。昔みたいに長期の湯治客ならそれぞれ温泉の違いを味わえるだろうが、現代人は忙しい。吾輩のように日帰り温泉客など、あまりいい客でないだろうナ。
それでも厚顔にも今回は「濁り湯」に行きたいと考えました。
最初は元湯温泉郷のそれも「元泉館」を選びました。ここは秘湯の湯とのキャッチフレーズと「緑色・乳白色」で硫黄分が強い温泉。街道から随分奥に入った沢沿いの秘湯の雰囲気があり。金600円で白濁硫黄湯を楽しみました。しかしクラブツーリズムのバスで団体さんが来ていたように、経営上手で秘湯が秘湯でなくなるかもね。
次にもう2-3か所は是非温泉に入りたいと、塩原街道を往復しました。平日で行楽シーズンでないこの時期あまり客がいないのはさびしい限りだ。でもどこへ行くかが、もみじ谷大吊橋もちらっと眺めただけ。で、観光協会教えてもらった岩の湯と不動の湯に行きました。これは11湯の一つ福渡温泉地区の在の人たちが管理している混浴露天風呂で、私は行きますがな。
ここは塩原渓谷歩道の真ん中あたりの対岸にあり、地下からわきあがってくるのと上からお湯が流れてくるまさに源泉かけ流しの薄緑色の川原の湯。
川原のくぼ地で温泉につかっているオジサン。極楽、極楽。
ここ岩の湯は去年山から岩が落ちてきて観光協会は危険で閉鎖中といっていたが、地元の人はそれでも楽しんでいたよ。そのなかで2人の御婦人の混浴客があったのはhappy。ただ眼のやり場に困ったが。それはそれ。
次いで不動の湯に行きました。
この湯の方がもう少しぬるくて透明で優しいかな。温泉客には、で勤務時間中に温泉に浸かり英気を養っている人がいたが、これにはたまげたね。温泉地の特権だ。ちなみに入浴料でなく管理協力費200円。
温泉を楽しみもみじラインを楽しんで日光へ。結構遠いから日帰りで3湯巡る目的はちょっと無理だった。が混浴露天は大成功。
ここで帰りの、17時39分の浅草行き快速まで、駅前で湯葉饅頭を食べながらビールを飲んだ。
ここで1句
日光の 湯葉饅頭や 暮れの秋
最近は、寄る年波かやけに温泉が好きだと、節操がなくなっている。
塩原は比較的近いから日帰りで温泉巡り、3か所ぐらいは行きたいね。何しろ初めてだ。
朝7時21分北千住駅発の東武スカイツリーラインの快速に乗って東武日光まで。128km1320円。
日光駅でレンタカーを借りて、鬼怒川温泉を越え「日塩もみじライン」で塩原温泉に行く。
塩原温泉は806年大同元年発見されたとか。現在の国道400号線塩原街道が明治17年開通。それから夏目漱石、谷崎潤一郎、斎藤茂吉など文人が多く訪れ有名になったとか。
塩原は街道沿いに11の異なった温泉がある。それぞれに有名な旅館やホテルがあるので、どの温泉やどの湯を選択するのが難しい。昔みたいに長期の湯治客ならそれぞれ温泉の違いを味わえるだろうが、現代人は忙しい。吾輩のように日帰り温泉客など、あまりいい客でないだろうナ。
それでも厚顔にも今回は「濁り湯」に行きたいと考えました。
最初は元湯温泉郷のそれも「元泉館」を選びました。ここは秘湯の湯とのキャッチフレーズと「緑色・乳白色」で硫黄分が強い温泉。街道から随分奥に入った沢沿いの秘湯の雰囲気があり。金600円で白濁硫黄湯を楽しみました。しかしクラブツーリズムのバスで団体さんが来ていたように、経営上手で秘湯が秘湯でなくなるかもね。
次にもう2-3か所は是非温泉に入りたいと、塩原街道を往復しました。平日で行楽シーズンでないこの時期あまり客がいないのはさびしい限りだ。でもどこへ行くかが、もみじ谷大吊橋もちらっと眺めただけ。で、観光協会教えてもらった岩の湯と不動の湯に行きました。これは11湯の一つ福渡温泉地区の在の人たちが管理している混浴露天風呂で、私は行きますがな。
ここは塩原渓谷歩道の真ん中あたりの対岸にあり、地下からわきあがってくるのと上からお湯が流れてくるまさに源泉かけ流しの薄緑色の川原の湯。
川原のくぼ地で温泉につかっているオジサン。極楽、極楽。
ここ岩の湯は去年山から岩が落ちてきて観光協会は危険で閉鎖中といっていたが、地元の人はそれでも楽しんでいたよ。そのなかで2人の御婦人の混浴客があったのはhappy。ただ眼のやり場に困ったが。それはそれ。
次いで不動の湯に行きました。
この湯の方がもう少しぬるくて透明で優しいかな。温泉客には、で勤務時間中に温泉に浸かり英気を養っている人がいたが、これにはたまげたね。温泉地の特権だ。ちなみに入浴料でなく管理協力費200円。
温泉を楽しみもみじラインを楽しんで日光へ。結構遠いから日帰りで3湯巡る目的はちょっと無理だった。が混浴露天は大成功。
ここで帰りの、17時39分の浅草行き快速まで、駅前で湯葉饅頭を食べながらビールを飲んだ。
ここで1句
日光の 湯葉饅頭や 暮れの秋
新宿 初台の東京オペラシテイで、篠山紀信の展覧会があり、話のタネに訪問。退屈御家人のパターンだな。
いやー驚いた。3-5m四方の人間の写真パネルが所狭しと並べてある。問題は撮影年次に応じて歴史を表していると同時に、時代時代の有名人のその瞬間と人間性の一面を表示している。写真家とは大変な仕事だなー。「アラーキー」こと荒木氏の写真も迫力があったが、篠山氏はマイルドかつsophisticatedされているようだ。
God 神になった人の写真コーナーには、
三島由紀夫の割腹する前の写真や、夏目雅子、勝新太郎、渥美清など、実に考えさせられる。
Star まさに多くの大衆のスターになった人々を、一番輝いていた時期その時代の瞬間をとらえている。
1988年の吉永小百合、1999年の海老蔵の左右いびつなにらみの眼、1976年のピンクレデエイ、2011年の澤穂希のラフなジーパンにおへそのピアス、1993年の小沢一郎がハトに餌をやっている全くの市世人の姿など、どう見てもあの小沢一郎とは見えない。1980年の宮崎美子はほんとに若さにあふれてかわゆいね。
1977年の山口百恵の当時らしい黒いパンツのなかで憂いを秘めたヌードは当時の最高水準だろう。
Spectacle といって異次元の写真を集めている。
ここは、主に歌舞伎の各種舞台や俳優の化粧と、格好の良さ。日本の文化だね。後藤久美子のファンタジーはなんだかよくわからんね。
Body のコーナーでは、ヌードあり刺青あり。
たぶん1995年の蔵前国技館当時の最後の、貴乃花と曙の両横砂を従えた佐田の海・時津風理事長以下全力士の記念撮影は、これは見たことないね。これはく空前絶後だろう。白鵬も若手でいたよ。
この中で多くの女優のヌードがあるが、1991年の宮沢りえの草むらに座ったヌードは絶品だな。生殖適齢期の女のもっとも美しい姿だ。ピンクのおっぱいはビーナスだな。(たまたま、昨日NHKで「たそがれ清兵衛」を見たがその映画では宮沢りえは、もう生殖期を過ぎた女の姿であったな)
このように、篠山写真展は、写真力というのがキャッチコピーのようだが、
私は、①時代の記録 ②背景文化の説明 ③人間の持ついろいろな多面性 ④それらを含めた芸術的表現性
があるように思える。
みなさん、是非、期間中に 篠山写真展を見に行ってください。
絶対損でないと、退屈御家人はお勧めします。
8月3日から4泊5日で、青春18切符の老人の旅をした。
1、結論・・・年寄りの冷や水とは、よく言ったものだ。若い人の旅行を老人がまねるのは、かっこよくない。今回で終わりにするかな。
2、新宿発高崎線で高崎。上越線で水上。途中、一緒になった墨田区の小学生野球チームが合宿遠征で小出に行くと。スケジュールを見せ貰うと、2泊3日の楽しい合宿だ。きっといい指導者がいるのだろう。
3、上越線で長岡。ここで信越線で直江津。時間があるので直江津の図書館で当地の歴史をみる。越の国の国府があったところだ。親鸞、上杉一族等
4、北陸線で富山経由得金沢へ。
ローカル線で12時間。疲れた。ホテルに入って、まずはいっぱいのビールへ。うまいものを食いに行く余裕はなし。近くの飲み屋で簡単に飲み食いし、バタンキュー。
5、翌朝、バスで東茶屋街へ。
なるほど。その後循環バスで武家屋敷街へ。
暑いし足が痛い。その後近江町市場を見学。京都の錦市場より立派だ。さすが金沢。兼六園等は昔行ったことがあるので省略。その後もう一度循環バスで市内一周し、体調を整え、金沢駅から北陸線で福井へ。ここで待ち時間が1時間強。駅を出ると、福井の駅前でよさこい祭りをやってましたね。ビールと焼き鳥で鑑賞。
そして次の敦賀へ。敦賀でも待ち時間あり。ローカル線は大変だ。ついで東舞鶴へ。ここで2日めの泊。
舞鶴は昔は細川氏の領地で歴史手にいろいろあったらしいが、明治の初め、帝国海軍がここに軍港を定めてから軍港として経緯した。戦後は満州からの引揚者受け入れ港。岸壁の母。
6、翌日早く、近畿たんご鉄道で天の橋立へ。ここで自転車を借りて、橋立の砂洲を往復。いい経験だ。次いで軽重に、股のぞきををやってみるべくリフトに上りました。この写真の左が、吾輩の右足の一部。
7、天橋立駅前の温泉でつかりましたよ。そして近畿たんご鉄道で豊岡へ。ここはコウノトリで有名だが同時に日本有数の暑い盆地。当日35度cだった。時間があったのでタコ焼きとビール。
次いで、福知山、綾部経由京都へ。今回は京都パス。すぐ大津で泊。疲れたね。
8、翌日、東海道線の快速で、米原、大垣、岐阜経由名古屋。ここで市内観光をと思ったが月曜はバスが休みとか。で、地下鉄に乗って名古屋市内を1っ周しましたよ。名古屋は戦災で壊滅した都市。名古屋城ほか特段はなしが分かった。そこで東海道線で、東京へと豊橋まで。
9、ここで、岡谷行きのローカル線飯田線が10分ぐらいで出ると。俺は馬鹿みたいに、乗ったね。4時間ぐらいだろうとタカを食っていたが、なんと岡谷まで7時間半だった。調べなかったせいもあるが、想定外。
10、そこで、腹をくくって、岡谷まで行きましたよ。
最後は21:32分岡谷着。もう新宿行きの特急は終了。すぐ小淵沢行きに接続で、上諏訪まで行く。
ここで、以前体験の「千人風呂」前のビジネスホテルに泊まる。予定外だが、結果オーライ。
1、結論・・・年寄りの冷や水とは、よく言ったものだ。若い人の旅行を老人がまねるのは、かっこよくない。今回で終わりにするかな。
2、新宿発高崎線で高崎。上越線で水上。途中、一緒になった墨田区の小学生野球チームが合宿遠征で小出に行くと。スケジュールを見せ貰うと、2泊3日の楽しい合宿だ。きっといい指導者がいるのだろう。
3、上越線で長岡。ここで信越線で直江津。時間があるので直江津の図書館で当地の歴史をみる。越の国の国府があったところだ。親鸞、上杉一族等
4、北陸線で富山経由得金沢へ。
ローカル線で12時間。疲れた。ホテルに入って、まずはいっぱいのビールへ。うまいものを食いに行く余裕はなし。近くの飲み屋で簡単に飲み食いし、バタンキュー。
5、翌朝、バスで東茶屋街へ。
なるほど。その後循環バスで武家屋敷街へ。
暑いし足が痛い。その後近江町市場を見学。京都の錦市場より立派だ。さすが金沢。兼六園等は昔行ったことがあるので省略。その後もう一度循環バスで市内一周し、体調を整え、金沢駅から北陸線で福井へ。ここで待ち時間が1時間強。駅を出ると、福井の駅前でよさこい祭りをやってましたね。ビールと焼き鳥で鑑賞。
そして次の敦賀へ。敦賀でも待ち時間あり。ローカル線は大変だ。ついで東舞鶴へ。ここで2日めの泊。
舞鶴は昔は細川氏の領地で歴史手にいろいろあったらしいが、明治の初め、帝国海軍がここに軍港を定めてから軍港として経緯した。戦後は満州からの引揚者受け入れ港。岸壁の母。
6、翌日早く、近畿たんご鉄道で天の橋立へ。ここで自転車を借りて、橋立の砂洲を往復。いい経験だ。次いで軽重に、股のぞきををやってみるべくリフトに上りました。この写真の左が、吾輩の右足の一部。
7、天橋立駅前の温泉でつかりましたよ。そして近畿たんご鉄道で豊岡へ。ここはコウノトリで有名だが同時に日本有数の暑い盆地。当日35度cだった。時間があったのでタコ焼きとビール。
次いで、福知山、綾部経由京都へ。今回は京都パス。すぐ大津で泊。疲れたね。
8、翌日、東海道線の快速で、米原、大垣、岐阜経由名古屋。ここで市内観光をと思ったが月曜はバスが休みとか。で、地下鉄に乗って名古屋市内を1っ周しましたよ。名古屋は戦災で壊滅した都市。名古屋城ほか特段はなしが分かった。そこで東海道線で、東京へと豊橋まで。
9、ここで、岡谷行きのローカル線飯田線が10分ぐらいで出ると。俺は馬鹿みたいに、乗ったね。4時間ぐらいだろうとタカを食っていたが、なんと岡谷まで7時間半だった。調べなかったせいもあるが、想定外。
10、そこで、腹をくくって、岡谷まで行きましたよ。
最後は21:32分岡谷着。もう新宿行きの特急は終了。すぐ小淵沢行きに接続で、上諏訪まで行く。
ここで、以前体験の「千人風呂」前のビジネスホテルに泊まる。予定外だが、結果オーライ。
大和盆地をドライブしていると、国道24号線沿いに唐古鍵遺跡に出くわした。
1、ここでは弥生時代後期の、初の環濠遺跡で多くの生活遺跡の破片等が出ているらしい。
特に、写真のような楼蘭の絵を陶器に線描きした破片が多いようで、そこから、唐古鍵遺跡の中に、モニュメントとして建てたという。これ以上、唐古鍵遺跡を説明するものは今のところ、なさそう。
奈良にはその後、中世にも環濠集落を作って戦国大名に対抗しているから、そういう体質があるのかも。
2、唐古とはこの地域の名称、鍵とも隣り合わせた地区の名称で、特段の意味がない。
3、唐古・鍵遺跡の1.5km左前方に、巻向遺跡があり、この遺跡こそAD180年ごろから225年ごろまでの王権の位置と想定される前方後円墳の最初の集積地で、その南端に卑弥呼の墓とも言われる最大の「箸墓古墳」がある。
巻向遺跡は古墳時代を期する遺跡群で、弥生時代の唐古・鍵遺跡の10倍もの大きさというが、両者の年代的場所的関係から、大いに継続性があろう。この間の時代区分時代変化、連続性は想像するのが楽しみ。
4、卑弥呼の時代ののち、日本の歴史・文献資料ではAD417年の倭国の晋への朝貢まで、147年間不在となり、前方後円墳のこの時代の実態がよくわからないようだ。AD400年ごろは前方後円墳の最盛期で仁徳天皇陵をはじめ全国で前方後円墳が多くたてられる。
5、ここから前方後円墳体制といわれる考えがあり、それでは、王権を見せる必要から、支配領域・軍事権・外交権・イデオロギーを共通利害とする各地首長層の共同体とするもの。要するに卑弥呼の?箸墓古墳を嚆矢とする見せかけの建造物で支配を維持確保しようとした時代なのかも。
同時に河内王権・葛城王権説などもあり、奈良盆地から竹内街道を通って堺に至る大和川流域の歴史遺産は大変なものだ。
6、この後AD500年代の明日香地域を中心とする歴史時代まで、大いに想像しよう。
今回は、楠正成の赤坂千早城が目的だったが、昔の風情が残っていたな。板葺きの宮跡、藤原京跡等々
歴史の宝庫だな。
「歴史を旅する」研究会の石井喜久雄氏は、古代史がメインだから、また聞かせてよ。
青森駅は東北本線、日本海側の奥羽本線の終着駅であり青函連絡船との乗換駅であった。
青森市は江戸時代からの港湾都市・交通物流の機能を重視し明治の初め県庁所在地として定められたもので、
その青森駅は海に直に接する駅として設計されており、青森市はこの駅と青函連絡船を中心に発達した町と言えよう
1988年(昭和63年)に青函トンネルが開通すると、青函連絡船は廃止されたことから
青森駅は青函トンネルを通る「津軽海峡線」の列車との発着駅となったが、その後、2010年(平成22年)に東北新幹線が新青森駅まで開業すると、
東京から新青森駅、新青森からから青森駅を経由して津軽海峡線に入り、
青函トンネルを通って北海道へつながることとなった。
また新幹線新青森駅開業により、並行する在来線の東北本線は第三セクターの「青い森鉄道」に経営移管され、路線名は青い森鉄道線となった。
鉄道交通体系の大きな変化の中で、青森市は 今後は新青森駅を中心に発展するのか、それとも、海に接した青森駅を少し南に移して現在の青森市市街地を再開発するかは分からない。
いずれにせよ、他の多くの都市や駅が、昔の城下町中心に発展してきた例が多い中、青森市・青森駅は珍しい例である。
青函連絡船は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森駅と函館駅との間を日本国有鉄道(国鉄)が結んでいたもので、
営業キロは113.0kmで、津軽海峡(国際海峡)を横断した。
鉄道・連絡船が主な移動手段であった時代には、青森発着の特別急行列車「はつかり」「白鳥」等や 夜行特急「はくつる」「ゆうづる」、
急行「八甲田」、「十和田」等と、青函連絡船との接続を重視したダイヤが組まれていた。
青函連絡船は、船の後部から鉄道の客車を直接載せるとともに、乗客を船内の客室に入れて運ぶ方式であったから、現在の青森駅に接して、かって列車を積み込んだ「積み込みゲート」が保存され、その先の桟橋には、かっての「八甲田丸」が係留保存されている。
このゲートと桟橋の間を多くの乗客が、雪の中、無口で先を争ったのだが、そのときの様子が「津軽海峡冬景色」に描写されている。
(ちなみに筆者が見た3月23日は青森駅前・桟橋付近で50~100cmの雪が積もってなお牡丹雪が降っていた。)
1945年(昭和20年」7月14日 には、アメリカ海軍艦載機の空襲により全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没等、352人死亡)、
1954年(昭和29年)9月26日には、台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の七重浜に座礁し転覆。
他に僚船4隻も沈没。あわせて1430人の犠牲者を出した。
これを機に客車航送は中止。この事故を契機に戦前からあった青函トンネル計画が具体化されることになった。
青函トンネルは、1961年(昭和36年)掘削開始、1985年(昭和60年)本坑貫通。建設費はトンネル本体に約7455億円、津軽海峡線の取り付け工事等に9000億円超の、まさに昭和の大工事であった。
(しかし完成時には、時代は汽車から飛行機の時代に変化していた。歴史とは皮肉なものだ。)
1988年昭和63年3月13日営業開始(これが昭和最後の春だ)、青森県の竜飛岬下から津軽海峡の140mの海底の下さらに100mのところを北海道の知内まで、約53、85kmを結んでいる。うち、竜飛岬海底駅から吉岡海底駅までの海底部が23,3kmで、陸上部のトンネルが30,55kmとなる。
これを特急で20分で通過する。かって青函連絡船で4時間強かかっていた時代からこれだけ短縮したのだ。
IMGP1774.jpg
盛岡 わんこそば
南部地方は、そば振る舞い という言葉があるそうな。
そばを、大鍋で一度にゆでるのは無理だから、小分けでゆでて、一口そばという形で
ふるまうようになったとか。
大体わんこ15杯でもりそば1枚分程度に相当とか。わんこそばには汁の味付けがあるから、
汁を飲まないようにすると腹に溜まりにくいと。
薬味は、種類が多くみんな付けて食べた。なめこおろし、しょうが、ゴボウ、ゴマ、長いも
カブの浅漬け、鳥そぼろ、まぐろと現代風にしてあるが、これがみなわんこそばに合っていて
大変うまい。
そばの食前に、地酒「中津川」を1合。若干甘み、1050円なり。
こうして、おわんを積み上げつつ、若干の余裕を残し67枚でストップした。男性の平均程度強。
この店で、これと全く同じ構図で、吉永小百合のフルムーンかなんかのポスターが貼ってあるのを
その後偶然に、福島か郡山の駅で見つけた。
横浜のランドマークタワーから、横浜港を見下ろす。
ベイブリッジとか、赤レンガ館とか、大桟橋とかの写真があったが、
パソコンにアップするためいろいろいじっていたら、機能が壊れて、
これ1枚となった。
素人は悲しいネ。
1月21日は初大師。
西新井大師に行きました。
寒かったネ。雪がちらついたかね。
お参りしました。
お大師さんは3月21日が縁日で、1月21日を初大師という。京都の東寺では初弘法という。
多くの人がお参りしていました。
初大師 シャンソンの如き 講話かな
かじむ手に 団子甘酒 初大師
帰りはバスで北千住まで出た。そこで旧日光街道を少し歩いた。芭蕉の奥の細道の最初の地点でもある。
紙漉の 問屋跡あり 千住宿
西新井大師に行きました。
寒かったネ。雪がちらついたかね。
お参りしました。
お大師さんは3月21日が縁日で、1月21日を初大師という。京都の東寺では初弘法という。
多くの人がお参りしていました。
初大師 シャンソンの如き 講話かな
かじむ手に 団子甘酒 初大師
帰りはバスで北千住まで出た。そこで旧日光街道を少し歩いた。芭蕉の奥の細道の最初の地点でもある。
紙漉の 問屋跡あり 千住宿