江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

鉄砲百人組 皆中(かいちゅう)神社

2015年07月31日 20時45分31秒 | Weblog
江戸城の半蔵門は、服部半蔵を記念しての名前と言われ、よく知られる門である。

この由来は、織田信長の本能寺の変のとき、堺に滞在していた徳川家康は突然危険状況に陥り、苦労して伊賀の山中を脱して、故国三河に帰りえたが、この時、服部半蔵は配下の伊賀・甲賀の地侍をまとめて、家康の危地脱出の手助けをした。

この功績で、伊賀者,甲賀者は家康直参的扱いを受け、江戸城に一旦緩急があったとき、江戸城の搦め手(裏口)半蔵門から甲州街道を経て、天領甲府城へ落ち延びるのが計画で、このため、半蔵門から内藤新宿あたりにかけてには、多くの旗本屋敷が配置され、市ヶ谷・大久保には甲賀者、伊賀者が置かれ、鉄砲百人組が、現在の新宿区百人町あたりに組屋敷があり、いつでも警護に駆けつけられる体制であった。

鉄砲百人組は、その職種上、鉄砲の射撃技術向上に努力していたが、ある日一人の藩士が、鉄砲の弾が命中するよう念じて悶々としているとき、土地の稲荷の大神が枕元に立ち、霊符を示されたとか。翌朝、矢場で射撃したところ、なんと百発百中。この話が近辺の村落まで伝わり、稲荷神社が「皆あたる(中)〉神社ということになり、当然鉄砲百人組が大いに尊崇したという。


 今は賭け事の期待の神様みたいで、宝くじ、競馬、パチンコ等のファンがお参りに行くとか。



これが社殿


隔年の奇数年の9月に、百人鉄砲隊の出陣式が行われている。
これは、新宿区の無形文化財に指定されている。今年の9月の例大祭の前後の土日にやるとか。

山手線新大久保駅のコーリアンタウンの反対側50mにあるから、ぜひ一度行ってみてください。

おじさんの夏休み・・外堀通り一周・・写真なし

2015年07月29日 22時40分09秒 | Weblog
皆さん、暑い暑い中でどう過ごされていますか?

吾輩も、暑さに老身が堪えられない。かといって軽井沢とか札幌とか避暑をできる身分でない。

そこで、クーラーをかけっぱなしにして、TVを見つつ、パソコンを見つつ、ビールを飲みながら、昼寝でうとうと。これが貧乏人の避暑のベストね。
コンビニで「アイスキャンデイ」150円也を買ってきて食べともっといいよ。

先週までは、相撲があったから、吾輩は、午後は、居眠りながら、うとうと相撲を見るというのがもいいものだ。

 来週からは、おバカなテニス仲間が、週3-4回の日程を組んでくれる。

俺を殺すのか!でも半分ぐらいに逃げつつ、運動を炎天下に楽しむのも、昔の「我慢大会」か。
どてら着て、炭火をあおって、熱い甘酒飲んで無茶苦茶暑くして、あとの涼しさを楽しむ、過去の風習。今どき考えられないね。

そこで今週の吾輩は、月曜に歯医者の3か月の予約。若いかわいい歯科の先生だ。
助手の学生を連れているから、おじさんが声をかけるに、助手の学生が常にそばにいて、すきがない。トホホだ。

火曜は大学の同期生たちの、暑気払い会。みんな退職自由人に近いから、節操なく酒飲みに集まるね。俺も俺もだ。いいね・いやだね

今日水曜日は、最近図書館で借りてきた江戸城、そのたもろもろをエッセイで書いておられる、田安家とか、15代将軍徳川慶喜の直系の孫氏とかの本を借りてきて読んでいる。
 吾輩は、勝手に「江戸の退屈御家人」とか称しているが、徳川譜代の臣下でない、赤の他人である。
柳営会という旗本・御家人の子孫の会があるのを知ったよ。

吾輩は、東京に18歳で上京し、以後、なんかのご縁で、50年も東京の中心地、千代田区に住み続けて今に至っている。

こういう、意識だけ、江戸の御家人的な発想になってしまったおじさんが、夏休みで、今日、江戸の外堀通りを歩きましたよ。
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外堀跡は、現在,都道405号線外堀通りがほぼカバーしている。

17時30分、市谷御門出発。     今回はカメラ持参せず。だから絵がない。文書なんか誰が読むか。

時計回りに、飯田橋へ。 ここで 市兵衛河岸を眺めながら、江戸城の外堀、神田川と、実質外堀の 日本橋川の分岐点を見て、水道橋へ。 ここが外堀通りの不可解なところ。

水道橋から〈水道橋の架橋記念碑)を見て、お茶の水を超え、秋葉原へ下がる。左に、湯島聖堂を見ながら昌平坂交差点を右折。

それから淡路町を経て、鎌倉橋交差点を左折。竜閑橋を経て、新常盤橋と日本銀行のそばを通って、呉服橋をとおり、東京駅八重洲口前まで。

東京駅の八重洲口、その右側はかっての大名小路。そこに北町奉行所があったとか。

東京駅の東の道を南に下がると有楽町に至る。この辺は江戸の昔が残っていないが、有楽町のマリオンに、南町奉行所があったとか。

今チョンボで評判の東芝ビルが随分変わっているが、その前を銀座1丁目から8丁目まで歩きます。繁栄の町だ。

そうして新橋まで。ここが都道405号線、外堀通りの起点でかつ終点。

吾輩は、この新橋を右折して、虎の門に向かう。途中疲れて、コンビニでビールを買って一服。足も痛くなってきた。

これでは、東京マラソンにも参加できないぞ。パリマラソンも無理かね。

 実際、42,195kmを走るのは大変だ。歩くのでも大変.走り、ジョッギングで完走するには相当の準備が必要ね。


ビール飲んで、文部省・特許庁前、「ここが江戸時代の溜池なのだ」を通って、首相官邸の下を過ぎ、日枝神社前へ。

くたびれたが、赤坂見附まで、ここで弁慶橋を左折。昔、岩倉具視が刺客に襲われ、急遽弁慶濠に落ち込み、そこで、水面に潜って、討手の逃げるのを待って、命拾いしたとか。

 この先の食い違い御門のところで、大久保利道が 暗殺された。先の清水谷公園に顕彰碑がある。
今も高速道路の下で、若干薄暗いところで、明治初年の薄暗い/暗殺的雰囲気がないとも言えない ところを北上。左に迎賓館を見ながら、四ツ谷駅前へ。

ここから四谷の外堀公園に沿って、市谷御門まで。ここで、再度ダウンし、ビール&ギョウザ。

こうして、約3時間弱の外堀通り散歩を終えました。 この過程で、皇居1周という従来のジョッギング・散歩が子供じみてきた。江戸城は、外堀が城内だったのだ。

東京は常に動いている。特に外堀の地域は、いつもダイナミックな変貌をしていると、を肌で感じましたよ。


 これが、 じじおじさんの、夏休みの社会見学報告です。

チベット旅行 その3

2015年07月06日 21時30分18秒 | Weblog
チベットの首都 ラサは富士山の頂上ほどの高さで、空気が薄い。突然高地に来ると、高山病にかかる。頭痛。吐き気。心臓麻痺。脳水腫などが起こりうる。低酸素の中では消化不良も劣化するからアルコールはご法度。風呂も湯船につかると心臓に負担がかかるからシャワーだけにするようにと。チベットの旅行会社の対応で、チベット人医師が待機しており、日本人旅行者の半分ぐらいは高山病にかかるようになっている。
 高地であるから日差しが強い。帽子やサングラスは必需品ともいえる。高地で物なり豊かでないからうまい料理などほとんどない。またチベット仏教に関係する、巨大な曼陀羅とか仏像といったものしか、特に人目を引くようなものはわからなかった。
印象に残っているのは、バター茶・そば茶ぐらいか。そのほかチベット寺院の蝋燭はバターで火をともしている。蝋燭が手に入らぬためだろう。
いずれにせよ、中国の侵略以来、漢人の進出で中華料理がポピュラーになり、我々もそのお世話になった。


ポタラ宮にあった巨大な仏画。


世界遺産の大昭寺(ジョカン寺)黄金の屋根をふいているが、内部は仏具、仏像、曼荼羅等々で、これまた一切写真禁止。


次はダライラマの別荘の跡地 ノルブリンカという1km×500mの長方形の植物公園。












こうしてチベットの世界遺産ポタラ宮・ジョカン寺・ノルブリンカをこなして、空港へ。ラサ市内を外れたところに、
チベットを東西に貫くヤルツオンポ川に出くわした。




この川は、ラサの南を東西に流れ、ブータンの東の中印国境不明地帯(マクマホンライン・・1959年中印国境紛争)を大きく右折して、インド領内,バングラデシュを通ってインド洋に至るブラマプトラ川になる。

 そのチベットの下流あたりで人類未踏の滝があるとかで、10数年前、早稲田大学探検部のメンバーが死亡者を出しながらなんとか走破したという本を読んだことがある。

チベットの旅 その2

2015年07月05日 21時00分07秒 | Weblog
清蔵鉄道=チベット鉄道に乗るのが目的の旅行であったが、やっぱりラサの写真を掲載せねばならないね。

ラサの高度は富士山の頂上とほぼ同じ。でも、この峰の上に、鳥葬の場所があり、ラサ市民の多くが鳥葬をやっているとか。

雨雲は2000mから2500mぐらいに漂うのでないかな。だからラサは常に晴れているというかな、日差しがきつい。

         チベットの 透き通る空 雲の峰






 ラサのポタラ宮 これがチベット と 首都ラサ のほぼすべて 。




以後、ポタラ宮を見学

チベット仏教と、チベット政府の一体化した政教一致国家チベットの本拠地。政治の場であり、宗教の場であり、どうも軍事的お城の機能を有しているように見える。京都の東寺をもっと暗くして、姫路城をずっと垢抜けさせなかった感じかな。

ただラサは高地であり、一緒に行った13人のグループ中、13人のうち7人が高山病にかかり、点滴・酸素吸入を受ける処置を受けた。代金は4〜6万円ぐらいで、各自現金支払い。ただし、保険に入っていると、帰国後還付されるとか。
特に夫婦で参加した女性に多かったね。

どうも、チベットの医者と旅行代理店と、日本の保険会社の間で、出来レースの感じがしないでもない。

吾輩は、事前に病院で、高山病の薬を処方してもらい、予防的、かつ事後的に薬を飲んでいたから、高山病にかからなかった。
しかし、ポタラ宮に登るときは、それでも深呼吸しながら、ゆっくりゆっくり登りましたよ。



ポタラ宮はチベット仏教の聖地。基本的には一切写真禁止。


まあ、いずれにせよ、高地ゆえの強い日差しのなか、水飲みながら、エッチらえっちら倒れないように、高い宮殿を登り、チベット仏教の一部を見せてもらいました。




大昭寺=ジョカン寺 唐の時代、当時の強国吐蕃に政略結婚で送られた文成公主とネパールから送られたチッテン王女が一緒に作ったのがこのお寺。従って1200年ぐらいたっているとか。












清蔵鉄道の旅

2015年07月04日 10時24分49秒 | Weblog
6月29日から7月2日まで、チベットへ清蔵鉄道の旅を楽しんできました。

西寧からラサまで、1956kmを約24時間かけて走る。
 1、世界1高いところを走る。特にタングラ峠は5072m。
 2、最も高いツンドラトンネル(崑崙山隧道)は高度4648mのところを全長1686m
 3、ツンドラ上の世界最長鉄橋(青氷河特大橋)全長11.7km
 4、約2000kmのうち、550kmのツンドラ地帯。うち100kmが温度が上がると地盤が緩む

このイメージでは大変美しいが、いざ実行すると大変な旅でありました。


西寧発14:56 ちなみに西寧は古吐蕃道の中心地で、2250m。ここで1泊して高地順応した。




最初は平穏な鉄路。高原と清海湖が見える。




崑崙山脈の入り口 ゴルムド(格璽木)が2828m。ここを22:12に通過。ここからが本来の清蔵・チベット鉄道だ。もう外は真っ暗で何も見えない。21:30頃に消灯となり、3段ベッドの最上階段の奴隷部屋みたいなところで、1時間ほど仮眠でうとうと。ちなみに硬臥寝台で2等車だな。①部屋3段×2の6人ベッド。寝られるはずがないから外の景色を見ていた。
 漆黒の空に下弦の12日ぐらいの月が煌煌と、それに北斗七星がくっきり見えた。

崑崙山峠4767mを、1:30通過。3時間弱で約2000m上昇したわけ。ちなみにゴムルドで機関車を2連結してパワーアップしているが、その時吾輩は寝ていてわからない。

列車内の高度計。フィリップス製だから一応正確と思いたい。

列車内には、酸素供給ノズルがあり、自由に酸素を出したり、鼻にノズルを入れて個人が酸素吸入できる。

長江の源流、トトホー(佗陀河。サンズイにダ)川 を2:16通過。4553m。ここから先が5000mを超えるタングラ峠だが、ここで眠くなり、2回目の仮眠。

6:20 目を覚ましタングラ峠5072mを通過したのを知る。まだ真っ暗。外では川が月光を受けて氷河のように白く光っていた。
 やっと5015mを確認した。この辺がチベット鉄道の最高地点だ。あとはラサに向かて徐々に高度を下げてゆく。 6:50で4829m。正確な地図がないので場所の確認ができない。

7:30 アムド(安多)4704m。夜が明けてきた。
 
列車のスピードとタイミングが合わない。何しろ清蔵鉄道の外の景色を楽しむための情報提供や乗客サービスが一切ない。だから勝手に情報を得て1回限りのチャンスを生かすしかない。これが中国だ。

7:50右手にナムツ湖を見ながら。食堂車に行く。連結列車の3等座席は寝台でなく現地住民は夜行列車で座りずめ。満員で混んでいる中をかき分け朝食に食堂車。夕食はお弁当。食堂車の料理と弁当は同じもの。

 中国の食堂車でうまいものかと思ったが、全然まずいね。


8:30 ナクチャ(那曲)4507m。ここで一時停車でほんの数分列車からホームに降りてもいいと。



11:05 4355m 羊八井 これを何と読むのかね。

12:05 ラサ駅到着。3658m

 やっとラサに来たよ。