江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

向島百花園 俳句吟行会

2012年10月31日 21時09分03秒 | 歳時記


今日31日、向島百花園で吟行会。

午後1時までに、5句を提出するのが約束。これは厳しい。

でも、これも知的遊び。

吾輩も、ない知恵を絞って作りましたよ。

1、人波の たゆとう先に 女郎花(おみなえし)
2、風流や、色づく柿の 向島
3、糸すすき 近く遠くに 風もつれ
4、人影に はじらふ如く 叢(むら)もみじ
5、草の実の まろび落ち行く 濁り水

のうち、3は評価が高かったが、5はまあまあ。
1,2,4、は評価ゼロ。

悲しいね。俳句は奥が深いね。


一昨日、調査局のパーテイーで、
先輩・後輩がたの顔を見、話をすると、すべてOKね。
と、ハイテンションデあった。
 後は、打ち上げ、盛り上がったよ。



秋田県 大湯環状列石遺跡 縄文後期

2012年10月23日 22時57分08秒 | Weblog
秋田県 大湯環状列石遺跡 縄文後期





秋田県 大湯環状列石遺跡 縄文後期


秋田県北部、大湯温泉の近くにある。
縄文時代の遺跡で、細かなことは文書記録にない。
まさに先史時代だが、春分の日の太陽位置を示すとか、祭祀用の施設とか、一部墓地に使用していたとか、いろいろ説を唱えるが、
要は何も分からない。3000年ぐらい前は縄文人がどんな暮らしをしていたか、決定的な記録がない。どれくらいの人間集団が、何を食って、何をして生活していたのか。

ちょうど、三内丸山遺跡が数千年も同じ場所で継続して住んでいたはずなのに、いつ、なぜ、忽然と消滅したかのかと同じようなものかも。

べったら市・・・歳時記の旅

2012年10月19日 12時58分11秒 | Weblog


今日11月19日は日本橋の宝田恵比寿神社のえびす講として、日本橋小伝馬町・大伝馬町一帯の道路で、べったら市が開かれる。江戸時代から続く伝統ある市で、現在は保存会が中心となって維持運営している。
本来は恵比寿神社の夷講として商売繁盛を祝うものであったらしいが、浅漬け大根のべったら漬けをも売るようになり、それがよく売れるようになり、べったら市になったよう。

  日本橋 べったら市の 男意気    六訥

いろいろ歳時記はあるね。見るだけで大変だ。

ちなみに昨日は、浅草寺の観音様の前で、菊供養 があった。これも歳時記で季語になっている。

昨日の句会では、「浅草の 観音様に 菊供養」   

 としたが、評価してくれた人はゼロ。歳時記なんかあまり関心がないみたいかね。

その代わり 席題の 「秋時雨」 について、

 峡の村 濃くも薄くも 秋しぐれ   には最高点をもらったよ。でもレベル低いからね。

東京ビッグサイト NEDO ロボットフォーラム

2012年10月17日 16時00分26秒 | タウンウォッチング


東京ビッグサイトを見に行ったよ。

土壌・地下水環境展
真空技術展
洗浄総合展 それに
国際ロボットイノベーション展

の各種ブースがそれぞれ展示して、それ大きなフロアーに合同してやっていた。
日刊工業新聞社がいろいろイベントをやっているうちの一環かも。

普段見ることのない技術屋さんの世界をオープンに展示していて、ああこういうようになっているんだと
感心することしきり。ちゃんとわかった技術者が質問に答えてくれるから、目からうろこ。

核物質に汚染された土壌を洗浄・改良する技術とか、物質の表面の汚れを洗浄するテクニックとか、真空にして汚れを寄せ付けない包装とか、ロボットスーツで介護の腰痛封じとか、楽しいことばかり。本当にモノづくりの世界だな。モノ作りは大人が夢中になる仕事だな。

ロボットは今盛り。介護用にいろいろ考えられているし、福島原発の核格納庫の内部に無人で遠隔操縦する探査ロボット(千葉工大?)など、先日TVでやっていたのが展示して動かしていたよ。

吾輩が一番気に入ったのは、早稲田大学の人間科学学術院の研究室が作っている「睡眠時無呼吸症候群サポートロボット・・じゅくすい君」
 これは指に血中酸素濃度センサーを付けて寝ると、無呼吸症で酸素不足になると一諸に抱いて寝ていた白クマのじゅくすい君が、突然、オジサンの顔をなでたり叩いたりしてその顔を横向きにさせることで、無呼吸を防止する治療法とかで、笑ってしまった。が結構、問い合わせがあるようで、有望な商品となる見込みとか。

日本人は手先が器用で、モノ作りがねっから好きな民族だな。

だが、政治的には、それがいい面であり悪い面でもあるがな。

 

玉縄城 探訪

2012年10月12日 17時14分15秒 | 歴史を旅する
玉縄城は1513年永正10年北条早雲によって鎌倉の北西、現在の大船駅の西部に築かれたとされる。

城の外堀が柏尾川に接し、相模湾まで通じていたから水軍などの重要拠点となった。更に鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面もある。

 この当時の鎌倉は、鎌倉公方も関東管領も滞在せず、いわば権力の空白地点みたいだが、鎌倉八幡宮を中心に源氏・北条と続く鎌倉幕府の精神的本拠地として、北条早雲一族が関東の支配者として、後「北条氏」を名乗ったのと同じ心理的理由から「鎌倉」を守ろうとしたのかもしれない。

 小田原城の大森氏を追いを奪い、相模に進出した北条早雲は三浦半島の先端の三浦氏と敵対する。三浦方はその親せき筋の扇谷上杉方と連携して早雲方をはさみうちにしうる地政学上の理由からも、三浦半島の付け根に当たる現在の大船の地に玉縄城を築いたものと思われる。

玉縄城は、北条一門の重要人物が城主として置かれた。
 初代城主は早雲の実子氏時、2代城主は早雲長男小田原城主氏綱の実子為昌、3代は氏綱の娘婿の綱成、4代は綱成の子氏氏繁、5代は長男氏舜、6代はその二男氏勝と安定して地位を継承している。

戦国の時代にあって、この一族の団結と役割分担のうまさは後北条氏の特徴といえようか。

 1526年大永6年、古河公方に反旗を翻した公方の弟であり、小弓公方と呼ばれ現在の千葉市内の小弓の地に立ちあがったたに足利義明があり、この小弓公方に呼応して鎌倉占拠を狙った安房の里見氏軍勢を玉縄城で撃退した。この時の戦死者の供養として、首塚が柏尾川近くに残っている。

また上杉謙信、武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどの堅城である。
1590年天正18年、豊臣秀吉による小田原征伐に際しては、徳川家康方の攻撃を受け、守将北条氏勝は降伏・開城。以後徳川の支配に入る。

現在の玉縄城は、
昭和38年に清泉女学院中・高が城跡に移転して以降、その多くが破却された。
 多くの小山と 谷(やつ)を利用した中世の城跡だから、ほとんどなにもまない。
七曲という城の大手門に進む道跡がわずか、補修されている。清泉女子高の裏門あたりが、玉縄城の大手門のようである。


市川団十郎 荒事の世界 展

2012年10月08日 19時38分32秒 | 文化






日比谷公園の日比谷図書館で、団十郎の歌舞伎の荒事を展示している。

暫 とか、助六 とか 勧進帳とか歌舞伎18番の解説も。

偶然、散歩の途中で発見。

一見の価値はあるよ。11月28日まで。

東京は本当に、いろいろ文化面の好奇心の対象がある。篠山紀信ばかりではないね。

篠山紀信 写真展の迫力

2012年10月06日 21時36分23秒 | 旅行



 新宿 初台の東京オペラシテイで、篠山紀信の展覧会があり、話のタネに訪問。退屈御家人のパターンだな。

 いやー驚いた。3-5m四方の人間の写真パネルが所狭しと並べてある。問題は撮影年次に応じて歴史を表していると同時に、時代時代の有名人のその瞬間と人間性の一面を表示している。写真家とは大変な仕事だなー。「アラーキー」こと荒木氏の写真も迫力があったが、篠山氏はマイルドかつsophisticatedされているようだ。

 God 神になった人の写真コーナーには、
三島由紀夫の割腹する前の写真や、夏目雅子、勝新太郎、渥美清など、実に考えさせられる。

 Star まさに多くの大衆のスターになった人々を、一番輝いていた時期その時代の瞬間をとらえている。
 1988年の吉永小百合、1999年の海老蔵の左右いびつなにらみの眼、1976年のピンクレデエイ、2011年の澤穂希のラフなジーパンにおへそのピアス、1993年の小沢一郎がハトに餌をやっている全くの市世人の姿など、どう見てもあの小沢一郎とは見えない。1980年の宮崎美子はほんとに若さにあふれてかわゆいね。
1977年の山口百恵の当時らしい黒いパンツのなかで憂いを秘めたヌードは当時の最高水準だろう。

 Spectacle といって異次元の写真を集めている。
ここは、主に歌舞伎の各種舞台や俳優の化粧と、格好の良さ。日本の文化だね。後藤久美子のファンタジーはなんだかよくわからんね。

 Body のコーナーでは、ヌードあり刺青あり。
たぶん1995年の蔵前国技館当時の最後の、貴乃花と曙の両横砂を従えた佐田の海・時津風理事長以下全力士の記念撮影は、これは見たことないね。これはく空前絶後だろう。白鵬も若手でいたよ。

 この中で多くの女優のヌードがあるが、1991年の宮沢りえの草むらに座ったヌードは絶品だな。生殖適齢期の女のもっとも美しい姿だ。ピンクのおっぱいはビーナスだな。(たまたま、昨日NHKで「たそがれ清兵衛」を見たがその映画では宮沢りえは、もう生殖期を過ぎた女の姿であったな)

 このように、篠山写真展は、写真力というのがキャッチコピーのようだが、
私は、①時代の記録 ②背景文化の説明 ③人間の持ついろいろな多面性 ④それらを含めた芸術的表現性
があるように思える。

 みなさん、是非、期間中に 篠山写真展を見に行ってください。

絶対損でないと、退屈御家人はお勧めします。


平山城址公園

2012年10月05日 13時51分37秒 | 歴史を旅する
平山城址公園               京王線平山城址公園駅から徒歩15分

 平山城址となっているが、現実に城跡があるわけでない。古代から中世の初めに当たる時期は、
戦国時代のような石垣を伴う山城という戦争形態でないが、空堀もないところから、平山城址公園は
どうも意味合いの少ない遺跡かも。

 いずれにせよ平山季重という人は、鎌倉幕府につかえる武蔵武士団の有力者の一人であった。特に
平家追討に際して源義経に従って、かなりの活躍をしたことになっている。
その平山氏の所領あとが城址公園の近辺であるようだ。

 平山氏は、日野市に土着した武蔵の国司の末裔で、府中の大国魂神社に位置し武蔵の国の国府に近く、多摩川をはさんだ西側に領地を構えその祖は日奉宗頼(ひのむねより)といい、日野市の名前のもとになったという説がある。

武蔵七党とは平安時代末期、武蔵国に発生した小武士団で、横山、西、村山、児玉、丹、猪俣氏らの総称。

日奉宗頼は武蔵守として武蔵の国府に赴任した後、任期が過ぎても京都に帰らず現地に土着した。

この例ように武蔵七党の先祖の多くは、京都から下向した国司等をその先祖と称しているが、
一方では、在地の豪族たちが自らの家系を京都の下級貴族の貴種に結びつけたものだとする説には、妙に納得させられる。

 多摩川の西岸側を本拠とした西党=日奉氏は、当時の武蔵の国の常で、 由井の牧、小川の牧等の官の馬の生産を扱い、浅川一円に勢力を拡大していった。そして、西氏を宗家として平山・立川・二宮・由井・小宮氏などを分出し、浅川、多摩川・秋川流域に繁栄したと言われている。。

日奉宗頼の4世の子孫直季は、武蔵国多西郡平山に居館を構え平山氏を称した。この直季の子が源頼朝の時代、頼朝から厚い信頼を受けた平山季重である。

 平山氏はこの季重の活躍を歴史に残す。によって季重は平山武者所と呼ばれるが、これは大番として京都に上り、上皇を守る衛士(武者所)を努めたことに由来している。武蔵七党の武士たちは、源氏が東国に勢力を振るうようになると、自らの生き残るためにもそれに従うようになった。

 武士が台頭するきっかけとなった保元・平治の乱に際しては、平山季重ら武蔵武士の多くは源氏方として活躍したが、源義朝方の敗北に終わり結局武蔵の武士たちは東国に帰っていった。
 やがて、伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒の旗揚げをすると、武蔵七党の武士たちは頼朝のもとに参じ、鎌倉幕府創立に大きく貢献。

 平山季重は平氏討伐戦の 富士川の戦い、金砂城攻めなどで活躍、さらに熊谷次郎直実とともに、源義経の配下となって京 へと向う。平山季重は、宇治川の戦いで先陣を切り、ついで、屋島、壇の浦の戦いにも出陣して勇名を上げた。これは『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語に描かれている。

 平家が滅亡後、源義経の勲功に関して朝廷から季重のほかに梶原景時らも叙官した。頼朝はかれらが勝手に叙官したことを叱責、季重らはおおいに狼狽したといわれている。

この叙官のとき、頼朝に対し弟義経がとった行動がのちに義経の失脚、滅亡となる。

 文治五年(1189)、頼朝は義経を匿った奥州藤原氏攻めた。季重も嫡子平山重村と参戦、義経を討つ功をあげた。その功績により「驍勇無双の勇士」と賞賛され、鎌倉幕府の幕府の元老格に取り上げられた。3代将軍源実朝の名付け親も果たしている。