
「築地明石町」は鏑木清方の名作である。
明治から昭和にかけての浮世絵師で日本画家 近代美人画家として 上村松園 伊藤深水と並び称される。
国立近代美術館で没後50年の鏑木清方展で見たのが4月27日。
昭和2年56歳の時の作品であると。「失われる明治の情景」 を 大正三美人の一人 江木欣々(江木まさ子)モデルに描いたとされる。
以来、築地明石町とは気になっていた。
1858年安政5年 日米修好通商条約調印。同年安政の大獄。徳川斉昭蟄居 橋本左内 頼未来三郎 吉田松陰 刑死。
1860年桜田門外ノ変。井伊直弼殺害。
修好通商条約でアメリカの他 オランダ ロシア イギリス フランスと 函館 神奈川(横浜) 長崎 新潟 兵庫(神戸)を開港する。 これに基づき外国人居留地が設けられた。
1868年明治元年 現在の明石地区に築地外国人居留地が作られた。東京は外国公使館 領事館 宣教師館 医師 教育者などが知識人として集まった。したがってこの地域には現在まで続く有名な学校が発足した地域でもある。
1899年明治32年 日本の国力増進とともに条約改正により築地外国人居留地域の制度は廃止された。
それでも1923年大正12年の関東大震災による大きな打撃もあったが 基本的には外国人居留地域と文教地域の雰囲気をそのまま残していた。さらに1945年昭和20年の東京大空襲のときには 聖路加病院や元のアメリカ領事館の地域であり米軍はこの地域の爆撃をしなかった。このためこの地域並びに湊地域は空襲で壊滅しなかった。
こういう時代背景で 歴史の変化の中にも築地明石町は明治の雰囲気を残していたのであろう。


シーボルトも長崎屋に泊まり日本人の門弟にいろいろ教えたようだ。その後追放されさらにその後江戸幕府の顧問にもなったようだ。

播州赤穂浅野内匠頭の上屋敷跡。江戸城内での刃傷沙汰により お家断絶 この地は没収された。
なぜここに明石町と言う優雅な名前がついたのか?はっきりしたものはない。一説には播州赤穂浅野家の屋敷跡のためとする説もあるが これは間違いだろ。きっと明石の漁民がこの辺に住み着いて向こうの佃島を淡路島に見立てたところからではなかろうか。佃は摂津の漁師の村である。
明治に入ってからは外国人居留地&文京地域として整備されている。


聖路加病院を後に宣教師の住宅跡に今も日曜日のミサをやっていた。

築地小学校

カトリック築地教会 東京で最古のカトリック教会とのこと。

今日は日曜日でミサをやっていた。

フランスのリヨンで作った由緒のある鐘のようだ。


イギリス人の医者が日本人の指で押す紋章に興味を持って調べたら縄文時代以来の歴史があるようでここから指紋照合の研究発表しこれが指紋照合捜査の嚆矢となったようだ。


聖路加病院タワーの後ろは隅田川沿いで 昔の 佃の渡し があり 石川島造船の撤退後の向こうには高層ビルが見える。
鏑木清方が見た明治の終わりから大正の名残は 昭和も平成も過ぎた現在の令和の時代にも 外国人居留地や文教地区の区画や緑の中に残ってるような気がする。