曇り空の11日 雨の降る前に荒川区南千住の 三輪の浄閑寺 を歩いた。
このお寺は 別名 投げ込み寺 の方が有名で安政の大地震の際 横死した遊女500余名が運ばれ供養された。
新吉原創業から廃業まで 江戸 明治 大正 昭和と380年余に浄閑寺に葬られた 遊女 遊女の子 遣り手婆 など遊郭関係者は 安政の大地震 大正の関東大震災の死者も含めて推定25000 人にのぼると言う。
これだけ長い歴史のある寺だから文化財となるものも多い。
1、新吉原総霊塔
生きては苦界 死んでは浄閑寺
現在の類似の職種の女性たちの供養品と思われる。ネイル 髪ハサミ イヤリング等等に女の悲しみを感じる。
ひまわり地蔵
山谷で働き 連帯し支え合っている労働者の死後の安心と安らぎのため 昭和57年建立された。
若紫の墓
明治36年 角海老楼の遊女 若紫が年季明けの直前 店に来た客に突然切り付けられて亡くなった。享年22歳。
新比翼塚
明治13年 品川楼で情死した遊女 盛紫と 内務省属の警部補 谷豊栄の 追悼碑。この事件は吉原心中として新聞に連載され歌舞伎の演目にもなったそうな。
永井荷風がこの碑に誘われて この寺と縁ができ 大きな詩碑(明治の子として江戸明治を惜しむ詩)を残している。
投げ込み寺は吉原の大門からまっすぐ土手道を通り日光街道に当たる地で700メートル。道路整備や拡張工事などで周辺は変わっているが当時の土手道の雰囲気を残しているとのこと。
投げ込み寺 浄閑寺から350メートル北の日光街道沿いに 円通寺がある。
坂上田村麻呂開創とも 源義家が奥州鎮定時 討ち取った48 の首を寺域内に埋め塚を築いたので この辺を小塚原と言う。(小塚原処刑場はもう少し東400メートル位にある)
円通寺が有名なのは 戊辰戦争の時 官軍が寛永寺の黒門の前で抵抗する彰義隊を壊滅。縷々とした彰義隊隊士の死体を 円通寺の和尚が火葬して円通寺に合葬した。
弾痕の残る黒門。
このことから戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追悼碑 墓碑が移されてきた。
ここで今日の散歩は終わり。
三ノ輪橋から、都電荒川線で早稲田まで帰りました。