14日、正月も終わったと思ったら、細川さんの都知事選出馬とか。オイオイオイ、やるのかよ?時間は正の方向に流れ、逆はないぜ。細川さん、どうするの。
そんなニュースを聞きながら、吾輩は今日、鬼平のあとを追い、江戸の昔の大横川を歩いた。
確かに現在の江東地区は家康入部の頃は葦のおおう湿地帯であった。だから今でも江東0メートル地帯だ。
これを江戸幕府の官僚たちは、上方の深川氏一族等を招聘し、湿地帯開拓をやり、現在の江東区にまで続く大宅地造成をやったのだ。・・・・頭が下がるね。
まず基本の排水路。この基本設計が大横川・立川だ。江戸城から見て横にあるから大横川、縦方向だから竪川と。昭和40年代の東京の住居表示変更を、当時の都庁官僚は昔の色気を取っ払った「●●の東」とかの表示にしたのと、まったく同じだ。役人の頭は100年のちも同じ発想をするのね。
しかし、役人の禄をはんだ吾輩から言わせていただければ、牧民官の立場は、客観という全国一律規模の平等という発想が必要なのだが、下の下の一般人には理解してもらえないね。
大横川と小名木川の交差するあたりだが、東京にこんな美しい江戸のままの水の都が残っているのだ。
その先、菊川橋西詰めの先に、長谷川平蔵の、そしてその後は遠山金四郎の屋敷あとがあった。現在の都営地下鉄菊川駅のそば。この辺りが鬼平犯科帳・鬼の平蔵の若き前半の、無頼の「深川の輟」の本拠だったとか。
この辺りは、昭和20年の空襲で壊滅しこの地域の無垢の住民800名余が死亡したとか。その供養地蔵がある。涙なくして語れない。
そのまま大横川に沿って南下し、木場公園、仙台堀川を越え、洲崎神社に至った。
ここは江戸の昔、波打ち際で、いつか大波・津波で住民数百人が波にさらわれ死亡したとか。以後江戸幕府は土地を買い上げ不介入地にして続いたとか。
歩き疲れたので、木場から門前仲町経由東京駅の都バスで帰る。
鬼平を追いながら、くたびれるとはなんたる軟弱!