江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

鶴巻温泉

2012年05月26日 20時38分25秒 | 歴史を旅する
最近温泉に入っていないね。
 と思うとむずむず。でも一緒に行ってくれる綺麗どころはいないねー。悲しい。
で、一人さびしく。でも温泉だけでは能がない。かといって山登りは趣味に合わない。
乗り物と歴史がpreferenceだな。

で、遠くは大変で、思いついたのが小田急沿線の鶴巻温泉。
その手前の駅の伊勢原には太田道灌の墓がある。これを見てから温泉だ。

伊勢原は江戸時代、大山参りが大流行。これをやっていた伊勢の人がこの地で宿泊しているうちに、水の流れる音を聞いてここは開墾の場所だと判断し、地元の伊勢神宮を招へいしたのが伊勢原大神宮の由来とか。そこへこのあたりに平安末期から糟谷の庄と言われた地域から人が集まり始めて、現在の伊勢原市に発展したとか。    知らなかったー。

我輩は伊勢原駅から太田道灌暗が殺されたという糟谷の館を探したが、それは現在産業能率大学の敷地内だとか。でも、館跡を示すものは皆無とのこと。手前に太田道灌を荼毘に付した洞昌院というお寺とそこに墓があると。

 これを見てきましたよ。風呂場で道灌を斬殺したという糟谷館は、このお寺から800m程度の、ああなるほどこういう地形背景に相模の守護、扇谷上杉家の本拠地があったのだと、想像が膨らむ。

洞昌院の小さな卒塔婆を見て、あと東名高速の下を通り、246を東へ3km歩く。
ここに丸山城址公園があり、平安末から鎌倉以降にかけて、伏見の安楽寿院の荘園があり、その受領、糟谷氏の本拠地であったとか。
 この糟谷氏と扇谷上杉との関係は不明だが、この城址の一部に高部屋神社があり、ここが糟谷郷の総鎮守であった。この隣に太田道灌の首塚があった。

こうして室町の旅をして、伊勢原から電車で隣の鶴巻温泉へ。ここで秦野市「弘法の里の湯」という日帰り温泉へ。カルシウム・ナトリウム、塩化物温泉。やっと鶴巻温泉を経験させてもらった。2時間1000円。

 2つの源泉が楽しめるとの話だが、場所柄、山歩き後の男女が多く、にぎわっていた。落ち着いて温泉を楽しむには、平日にゆっくりいくのを勧めるね。

   歴史を旅する・・・第1次国府台の戦い

2012年05月23日 20時55分32秒 | 歴史を旅する
23日 前日と違い、さわやかな夏日に、京成線で江戸川の矢切りの渡しの向こう側、市川市の里見公園を散歩。ここからスカイツリーをはじめ、新宿や渋谷や武蔵の国がバッチリよく見えました。やはり、ここは昔の下総の国の国府なんだ。
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第一次 国府台の戦い・・・子弓公方足利義明滅亡
   千葉県市川市国府台。京成線国府台駅から徒歩10分、里見公園。

 都鄙合体 (27年にわたる関東管領上杉氏と古河公方足利氏の敵対終了合意)の後、1512年ごろ、古河公方足利高基と先代の前公方足利政氏の間で、関東管領上杉家の家督相続をめぐって内紛が生じた。この機に高基の弟で出家していた足利義明を還俗させて、これを担いで、古河公方グループや上杉管領家グループに対し第3極の存在感を示そうとしたのが真理谷信清とか里見氏等の主に上総の在地勢力であった。

足利義明はこれに乗り、子弓城(現在千葉市若葉区)に入り、子弓公方と称する。

1524年には北条氏が江戸城を占領、1537年には武蔵・下総国境の葛西城を占拠して江戸湾の沿岸を制圧した。
足利義明は、1533年、里見氏の内部での家督紛糾等にうまく介入するなど政治力を発揮した徐々に実力をもち、小弓公方家による南関東諸大名の統合を名分として急速に勢力を拡大してゆく。

このような小弓公方家の急速な勢力拡大は、新興勢力北条氏や旧勢力古河公方家に危機感を抱かせた。子弓公方義明排除を図る古河公方と海上支配の確立を図る北条で利害が一致、両者が盟約を結ぶことになる。

1538年、子弓公方足利義明は北条勢力の関東進出を阻止し、更に本家の古河城へ進出するため、真里谷信応や里見義堯ら房総の在地諸大名による軍勢1万を率いて北条氏綱、古河公方足利晴氏連合軍2万と国府台と北の相模台(松戸市)で衝突することになる。
これがいわゆる第一次国府台の戦いである。

子弓公方義明は武勇に優れ、自らを恃む性格であったらしい(これは歴代鎌倉公方の共通性格でもあるが、実に面白い傾向だ)。

足利義明は中世の人かもしれない。新しく関東に入ってきた新参者の北条軍が足利将軍一族の足利義明に弓など引けるはずがないとたかをくくり、北条軍が渡河するときに奇襲する案を拒否し正々堂々と戦うと主張したりして、子弓軍内部では十分信頼を得られていなかったといわれている。
 結果的には、足利義明は自ら陣頭で指揮するなど奮戦し一時は北条・足利軍を押したが、里見軍は義堯が協力的ではなく、また真里谷氏内部にも家督争い等から房総軍の士気はあまり高くなかった。そのため、義明らの軍勢はやがて北条軍の反撃を受けて壊滅。義明自身も討ち死にし、嫡男義純もここで討ち死。ここに古弓公方という夢が潰えた。
 義明の戦死後、小弓城は北条方の千葉氏が奪還。足利義明の遺族は里見氏を頼って安房に逃れる。
 小弓公方の滅亡により、北条氏は南関東における覇権確立へ進む。また、真里谷氏では再び家督争いが生じ急速に衰退し、里見氏が久留里城や大多喜城・上総南部を押さ大きな勢力になる。
 義明の長女青岳尼は鎌倉の太平寺に尼として預けられていたが、里見義堯の嫡男義弘の懇願によりその正室となった。(一説では、里見義堯は無理やり強奪したとの話も。)  これによって足利義明の旧臣もその多くが里見氏に仕える事となった。里見氏はこの26年後の第2次国府台の戦いで大きく敗れ、衰退していく。
 子弓公方義明の次男の頼純(頼淳)は、里見氏の庇護を受けるが諸国を流浪。やがてその娘が豊臣秀吉の側室となったことから、小田原征伐で北条氏の滅亡後、頼純の長男国朝は秀吉の計らいで足利氏姫(最後の古河公方足利義氏の娘)と結婚。義明の系統は喜連川氏として存続することになった。
 なお、この間の動きや、長享の乱と言われる上杉関東管領家の内紛などを題材に、江戸時代のベストセラー「南総里見八犬伝」がある。

 また、第1次 国府台の戦いの26年後の1564年、同じ場所で、里見義弘・太田資正8000人に対し北条氏康・氏政20000人と役者も時代背景も変えて第2次国府台の戦いが生じるが、最初押されぎみで敗北近い北条軍が、相手点軍の寝込みを襲う夜襲などで圧勝、里見軍は衰退して行くなど軍事史的には興味深いが、歴史的重要性には劣ると思う。

映画ーーーー舞踏会の手帳

2012年05月19日 23時16分38秒 | Weblog
19日土曜日に、前日のテニスの疲労回復にと、時間の余裕ができると、久しぶりに映画も思い出した。そういえば、舞踏会の手帳  もあったよな。
You Tube には映画の中身も音楽がもでていないものだが、「太陽がいっぱい」とか「冒険者たち」のもう少し前の世代の映画かも。我輩はこれは推奨するよネ。

 この映画の価値をうまく表現しておられる 東京の「ちりつも」なる女性の解説かつ評論があったので、これをそのまま掲載する。
  興味ある方――知性のある方?は映画の深奥を探してたもれ。

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イタリアのコモ湖畔の城に、30代半ばの女性、クリスティーヌ(マリー・ベル)は住んでいた。
彼女はたった今、夫に死なれたばかり。ある日、クリスティーヌは身の周りの整理をしていると、1冊の手帖を見つける。それはクリスティーヌが初めて16歳の時に社交界デビューした夜の舞踏会で、彼女に愛をささやいた男たちの名前が記してあった手帖であった。
クリスティーヌの心に20年前の美しい幻想のような舞踏会が蘇ってくる・・・。
そして彼女はその後の男たちを訪ねて旅に出るのだが、彼女を待ち受けていたものは・・・。

なんとも、不思議でロマンチックな作品です。
この作品は美しい未亡人となったクリスティーヌと、愛をささやいた8人の男たちとの再会の物語です。
オムニバス形式なので、ロマンチックミステリーな短編小説を見ているようです。

最初に訪ねた男は既に20年前に、死亡してます。
死因は自殺。
クリスティーヌに恋人ができた事での絶望死です。
クリスティーヌは亡き息子の亡霊と暮らす母親から、その事を知らされます。
フランソワーズ・ロゼーが扮してます。
その姿は哀れな母親そのものです。

次に出会った男(ルイ・ジューヴェ)は、いかがわしいナイトクラブを経営していて、すっかりクリスティーヌと出会った頃とは変わっていました。
この男は昔、クリスティーヌにヴェルレーヌの詩をささやき、彼女を口説いたほどのインテリでした。
なのに今は悪党になり果てて、クリスティーヌの目の前で逮捕されてしまいます。
「凍てつける公園を、 影ふたつ過ぎ去りぬ」と彼女にささやいた青年はもうそこにはいないのです。

3人目の男(アリー・ボール)は、当時40歳くらいのピアニストでした。
男は既にピアノを辞めて、今は聖職者となり、修道院で子供たちに歌を教えてました。
男は、昔の思い出をクリスティーヌに話します。
愛する女性のために捧げた演奏を聴いてもらえず、その愛に絶望して自殺未遂をしたこともあったと・・・。
この男もクリスティーヌを想う余り、犠牲となったのです。
こうして、クリスティーヌは再会する男たちから、その度に悲惨な現状を見せつけられるのです。

ここまで書くとクリスティーヌという女性、普通は性悪女のイメージですが、マリーベルの毅然とした美しさと明るさのせいか、余り彼女に悪女という印象は感じません。
あるのは、とても摩訶不思議な?女性ということです。
彼女はなぜ、16歳の思い出を探しに旅に出たのでしょうか?
彼女にとって初めての舞踏会とは一体、何だったのでしょう・・・。

「モスリンのカーテン シャンデリアの輝き 純白のドレス 何もかもが素敵!」
クリスティーヌは舞踏会の思い出を、余りにも美化してたことにようやく気づきます
それが、単なる幻想と、気がつくのは7人目の男と一緒に、20年ぶりに同じホールの舞踏会にいった時です。
そこは、自分の思い描いていたものとは、余りにもかけ離れた舞踏会でした。
けれど、彼女の隣にいた16歳の女の子は目を輝かせて、クリスティーヌにこう言うのです。

「モスリンのカーテン シャンデリアの輝き 純白のドレス 何もかもが素敵!」
女の子は20年前のクリスティーヌ自身でした。

物憂げで憂鬱なクリスティーヌの旅の果てには、反比例するかのような軽やかなラストが待っています。
「灰色のワルツ」の調べに乗って、まだまだクリスティーヌの舞踏会は続いていきます。
                             2008/07/27 21:40
                                  ちりつも
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いかが?

醍醐の花見 & 葵祭上賀茂神社の競べ馬 & 下鴨神社の流鏑馬

2012年05月16日 18時42分28秒 | Weblog
醍醐の花見 & 葵祭上賀茂神社の競べ馬 & 下鴨神社の流鏑馬



京都葵祭は、昨日雨のため、本16日に順延された由。間違いの訂正。

本日は最高のお天気で、昨日やったら最低だった。
京都人は商売がうまいね。

上賀茂神社の競べ馬は、然々草の中にも描写されている。鎌倉末からずっとやっているのだ。


 そこで
      兼好の 場所はここかと 競べ馬

歳時記の旅

2012年05月16日 08時03分34秒 | 歳時記
5月14日は奈良・当麻寺の練供養。これは中将姫が往生する際に来迎を見たとの伝説に基づくもので、各種菩薩さまの扮装をしたお練り行列があると。
我輩は、先々週の京都奈良旅行で葛城市の近くまで行ったが、よう行けなかった。そこでYouTub の動画サイトでみましたよ。よくわかる。

5月15日は京都葵祭の「路頭の儀」。御所から上賀茂神社まで、斉王代や官女たちが牛車や輿で延々行列を連ねる華やかな祭り。去年は日帰りでこれを見たがいいお天気でよかった。今年は京都は雨で多分雨の中で華やかさを欠く行列と推測している。
先日の斉王代の禊の儀は見学して大変よかった。尤も、この日も曇り時々雨で、斉王代や女官たちの記念撮影に苦労していたが。

5月15日は神田祭の例大祭。前日の14日に勇壮な薪能。月曜日はいい天気でよかったネ。昨日の本祭は雨の中だろう。

5月17日から20日まで、浅草寺の浅草神社(三社権現)の三社祭。天下祭でもあり、今年は勇壮に実行されると。(去年は東北大地震の関係で中止したはず)
 是非、歳時記の旅をやろう。

関東インカレ=関東学生陸上競技対校選手権 In 国立競技場

2012年05月13日 20時58分59秒 | 歳時記
5月13日、千駄ヶ谷の国立で関東インカレ見物した。若い人の運動姿はいいね。

京都もいろいろ楽しいところがありますが、東京にも別の興味の対象がありますな。

1、関東インカレは5月12・13、19・20の土日をつかって、関東大学の陸上競技対校選手権とか。詳細は分らないが、国立で毎年陸上競技をやっている。

2、9時競技開始だが、吾輩は午前中「第4の消費」という消費論・社会学の本を読む。これは推薦よ。半日読書の後、ブラブラ千駄ヶ谷へ歩く。12時45分に到着。

  その時、12:45 男子110mハードル決勝 筑波大の大室君 13秒88
  その後,      男子100m決勝 中大 飯塚君 10秒40
            女子100m決勝 早大 紫林君 11秒94 
            2部男子100m -  佐藤君 10秒59
            2部3000m障害1組      8分48秒61
                   同2組 大東 池田9分09秒98
                   同3組       8分56秒84
  その間、10種競技は、種目の 棒高跳びを延々とやっており、そのあと、今度は
  やり投げ。
   どうも、10種競技のような人気のないマイナーな競技の方が私的には面白いよね。
   とにかく、長時間の体力派的競技は楽しい。

  14時56分から、男子1部3000m障害1組    8分59秒01

  15時から、3段飛び決勝
    これは20数人が参加し、なんか各人6回もの試技をやってはばの大きいのを
    優勝者とするようで随分時間のかかる競技のようだ。優勝は日大か?15m75
  これと並行して、4×400mリレー
        男子1組    大東       3分11秒00
          2組    農大       3分16秒16
          3組    ?        3分14秒81 
        女子1組    中大       3分41秒11
          2組    筑波       3分54秒76
  16時35分 男子10000m2部3部の決勝
                駒沢 村山 28分58びょう20

  17時を過ぎても10種競技のやり投げをやっていた。その直前まで、3段跳びをやっていたね。              

3、各大学は、体育部がそれぞれカフルな応援。黒い学ランんの応援団はもう時代遅れかもね。でも箱根駅伝とか野球とかでは出ているのではないか。陸上のようなマイナーなスポーツとは縁が薄いのかも。

4女子4×400mの各チームの選手を双眼鏡で見ていたら、アスリートの体系・肌の色艶、まさにビーナスだね。こんな美しいものはない。
 東大の女子チーム(びりから2位)でもそれなりに色っぽかったよ。
若さは素敵だ。本当に価値がある。
 諸君諸姉も 「命短し、恋せよ乙女」のルネッサンス期のフィレンツエの諸行無常が故に生まれた原本の背景を知ってほしいね。 

    歳時記の旅・・・・葵祭

2012年05月04日 19時41分28秒 | 歳時記


1、葵祭は5月15日、京都 上賀茂神社と下鴨神社の大祭。古来、祭りといえばこの葵祭を言うと、俳句の先生に教わった覚えがある。

2、5月15日には、勅使や斉王代や女官や警護の役人一行がきれいに着飾って、牛車や輿の行列を連ねて、御所から加茂の下社から上社へ練り歩く「路頭の儀」は見物人が集まり大混雑。ちなみに、祭りの参加者は頭や襟に、民家の窓にも三つ葉葵のを付けるのが習わし。

3、ところがこの葵祭は15日だけでなく、5月3日から各種行事が上社・下社で連日行われ、その最後の打ち上げが、葵祭の斉王代と女官たちの華やかな、あの牛車の行列ということ。

4、今回は我輩は連休を利用して京都に滞在していたら、思わぬ経験をした。(明日は帰京で残念)
  5月3日は下鴨神社で、流鏑馬の神事(上賀茂神社では別の日にヤルようだ)
  5月4日は上加茂神社で、斉王代の禊神事

5、両神社の役割分担はどうなっているかよう分らないが、喧嘩しないように両者同時に世界遺産に登録されている。神社の由緒等関係はまた調べるよ。ただ上賀茂神社が山城の国一宮である。

6、今回は昭和31年に復活した斉王代が古式に則り、御手洗の川で手をすすぎ、ひとがたを流しお祓いをする行事。たくさんの斉王代の裾もち官女を近くの小学生が、華やかな官女たちを(どういう人を公募したのか)、豪華な衣装・装束で華やかで楽しいね。

 ちなみに、斉王とは天皇の息女内親王または孫娘=女王が、加茂神社か伊勢神宮に仕える役目。だいぶ昔から斉王の制度がすたれていたのを、昭和31年から、民間人の適宜な女性を選んで葵祭の「斉王代」に任命し斉王の代わりをやってもらおうという、京都人らしい、現実的・商魂の知恵の産物。たいした生命力だ。これが歴史を生きる精神。

7、今年の斉王代は亀井何とかさんという近所の大学生のようで普段、よさこいクラブで踊っているようなお譲さんらしいが、今日のこの式の間は、一生懸命斉王の雰囲気を出していたよ。
 写真の主は昨年の斉王代かも、よくわからない。吾輩のカメラではうまく映らなかった。

8、匂ひたつ 葵祭の 女官たち

歴史を旅する  唐古・鍵遺跡

2012年05月02日 11時42分56秒 | 旅行



大和盆地をドライブしていると、国道24号線沿いに唐古鍵遺跡に出くわした。

1、ここでは弥生時代後期の、初の環濠遺跡で多くの生活遺跡の破片等が出ているらしい。
特に、写真のような楼蘭の絵を陶器に線描きした破片が多いようで、そこから、唐古鍵遺跡の中に、モニュメントとして建てたという。これ以上、唐古鍵遺跡を説明するものは今のところ、なさそう。
奈良にはその後、中世にも環濠集落を作って戦国大名に対抗しているから、そういう体質があるのかも。

2、唐古とはこの地域の名称、鍵とも隣り合わせた地区の名称で、特段の意味がない。

3、唐古・鍵遺跡の1.5km左前方に、巻向遺跡があり、この遺跡こそAD180年ごろから225年ごろまでの王権の位置と想定される前方後円墳の最初の集積地で、その南端に卑弥呼の墓とも言われる最大の「箸墓古墳」がある。
巻向遺跡は古墳時代を期する遺跡群で、弥生時代の唐古・鍵遺跡の10倍もの大きさというが、両者の年代的場所的関係から、大いに継続性があろう。この間の時代区分時代変化、連続性は想像するのが楽しみ。

4、卑弥呼の時代ののち、日本の歴史・文献資料ではAD417年の倭国の晋への朝貢まで、147年間不在となり、前方後円墳のこの時代の実態がよくわからないようだ。AD400年ごろは前方後円墳の最盛期で仁徳天皇陵をはじめ全国で前方後円墳が多くたてられる。

5、ここから前方後円墳体制といわれる考えがあり、それでは、王権を見せる必要から、支配領域・軍事権・外交権・イデオロギーを共通利害とする各地首長層の共同体とするもの。要するに卑弥呼の?箸墓古墳を嚆矢とする見せかけの建造物で支配を維持確保しようとした時代なのかも。
 同時に河内王権・葛城王権説などもあり、奈良盆地から竹内街道を通って堺に至る大和川流域の歴史遺産は大変なものだ。

6、この後AD500年代の明日香地域を中心とする歴史時代まで、大いに想像しよう。
今回は、楠正成の赤坂千早城が目的だったが、昔の風情が残っていたな。板葺きの宮跡、藤原京跡等々
歴史の宝庫だな。

「歴史を旅する」研究会の石井喜久雄氏は、古代史がメインだから、また聞かせてよ。