江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

3月31日 年度末 季節が動く

2013年03月31日 18時57分10秒 | Weblog
染井吉野の白い花びらが散り、ガクが赤くなった。べつの桜や、その他花々が咲き始めている。
明日から新年度。



















浜町の明治座では 北島三郎特別公演





花狂いしたが、まだまだ。 すぐ 「3日見ぬ間のさくらかな」といいそうだネ

2013年03月29日 12時57分48秒 | Weblog
歌舞伎座の新装出発まで、あと4日。(26日撮影だからあと7日となっていた)





歌舞伎の役者たちが雨のなか、銀座通りを「お成り」したのが27日か?
今日29日は、演目の口上のセレモニーみたい。よくわからないが。



弁慶橋と赤坂プリンスホテル。縮小していくね。





最高裁の前のサクラ。





英国大使館前のサクラ





市ヶ谷の土手。サクラのなかに電車が走る







朝鮮総連本部・・・45億円で最福寺が落札とか。内部では今日も執務していると。







花筏…美しい言葉だ    



 散り急ぐ 白き命や 花筏      六訥


サクラを食べる小鳥

2013年03月24日 16時39分02秒 | Weblog
花見客の大きな人波の上から、花が落ちてくる。花びらが散るのでなく、ガクごと落ちてくる。
なぜか?小鳥がサクラの花の蜜をたべるため、花びらを落としているのだ。知らなかったーね。



 花びらに いたずら好きの 雀の子      六訥

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今週はサクラを追っているうちに、今日で大阪場所が最終日。 季節が大きく進む。





TVで写すと波が入った。


 今日ついに、雅山が引退。  白鵬は全勝優勝。9回の全勝優勝は史上最高。

もう吾輩はサクラ狂いだね

2013年03月23日 19時31分58秒 | Weblog
今日23日は、井の頭公園から、玉川上水沿いを三鷹駅まであるき、バスで深大寺植物公園まで行った。
 深大寺そばを食っていると、そばに深大寺温泉があって日帰り入浴できると。
 こんどサクラが終わったらいってみようっと。

 いずれにせよ、吾輩はちょっと異常、サクラ狂いだね。韓流に追っかけするオバサンの気分だね。

 おかげで出雲の温泉探訪と、後鳥羽上皇・後醍醐天皇の隠岐配流の道=出雲街道の旅を書けないでいるよ。











  ここで、 六訥の フォット俳句 

        一瞬の 永遠とどめる 花と人





  ここで次の フォット俳句

       夢多き 花を見上げて 銭洗い





  さらに恥をさらす フォット俳句

       花びらの かかるボートや 恋いずこ

                                 おそまつさま。


皇居周辺のさくらの風情です。もう満開。

2013年03月22日 17時35分45秒 | Weblog
皇居周辺のさくらの風情です。もう満開。


今日22日金曜で、ほぼ8分咲き。東京都内でも多くの場所で、ソメイヨシノは満開でしょう。

 そこで、

   ニコニコと 老いも若きも 花狂い     六訥




 靖国神社の境内では、花見客用の場所づくりに大わらわ。早すぎるサクラは大変だ。



 TV局のクルーが標準木を撮影していたよ。



 専修大学の卒業式はサクラ一杯。よかったね。



 サクラの古木の幹から花が咲いている。こういう桜もあるのだ。



 千鳥ヶ淵のボート遊び。定番でもサクラの季節の様式美だね。






東京のさくら…今年は早い

2013年03月20日 18時09分40秒 | Weblog
3月19日、20日の花の開花状況です。

これでは、武道館での各大学の卒業式、そしてそのあとの入学式に、これでは サクラチル ということになりかねない。

花見の名所で、トイレ等の準備が整わないうちに、満開となりかねない。

新宿御苑で恒例の「総理主催、桜を見る会」もサクラが散っているかもと心配してあげるよ。

新しいチャンネル

出雲風土記の世界 その3

2013年03月20日 09時28分27秒 | Weblog
出雲大社とその歴史は興味尽きない。書いた記録や証拠文物がない先史時代は総合想像力で見るしかない。




因幡の白兎



出雲大社からやく10km半島の先端に日御碕神社がある。朱のゆかしい神社である。
日御碕は国引き神話では新羅から引き寄せたとか。この神社は天照をまつり、伊勢神宮が日のいずる神社で、
ここ日御碕神社が日の沈む神社とセットで位置付けられている。平安時代以降、出雲大社の末社。
 古代は対新羅の最前線基地か、中世は尼子氏の守護神として尊崇。







日本海の夕日をのぞむ鳥居






出雲風土記の世界 その2

2013年03月19日 11時03分34秒 | Weblog







 松江市の南約4kmの所に、出雲の国造家発祥の地らしいのがある。
それは「神魂(かもす)神社」といいイザナミノミコトを祭るもので、出雲の国造家の祖先神アメノホヒ降臨の地と伝えられ、その後国造家はどういう理由かははっきりしないが(ここに、出雲族とヤマト族の抗争があったか神話の世界だ)、西方20kmの海岸沿いの杵築大社=出雲大社に移り、そこの神官となり現在に至るよし。
 神魂神社は、出雲大社そっくりの規模は小さい本殿を有し、これは国宝に指定されている。
 かもす神社一帯が、もと出雲の故地と思われ、近くに八重垣神社がある。ここはスサノオが八岐大蛇を退治する時、愛妻クシナダヒメをかくまっていた縁結びの神社。
 更に、南7kmには、平安時代初期までは出雲大社より格式が高く、出雲一の宮の座にあった熊野大社がある。
 かもす神社一帯に、「八雲立つ風土記の丘」が整備され、そこに博物館として各種展示している。とくに、出雲風土記は733年天平5年ごろの記述であり、それと、神話時代の伝承とのミッシングリングをどう考え、イメージを膨らませて行くかが、古代史のロマンだろう。
 出雲風土記には、出雲の国各郡の地名や駅名、神社名等が記されており、これら説話や国引き神話・国譲り神話、ワニ退治などが一体何年ごろのことか。国譲りには軍事衝突はなかったのか。その記録も記憶もなさそうで、不思議ではある。

 一般的には紀元前1000から500年ごろが縄文文化時代で、母系氏族社会・屈葬時代。その後紀元前500年ごろから大陸文化のの影響が入り、弥生式時代で父系氏族社会、稲作農業、伸展葬・石棺の時代。徐々に各地で、同時多発的に部族国家が誕生。

 紀元57年、倭奴国王、後漢の光武帝の印綬を受ける。
   150年ごろ、倭国に内乱
   239年、卑弥呼、266年女王壱与、晋に派遣。以後 空白断絶
   367年、百済の援軍要請、その御礼として石上神宮の七支刀
        この頃前方後円墳が盛行
   413年、倭国、晋に朝貢。その後、倭の5王の朝貢。
   527年、百済との利権をめぐり、筑紫の国造・磐井の乱
   538年、百済から仏教伝来
   562年 伽耶、新羅に滅ばさる。
   587年 蘇我氏物部守屋を滅ぼす…古代統一国家がはっきりしてくる。

出雲風土記の733年・天平のころには完全に大和王朝の地方出先機関となった出雲の国府である。

 かもす神社・出雲の故地のそばに、出雲の国国府跡が1kmほど東にある。ここには、天平奈良時代初めの出雲地方の中心部がそのまま残っている。
たとえば、国府跡前には、古代山陰道あとが推定され、1kmほど北には、国分寺と国分尼寺跡がはっきり残り、周辺は古代の条里制のあとが残っている。

出雲滞在中に東京で桜の開花宣言・・・ほんまかいな?

2013年03月18日 10時09分21秒 | Weblog
皆様に東京のサクラ状況を報告するため、18日あさ7時に靖国神社散歩。西から雨雲が近づいているのか曇り空で風がある。



 開花宣言の標準木


  だが18日7時am ではこの程度


  靖国の外では少し咲いている木があり


  それでは、千鳥ヶ淵では






   紫のモクレン?がきれい


  近くの和菓子屋はこの前、お雛様だったが、今日はサクラの造花と「おはぎ」だった。




出雲風土記の世界and etc

2013年03月17日 21時37分22秒 | Weblog
ロシア旅行中に急死した実兄の49日法要の機会に、出雲に行ってきた。歴史を旅する研究会のオジサンが関心を示したいくつかを、表示したいので、何回か、嫌でも付き合って給れ。

1、玉造温泉&荒神谷遺跡

玉造り温泉街。玉湯川沿いに宿20軒の山陰最古の名湯。









こういうところで、古代は勾玉を作っていたのだ。古代の最先端産業・付加価値の高い産物。


あと、在の共同湯を探したら、現代的に県営の温泉ランドと区民ホールになっていた。でも温泉は優しいお湯で源泉を多量に使った温泉。よかった。

ついで荒神谷遺跡訪問。





300数本の銅剣を発見したことで、古代史を変えた荒神谷遺跡跡。今は遺跡公園に整備されているが、かってここに先人が多数生活した感じが一切ない。単なる中山間地域。ここにかって文化があったのだろう。
 近くに銅鐸を発見した加茂岩倉遺跡がある。




予算委員会傍聴

2013年03月09日 09時32分36秒 | Weblog
昨8日、学生5名と衆議院予算委員会を傍聴した。

久しぶりの国会は随分きれいになっているので感心した。

学生諸君はもちろん初めての経験で、予算委員会の傍聴と国会見学をして、いい勉強になったようだ。


 予算委員会開会中はもちろん写真禁止。代わりに本会議場を写した。


 夕暮れになって、国会を出て「虎ノ門升本」に英気を養うべく行きました。

途中、経産省前で、反原発の路上討論会をやっていた。なんと阿部知子議員。私は彼女のファンなので、
原発の中身は分からんが、ご尊顔を写させてもらった。


八王子黒塀通り探訪&滝山城址

2013年03月05日 07時25分25秒 | Weblog
昨日は学生時代の友人たちと八王子の料亭で芸者遊びを楽しんだ。









久しぶりの八王子で、夜の宴会の前に、午前中は滝山城址公園をみる。

ここは、1521年、山内上杉関東管領が武蔵の国守護時代の守護代大石氏が築城したのが最初で

北に多摩川を望む断崖の尾根を利用して、堀を巡らす中世の城跡。

その後 1546年、河越の夜戦で北条氏康が、上杉に圧勝。上杉氏の関東支配が崩壊、

代わって北条氏の関東支配の時代に入ると、

滝山城の大石氏も降伏し北条氏の支配下にはいり、同盟関係を築き、北条氏照の武蔵支配の地とした。

しかし、1569年には、武田信玄、勝頼軍に三の丸まで攻められたが何とか撃退した。
ここで、北条氏康はこの城は危険と判断し、もう少し西の高尾山の北側に石垣等を利用した中世の山城を八王子城として築く。

その後、戦国トーナメントで、武田氏を破った、織田方の豊臣秀吉が、
1590年の小田原攻めの折、
こちらの八王子城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら15000人で攻撃。相当な犠牲を出して落城。

この結果、小田原の北条氏は降伏し滅んだ。

こういう歴史で、滝山城は中世の堀中心の大規模な城で早期に放棄されたため、現形がかなり正確に残っている。もちろん、時間の流れで堀跡などはだいぶ自然に埋まっているが様子は分かる。

こうして吾輩は、歴史を想像した後、八王子駅前の天然温泉ランドで風呂を楽しんで、
上記の黒塀通の料亭であそんだわけです。

ちなみに、他の3人はゴルフを楽しんだ後、宴会に参加するなど、皆さん豪華にあそんでいるよね。

 葛西城・・うずもれた城

2013年03月01日 18時14分02秒 | Weblog

葛西城は環状7号線建設に際して発掘されたもので、地上には何ら痕跡はないが地下に中世の遺構を残していたとされる。環7と水戸街道の交差するところで、中川から数十メートルの地点。

亨徳の乱で、鎌倉公方の足利政氏がその補佐役の関東管領上杉憲忠を謀殺。これには当然背景に関東在地勢力の生存をめぐる権力闘争があった。
この結果、上杉関東管領家=京都足利幕府と鎌倉公方が全面対立。関東での応仁の乱と言われる内乱。
その結果、鎌倉に居住できなくなったので、古河公方として古河に移り、太日川(現江戸川)を挟んで、西岸が上杉グループと東岸が古河公方グループと対峙する構造が約50年続く。

その北条早雲=後北条氏が関東に侵攻して勢力を拡大。その間、太田道灌も巻き込んで上杉一族での抗争もあり北条氏対古河公方という構造になる。北条方は婚姻政策や外交政策でも徐々に古河公方に影響力を行使していく。

こういう背景下、葛西城は(もちろん中世の城だから石垣の天主などなく、堀を掘ってめぐらした足利の鑁娜寺みたい)太田道灌の配下の大石石見の守が守って、古河公方と対峙していた。その後、1524年には北条氏綱が江戸城を攻略その後葛西城を攻略。
1538年には足利公方の弟、足利義明を担ぐ勢力と房州の実力者里見氏が、江戸川東岸の国府台(律令時代の下総の国)にこもり、北条氏と対峙。古河公方は足利晴氏がその身分を守るため北条氏の援助が必要。こうして第1次国府台の戦いは公方・北条方の勝利で、北条勢力下になるとともに、古河公方家に影響を及ぼす。

その後上杉謙信の関東進出などあり、古河公方家の衰退が続き北条氏が主体となる。
詳細は政治史そのもので、簡単に表しえない。



その後、下総中山の法華経寺を訪問。日蓮法華の関東の大道場。


 でも、静岡の身延山久遠寺(高野山の山岳都市をかなり意識している)にはちょっと劣るが下総にこんな太寺があるとはね。



そしてこの中山の門前町でも、いまは雛祭りだ。


法華経寺の鬼子母神にもたくさんの お雛様を飾ってありましたよ。


  ちょっと写真技術に失敗。でも3基の雛段が並列に飾ってあった。