江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

朝顔展

2013年07月28日 15時22分49秒 | Weblog
28日、暑い中を散歩で日比谷公園。ここで朝顔展をやっていた。






茶紫の朝顔があったよ。


大きな花がいい評価見たい。ただ花が大きいと自重でたれてしまう。この兼ね合いがポイントか。


変わった朝顔というジャンルもあるようだ。


朝顔展の向こうで日比谷公園のレストランで結婚式をやっているカップル。暑いのの大変だが、いまは幸せ。


無名の(吾輩が名前を知らんだけですが)花もいいよ。


日比谷花壇の店先のハイビスカス。





関東マスターズ陸上競技会at国立競技場

2013年07月21日 11時33分12秒 | Weblog
7月21日(日)仰々しい名前を見て、野次馬はジジ・チヤリンコで行きました。
NPOが主催する老人いやマスターズのための競技会のようで8時30分から丸1日、やる模様。でも暑いのに老人が大丈夫かね?

走り幅跳びの選手は、失礼ながらマスターズに恥じない年配で、確かに「おたおた助走」を感じたね。3m80台、最高が4m56だったよ。




さっそうと女子の力走。5000mの競技。中間報告では「曇り、24,5度c、湿度56%
風ほぼなし」で条件はいい。男子で17分14秒とか、立派なものだ。


遠くで棒高跳びの試合開始。


選手より、役員の方がハッスルしている感じ。国立の改修前最後の大会だからね。


暑くなる前に吾輩は退散。神宮球場をのぞくと高校野球の予選のようだ。高校生も忙しい。


四谷の駅前でたくさんの子供ずれの奥さんたちがいるので何かと思えば、今日は二葉学園の校舎見学会をやっていた。そういえば、大学はオープンキャンパスっといって、生徒確保の
営業をやっているね。

これで今日はおしまい。
 あと午後3時からテニスに行きます。暑いから2時間だけ。
熱中しているから、バカみたいに常に熱中症のおじさんオバサンだ。

 ああ、いけねー。参議院選投票を忘れてた。よし行くぞ。

靖国神社みたま祭り

2013年07月13日 20時28分46秒 | 歳時記
7月13日から16日まで、靖国神社でみたま祭り。これは仏教の新盆の代替だろうと想像する。




去年は牡丹紅守備隊の提灯が印象に残っているが、今年はそういう提灯の掲揚は少なくなっているよう。
でも一部はある。


盆踊りの代わりに、舞踊会をやっている。あとは境内一杯の門前市だ。浴衣のお嬢さん方がいっぱい。



一方、千鳥ヶ淵では千代田区主催の「納涼まつり」をやっていた。ボートを浮かべ、いわば精霊流しの代わりか。



水の上の舞台で唄をうたっている。



長崎旅行 6

2013年07月06日 13時08分10秒 | 歴史を旅する
長崎港クルーズで軍艦島へ行きました。近代日本の産業遺跡だ。



当時長崎で建造中の軍艦土佐によく似ていたから、軍艦島とか。石炭採掘で一世を風靡した。




三菱造船所で改修中のイージス艦「ちょうかい」


この橋の下あたりに、江戸時代の西泊御番所と戸町御番所があり、外国船打ち払いの基地であったが、
うまく機能しなかったのが、長崎的か。


三菱100万トンドック


原爆記念碑  これは祈り。言葉にならない。

長崎旅行 5

2013年07月06日 12時55分46秒 | 歴史を旅する
長崎丸山  ぶらぶら節の故郷  江戸吉原と京都島原に並ぶ格調の色街。八王子とは格が違う。









ここにも思案橋と思い切り橋があり、さらに見返り柳。吉原の見返り柳が懐かしい。


身代わり天神  ぶらぶら節の「愛八」姉さんが通った神社


近くに、砲術の高島秋帆の屋敷跡



長崎旅行 4

2013年07月06日 12時42分31秒 | Weblog
シーボルト記念館・鳴滝塾跡地。シーボルト国外追放後、30年目に開国で来訪した由。涙なくして語れない。






オランダ坂








グラバー邸




唐人屋敷あと(江戸時代の中国人隔離地で現在は普通の住宅街になっている)ちなみに、江戸時代の唐舟置き場ア父が現在うずめられて、中華街となっている。横浜、神戸に比べ小さいね。












長崎旅行 3

2013年07月06日 11時08分09秒 | 歴史を旅する
長崎の地は、司馬遼太郎によると、大村純忠配下の長崎甚佐エ門(千石程度)が受洗後、その屋敷隣にトードス・オス・サントス教会が建てられたと。つまり私領を最初の外国人神父のルイス・デ・アルメイダに譲り教会領として、1580年この教会がたてられた。



ポルトガル人が平戸から横瀬浦・福田浦をへてこの長崎の地に移り、貿易と布教活動を表裏一体とする。
この背景は「時代というものは魔法のようなものだと思わざるをえない」と司馬遼太郎の言うように、16世紀後半では日本人は国家意識を持たず、外国人が勝手にその欲する土地を決めても別に不思議と思わなかったようだ。ポルトガルはインドネシアのゴアを根拠地とし、中国にマカオ、日本に長崎と構想していたと。

時代は急速に変転。秀吉の統一政権が九州に及ぶのは長崎が教会領になってから8年後天正15年(1587年)と。秀吉は長崎の実情に驚き、1587年バテレン追放、教会領をことごとく停止しここを官地とした。




 初代の長崎奉行は秀吉の部下で、以後明治元年1868年に長崎奉行所が廃止されるまで、277年間127代の幕府官僚が務めた。

1596年、26教徒を処刑。今は26聖人殉教地となっているが、昔は今の長崎駅あたりは海に接する辺鄙な地で刑場であった。

そして1612年の禁教の時代となると、長崎市内の南蛮寺関係は一切棄却され、何も残っていない。トードス・オス・サントス教会は完全に壊され、現在の春徳寺(真宗か?)に改築させられて今に続く。
1626年には踏み絵が、1637年には島原の乱が。

そして1859年に安政の開国となり、キリスト教教会がたてられると、大浦天主堂に隠れキリシタンが200年以上経って現れるという奇跡がおこった。



長崎旅行 2

2013年07月06日 09時10分40秒 | 歴史を旅する
長崎は見学するところが多方面にある。結局、各人の関心の如何によってウェートが違うのだろう。
そこで吾輩の独断と偏見で。

1、「出島」と「西奉行所」あと。江戸のころ「へそ」のような出島は、その後の埋め立てで現在は町のなかになっている。















2、大波止の「鉄砲玉」 江戸時代から誰がなぜ置いたか分からないが、有名な鉄の弾丸?






文明堂は発祥の地で現在もなお営業している



3、西奉行所あとは、現在長崎県庁。奉行所で関係した人々の碑

長崎旅行その1

2013年07月05日 10時08分42秒 | 歴史を旅する
市川森一氏の「夢暦 長崎奉行」という本を読んだ。遠山金四郎さくら吹雪の北町奉行の実父の長崎滞在記を、脚本家らしく史実に基づきながらドラマ風に書いた歴史小説である。
 これでいままで特段の興味もなかったが、「長崎=鎖国時代の出島」との単細胞から、時代背景と多くの英傑の活躍したドラマチックな町を知るほど奥深さが分かり、是非とも行ってみたいと。
 いつ行くか?「いまでしょう!」と万難を排して二泊三日の個人フリー切符(老人は安く上げる必要がある)を手配して、いざ、江戸時代みたいに「長崎街道」を行った気分。
 ちなみになかにし礼氏の「長崎ぶらぶら節」と司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の肥前・長崎を並行して読んでいくと、時空的に立体的になるね。

 長崎は懐の深い町。①歴史の重層構造、②都市の消費文化と経済的背景、③文化の蓄積とその拡大生産、④政治・経済・外交の活動があった町。このような特徴を有する町はそう多くはない。江戸と京都と長崎か。
そこに、吉原があり島原があり丸山があったのは決して偶然ではあるまい。




長崎奉行の本拠地、現長崎歴史文化博物館。ここで吾輩は300円で入館した。雨で観客が少なっかので、無謀にも受付嬢に、特段の約束もないが館長がおられたら表敬したいといった。てっきり市川森一氏化と思ったら別人の館長さんで大変ばつが悪かった。名刺交換し雑談。市川氏は二年前逝去。現館長は大学の先生から博物館協会の理事をしておられるようで、いまの「八重の桜」に関し、会津人の「ならぬものはならぬ」本を書いておられるとか。・・・恥ずかしかった。

 眼鏡橋を越えて、例の本でてくる1808年の「長崎奉行 松平図書頭 イギリス船フェートン号事件の責任をとって、切腹」のお墓、を大音寺に尋ねました。開国の50年前だ。優秀な幕府官僚だったのだ。






近くには、崇福寺(中国のお寺)を見るが、何しろ、その先は思案橋・丸山の色街もあり、・・・・・