江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

浅草サンバカーニバル

2013年08月31日 21時03分29秒 | タウンウォッチング
8月31日、東京は35度cの酷暑。無茶苦茶暑い。

浅草では恒例の第32回サンバカーニバルがあった。ブラジルのリオのカーニバルを真似たもので、高円寺の阿波踊りより、インターナショナルか。でも両者とも真似の精神は同じ。いかに地域の活性化を図るか、東京人は独自の文化を作り上げたいのだ。ええやんか。
 35.3度cの暑さの中で19チーム、4700人を動員とか。沿道には50万人とか、どうやって数えるのかな?とにかく暑い中で多量の人が汗水たらして見物している、その迫力はすごいものだ。熱中症にならぬようにと主催者は行っているが、それだけの人が集まるのは、つまり熱中している症状だ。いかが?ええがなええがな。




















サンバはサンバだが、浅草の裏町、いや表街にはこんな楽しい絵があったよ。

日本駄エ門の雄姿。


これは鼠小僧次郎吉か。


江戸の棒天売を復活させようとしている。子供連れのお母さんに担がせてみるが、無理のようだ。猛暑のなか御苦労さん。えらい。

生麦事件

2013年08月27日 16時08分31秒 | 歴史を旅する
根岸線で大船まで行き、湘南モノレールで湘南江ノ島で常立寺・滝口寺を見た後、江ノ電で鎌倉に出た。実に久しぶりに鎌倉の材木座海岸へ小旅行だ。





鎌倉からバスに乗って金沢八景まで。昔はこの辺り車で何度も行ったことがあるが、歩いて朝比奈切通しを通り抜けたこともある。滑川沿いに浄妙寺、青砥橋、十二所、鎌倉霊園前をバスで行くセンチメンタルジャーニーみたいだ。

金沢八景から京浜急行で横浜まで。ここで各駅に乗り換え、ついに生麦駅までやってきた。
生麦駅の南に国道1号線(東海道)のバイパス国道15号線が走り、その南に、旧東海道が道幅6間=10.8mの昔の形を残して眠ったような住宅街を走っていた。

住宅街の家屋沿いに、生麦事件発生の地の標識があった。生麦事件といっても、いまは教科書で触れるぐらいだろうが、薩英戦争の原因であり、それに惨敗した薩摩が急速に兵力の近代化を図り、倒幕へ、そして明治維新へと走る歴史のターニングポイントの事件である。


そこを西に、キリンビールの工場沿いの旧東海道沿いに、生麦事件の碑があった。


生麦事件は旧東海道上で横浜居留地の英国人4人が薩摩の大名行列の前を馬に乗って横切った無礼で切られた事件だが、一人は死に、他の3人は神奈川宿まで約3km傷を負ったまま逃げたとか。神奈川宿に米国領事館があった。

藤沢市 常立寺

2013年08月24日 17時50分34秒 | Weblog
1、第1次蒙古来襲=1274年文永の役は、元の強襲偵察のような感じがする。初めての異敵に「やあやあ我こそは・・・」という歌舞伎みたいな対応で、相当の被害を出したが。勇猛果敢な攻撃で元軍の司令官一人が討ち死にしたことや、台風で多くが水死したこともあって、引き上げた。
2、翌1275年、建治元年4月、元の国史・杜世忠ら5人が国書をもって降伏勧告。
これに対し、国内で色々の政治対応があったのち、執権北条時宗は国史5人を滝の口の刑場で処刑。この5人は常立寺で埋葬され5輪の塔がたてられた。
その後、1281年弘安4年、第2次元寇。第1次元寇の教訓から、元寇の防塁が大いに役に立ったみたい。日本のゲリラ戦法や日本の土地を利用した戦法や夜襲は、元軍を悩ませ、上陸守備地を築くことができず、夜は船に帰らざるをえなかったところへ、神風が吹いたということである。あの鷹島沖で数万の兵が海の藻屑に果てたのだ。





3、大正14年に顕彰碑が建てられた。




平成17年以来、モンゴル出身の朝青竜や白鵬ら幕内力士が訪問。モンゴルの英雄の青マフラーを5輪の塔にかけて供養した。平成20年にはモンゴル大統領も訪問した。


4、常立寺は鎌倉幕府の滝の口刑場での処刑者埋葬のための寺であった。



5、日蓮も、このころ、異国の侵攻の恐れとその対応を説いていたところ、風説流布の罪で、ここで処刑されるところであったが、僧侶には死罪がない、幕府の評定衆の判決がないまま、斬首実行されそうになっていたが、幕府から中止命令が追いかけていたとか。
突然雷が鳴ったとか、いろいろあるが、結局日蓮は佐渡へ遠島されている。

6、その後、日蓮の法難の地、滝の口刑場跡に、弟子により滝口寺がたてられ、紆余曲折があって、今日に至っているとか。きれいな心落ち着くお寺だ。











8月22日 両国散歩

2013年08月22日 15時35分21秒 | Weblog
両国の回向院の前で、若いお相撲さんに出会った。稽古が終わった後の散歩か買い物か。後ろが回向院。



彼は成長株、9月場所に優勝するかもと。名前は聞かなかったが。


回向院の先に両国花火資料館があった。


尺玉(30cm)が普通だが、2尺玉(60cm)の見本があった。600mぐらいに花火が広がるから、隅田川花火では尺玉が限度だって。


ちなみに長崎の大波止にある「鉄砲玉」はこの大きさの鉄の球だ。でも発砲した形跡も。発射の大砲筒も存在しないが。

鍵屋15代目の女社長・花火師。柔道の審判を務める有名人であるよし。玉屋は鍵屋ののれん分けのようだが、将軍日光参詣のときに失火して、江戸所払になって消滅したとか。


両国は「ももんじゃや」で山鯨を食べに行きました。おいしかったよ。




腹が膨れたら、本所松坂町の吉良邸討ち入りに行きました。


首洗い井戸だけ残る。


最後は勝海舟生誕地


そして芥川龍之介文学碑。この辺で育った江戸幕府の下級役人、退屈御家人だろうかね。









8月16日 靖国神社

2013年08月16日 07時55分22秒 | Weblog
8月15日が終わって16日の靖国神社は、いつもの静謐を取り戻していた。







15日全国戦没者追悼会が行われた 日本武道館は今日はお休み。
明日17日は 吉川晃司のロックバンド の看板がもう掲げられている。
  戦後68年、日本は平和を満喫している。

お盆は、12日の迎え日から、今日16日は、お盆の送り火の日。

京都五山の大文字焼とか、長崎の精霊舟とか。

8月11日、お盆の前の東京・酷暑なのに

2013年08月11日 13時18分37秒 | Weblog
酷暑なのに、また国立でマスター陸上選手権をやっている。きっとモスクワの世界陸上を意識しているのだろうな?





気温37度c。フェンスのアルミの手すりを無意識に触って、オー・ノー吾輩火傷したよ。
選手も出番の前は日陰で涼んでいた。


次に代々木の野外公会堂。今日はさすが「よさこい踊り」グループは高知へ出張中だろうな。
NHK・アマちゃんの AKBグループ?みたいなのが歌っていたよ。追っかけのおじさんもいるね。カワユイね。





御徒町にはアマちゃんのセットの大スクリーンがあったよ。


代々木公園では暑いのにアセアン・フェステイバルもやっていた。



代々木体育館の後ろでは「夏の高校フットサル大会」をやっていた。





渋谷の街では暑いのに、ウェデイングドレスの店の前で、モデル撮影会




こういう吾輩は、本日17時からテニス。決してまともじゃないね。


武雄温泉

2013年08月10日 12時12分11秒 | Weblog


楼門と武雄温泉新館は,東京駅や日銀設計のあの辰野金吾(佐賀県出身)の設計になるもので、国の重要文化財とか。(この楼門は現在修理中で、足場で覆われており、写真のような雄姿は見られなかったが…)

共同浴場であるが、鍋島氏専用の浴場であった施設も存在し殿様湯とか。


開湯は約1200年前である。伝説によると神功皇后が凱旋の途、太刀の柄(つか)で一突きしたところ、湯が湧き出たと言われ昔は柄崎温泉と呼ばれていた。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、負傷兵士の湯治場として利用したといわれる。


 アルカリ性の軽いさらさらしたいい湯だった。ただ忙しかったので「カラスの行水」みたいで残念であったが。

 江戸時代は長崎街道の宿場町柄崎としても栄え、幕末には長崎を往来した勤皇志士や文人らが盛んにこの湯を訪れたという。
佐賀藩城主の鍋島氏、江戸時代初期には伊達政宗、宮本武蔵が、また幕末にはシーボルト、吉田松陰らが入湯したといわれる。
 今でもシーボルトの湯といわれるそうな。


長崎街道は、小倉から223km23宿長崎までの街道。幕末の文明・人物・文物がが行き来し当時の貴重品砂糖を送ったところから、シュガー街道といわれ、沿道には砂糖を使った饅頭とかの店が多いとか。

東海道や中山道と同様、車で走破を考えたが、小倉から鳥栖や佐賀まで市街化が進み昔の趣は全然ないから吾輩はあきらめた。しかしいつかは長崎の手前の矢上宿など幕末の気分を味わいたいと思っている。

歴史を旅する・・北九州 その6

2013年08月06日 12時01分19秒 | Weblog
1592年 文禄の役  豊臣秀吉 諸将をして朝鮮に出兵せしむ。
1597年 慶長の役  秀吉 再び朝鮮に出兵せしむ。
    翌慶長3年3月、醍醐の花見、8月秀吉死亡。外征の諸将を召還。













暑い中、名護屋城跡に登り、城跡を1周。
名護屋城は秀吉の命で黒田官兵衛など九州の諸大名が1年半で築城したもので、大阪城に次ぐ大きさ。その昔、神功皇后(実際は存在せず)がこの地「呼子の浜」から朝鮮出征した故地で、出征するのに最適の地であろう。
 色々の記録では多くの大名が近くに配置している地図を不思議に思っていたが、現地に行くとすぐ分かった。ここは、名護屋城の城下町なのである。各武将は、安土城における信長の大名屋敷跡と同じく、天下人秀吉の家来がみんなこの城下に住んでいたという訳である。わずか2年ほどの内に、何もない地に、人口十万人の大都市が誕生したのだ。
 実際朝鮮に渡った実戦部隊の兵士数十万人がどこにいたかは不明だが。

 名護屋城本丸跡からは、天然の良港 呼子 を一望、さらに壱岐の島まで見える。

ここに句碑があった。「太閤が 睨みし海の 霞かな」と大正のころの何とか言う人の句だが・・・

名護屋城は、秀吉の死後廃城となり、徳川の時代になって1国1城令と島原の乱の懸念から石垣なども一部取り壊された。1608年名護屋城の用材は唐津城に転用された。



唐津城主は秀吉の腹心寺沢広高で、1595年から唐津城主に報じられている。
 なお、寺沢広高は、1592年、秀吉のバテレン追放令で直轄地となった長崎の最初の奉行を命じられているから、秀吉の優秀な官僚であろう。
 
しかし、その後徳川の時代になると、唐津城主は改易され、以後多くの大名が交替して城主となる。

 小さいが大阪城並みに美しい城だ。右後ろには、寺沢広高が植林したという 虹の松原があり、現在は特別名勝となっている。




歴史を旅する・・北九州 その5

2013年08月04日 19時39分43秒 | Weblog
1274年 文永の役  元軍、対馬・壱岐を侵し、ついで肥前・筑前に上陸。一夜暴風雨で敵船沈没、逃走。

1281年 弘安の役  元軍10万高麗軍とともに来襲。筑前・長門を侵す。大風おこり敵船ことごとく沈没。







これが今津浜にある第2次元寇防衛の防塁跡。
長い年月のあと、松林の中に埋もれている。博多市内にほんの少し残っているとか。




博多が当然攻略目標であるが、戦略的には東松浦半島の西にある鷹島という松浦水軍の基地がある島が、第1次元寇も、第2次元寇も最初に狙われ、元軍艦隊襲結の地となった。理由は松浦水軍を叩かないと制海権を確保できないからと、中国沿岸等が倭寇に侵攻されていたからその恨みから倭寇の本拠地を特に狙ったとか。

そして、1次・2次軍ともこの水域で多量に終結し、多量に沈没することとなった。

元軍の最高司令官の印


元の沈没船の碇


元寇の理由の可能性


この鷹島の沖で、数万の元・高句麗軍船・兵が沈んだ。そこを、いま琉球大学を中心に水中考古学といって、水中で過去の軍船を引き上げようとしている。


鷹島の役場にある、元寇記念碑


吾輩は唐津の虹の松原のホテルから車で行ったが、鷹島は長崎県松浦市の所管で、最近は橋ができたから東松浦半島から簡単に行けるが、昔は松浦から船で行くしかなかったみたい。

でもこれほどの潜在的観光資源を世に知らせないのはもったいないねと、役場職員らしき博物館の責任者に言っておいたよ。




歴史を旅する・・北九州 その4

2013年08月04日 06時52分30秒 | Weblog
邪馬台国九州説の擬するひとつが吉野ヶ里。




ここに卑弥呼がいた、というのが魏志倭人伝の一番素直な理解だろう。
この場合、南の句奴国が、岩戸山古墳の八女古墳群の地域で、





卑弥呼の登場と死亡は倭国大乱の前後に句奴国に敗れたためとも考えうる。

その句奴国の約250年の末裔が磐井の乱の主体筑紫の国造磐井の君である。
このころは大和朝廷の勢力が拡大し、この反乱で九州も完全に支配下に置かれた歴史の転換点とも考えられる。

一方、おなじく邪馬台国九州説でも伊都国とする方がより合理的と思える。何しろクニとしての発展段階と位置、遺跡の内容が極めて有利。律令国家の時代も継続している。
 この場合、ヤマトの纏向の地へ、東征したのか?ここが根本問題。





ちなみに
 伊都国・・・・前原
 奴国・・・・・博多
 末廬国・・・・唐津
 壱支国・・・・壱岐の島郷ノ浦
 句奴国・・・・熊本、菊池郡、球磨郡か
 邪馬台国   ???????

歴史を旅する・・北九州 その3

2013年08月04日 00時05分01秒 | Weblog
1、倭国大乱(魏志倭人伝のいう)と邪馬台国九州か近畿か。その背景の根幹は、
①緊迫した国際情勢に対応した混乱
②北九州勢力が東方への進出圧力の摩擦
③鉄資源争奪戦争
2、①説:30ケ国近い西日本のクニグニが連合の首長として卑弥呼を女王にし、その結果、騒乱が収まった。
この政治連合がヤマト王権で倭国。この特徴は前方後円墳を持つ。卑弥呼の死とともに、ヤマト政権に拡大。
ここでは、複数の有力集団から交代で王権につくという形。
卑弥呼に対立していた東方の狗奴国とは、濃尾平野にあったクニであろうが、卑弥呼の死の後、ヤマト王権の倭国連合に服属。
 前方後円墳とその埋葬方法は、吉備の国・阿波のクニのそれに近い。吉備の国がヤマト王権のリーダーシップをとったのでないか。
なぜなら、西日本のクニグニは、ヤマト王権を作らざるを得なかった。当時、大陸では黄巾の乱・北方民族の侵略で後漢が急速に衰退。その結果、倭国の大陸文化受容の窓口であり、近隣諸国から頭一つ抜きんでていた伊都国が失墜。大陸交易の均衡が崩れ、倭国は大混乱に陥った。(これは鉄の争奪の結果でない。なぜなら北九州は鉄器の出土が圧倒的に多い。)
 後漢の衰退に乗じて、南満州の公孫氏が朝鮮に侵攻、東アジアの政治地図、朝鮮半島の権益が激変。ヤマトのクニグニは団結の必要があった。(古代の明治維新説)

 ヤマト王権とは邪馬台国盟主の王権とは全く別の人工的新政権である。
弥生式集落を一切有しない纏向遺跡が突如前方後円墳の根拠地となったのは、西日本のクニグニによって、倭国の王権の都市として建設された新しい都市で、運河を作り短期間で近畿・吉備・山陰・東海から人々が終結したもの。
 ちなみに、卑弥呼はたまたま纏向にいた「邪馬台=ヤマト」といわれる地にいた妖術を使う女で、ある日突然、倭国女王に祭り上げられた。彼女は倭国女王であるが、その都は邪馬台にあるだけで、それも通常のクニかどうかも疑わしい。親魏倭王・倭の女王であるが、邪馬台国の女王とは記していない。
②説
 伊都国を中心とする倭国が北部九州で形成され、それが2世紀末に奈良の纏向遺跡の地に移って邪馬台国となった。(邪馬台国東遷説)
吉野ヶ里遺跡の規模の集落は九州ではいくつもあり、ただ発掘されていないだけ。決め手は中国製の銅鏡のあるなしで吉野ヶ里にはそれがないが伊都国跡にはそれが大量にかつ極めて大きいのがある。
3世紀に出現した前方後円墳は、①形状、②竪穴式石槨(石の囲い)、③割り竹形木棺、④副葬の銅鏡の特徴があり、①②は吉備、東瀬戸内の特徴③④は伊都国の特徴。
 卑弥呼の130年前、107年後漢書に記載の倭の国王帥升とは、伊都国の王で、紀元前1世紀から王家のあった伊都国はたびたび東方進出を図っていた。
伊都国中心の北部九州は倭国の大乱にも勝利した。なぜなら圧倒的に鉄器の出土が多い。
伊都国最後の女王が死にその権威は纏向の卑弥呼に引き継がれた。破砕鏡の儀礼も引き継がれた。
 伊都国も奴国も弥生時代前期から古墳時代まで継続して栄えているが、近畿では唐古・鍵遺跡も、池上曽根遺跡も弥生時代で終焉しているが、これはおかしい。


歴史を旅する・・北九州 その2

2013年08月02日 17時27分18秒 | 歴史を旅する
大宰府 水城跡






590年頃、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇を競っていた。日本では推古天皇、摂政聖徳太子の時代。
 618年には唐の建国。621年新羅はいち早く唐に朝貢。644年に唐は高句麗遠征。
663年唐の攻撃で百済が滅ぶ。この際、大和朝廷は百済を援けて唐・新羅連合軍と白村江の戦いで大敗。ここで半島の利権を放棄することになる。
 一方、唐の復讐を恐れた朝廷は、大宰府の博多湾寄りに全長約1.2kmの防御壁=水城を築いた。
水城は高さ約9m、基底部の幅約77mの2段式の土塁で、外側には60mの濠があった。水城内側に、大宰府を守る山城として、大野城・基肆城が築かれた。
 しかし、唐の攻撃がおこわれなかったため。これら施設は使われることなく、歴史のなかに消えていったが、現在、水城の一部と、大野城の石垣の一部が残るのみ。
 吾輩は、大宰府の政庁跡の裏を車で行き、大野城の跡を追跡したが、何しろ410mほどの四天王寺山の頂上あたりに総延長6.5kmのうち数10mの石垣跡が残っているとのことであり、酷暑の中、歩いて登る体力なくあきらめたが返す返す残念。






大宰府の政庁はその後、菅原道真、藤原伊周、藤原広嗣などの左遷の舞台と、藤原の広嗣の乱での混乱もあったが、1153年平清盛が太宰大弐のとき、平氏政権の基盤としての日宋貿易を進める意図から、政治的中心地は20km北の博多の地に移ることとなった。
 しかし大宰府政庁は元寇や南北朝の南朝方の拠点となる。

歴史を旅する・・北九州 その1

2013年08月01日 11時51分55秒 | 歴史を旅する
歴史を旅する会会長として7月29・30・31日に、初めて北九州を訪れ、いくつか見せてもらいました。

1、伊都国歴史博物館











2、吉野ヶ里遺跡









3、岩戸山古墳 ここは八女古墳群のなかにあり、527年筑紫国磐井の反乱でヤマト朝廷に滅ぼされた磐井の前方後円墳である。そこに石人が見守る法廷場所らしき跡もある。