『ヲタクにモノ申す!』3回目、たぶんこれが最終回になります。
続きです。
僕は結局何が言いたいのか。
それは人が生きる生き方についてです。
人は誰しも、自分以外の人間と、距離をもって接します。
距離が近過ぎても、遠過ぎても、なんらかのトラブルの種になります。
そして僕は思います。
「人は何をもって相手の姿を見ているのか」
本質を見極めているのか。
人は言葉によってコミュニケーションをとります。
言葉は人間にとって、非常に優秀な機能を持ったコミュニケーションツールとなりました。
しかし人はここで過ちを犯そうとしている。
『言葉は万能じゃないんです』
人は今、言葉によって、表面に現れた形によって、全ての判断を為そうとしている。
テレビやマスコミなんていい例です。
そしてそれに踊らされている大衆も。
もちろん全てがそうだとは言いません。
けれども、今目に入ってくる情報は、そういった色に埋め尽くされようとしている。
そういう大衆の作った『法』によって力の有る無しが決められている。
本当にそうでしょうか。
大切なものって、そこにあるんでしょうか。
自分にしか分からないことがある。感じられないことがある。
それを分かってくれる人がいる。
それが仲間である。
ヲタクの始まりは、本質は、そこだったのではないかと考えます。
そこにいるこいつらは、仲間だ。
世間のわけ分からない奴等とは違う。自分の知る、同じ痛みと喜びを知っている。
ではなぜヲタクと呼ばれる人間は、一時期偏見の目で見られたのか。
それは彼らが、『世間のわけ分からない奴等』を「排した」からです。
彼らが、「真摯に向き合う」ことを面倒に思ったからです。
それじゃあ、「真摯に向き合う」なんて大仰なこと言うけれど、それはどうやったらできるの?
そうヒトは思うでしょう。
人間は矛盾をはらんだ生き物です。
言葉にすると大変そうな、大真面目に考え抜いて、大変な努力を強いられなきゃ実現できないように思えること。
そんなことを成し遂げるのは、いつだって小さなひとつの行動なんです。
言ってしまえばほんの些細な、大した事ない行動が、確かに何かを変えるんです。
例えば、
朝起きた時の挨拶の仕方を変えてみた。
返事の仕方をいつもと変えた。
「ありがとう」を言う時の顔の表情を気にしてみた。
料理を作ってみた。
いつもと 違う感じの本を読んだ。
映画を観た。
写真を見た。
絵を見た。
いつもは気にも留めない、小さな物を心に留めた。
いろんな何かを、いつもとは違う『意志』で『信念』で、やってみた。
そう、日常に『意志』と『信念』の力を、ほんのちびっとすべり込ませた。
実は、本気で思うだけでも、少しずつ変わってくるんだと思います。
それだけで、確かに何かが、いや、主観としては全てが変わるんだと思います。
分からないのは、変わってしまった後だからです。
未来は、思ったらすぐに変質して予想もつかない今になるんだと思います。
人は、目に見えないし分からないけど、全てをとらえて、受け止めているんだと思います。
それが発揮されないのは、変わろうと思わないから。諦めてしまっているからです。
少しだけでいい。少しずつでいい。
変わってみませんか。
これは、自分への手紙でもあります。
続きです。
僕は結局何が言いたいのか。
それは人が生きる生き方についてです。
人は誰しも、自分以外の人間と、距離をもって接します。
距離が近過ぎても、遠過ぎても、なんらかのトラブルの種になります。
そして僕は思います。
「人は何をもって相手の姿を見ているのか」
本質を見極めているのか。
人は言葉によってコミュニケーションをとります。
言葉は人間にとって、非常に優秀な機能を持ったコミュニケーションツールとなりました。
しかし人はここで過ちを犯そうとしている。
『言葉は万能じゃないんです』
人は今、言葉によって、表面に現れた形によって、全ての判断を為そうとしている。
テレビやマスコミなんていい例です。
そしてそれに踊らされている大衆も。
もちろん全てがそうだとは言いません。
けれども、今目に入ってくる情報は、そういった色に埋め尽くされようとしている。
そういう大衆の作った『法』によって力の有る無しが決められている。
本当にそうでしょうか。
大切なものって、そこにあるんでしょうか。
自分にしか分からないことがある。感じられないことがある。
それを分かってくれる人がいる。
それが仲間である。
ヲタクの始まりは、本質は、そこだったのではないかと考えます。
そこにいるこいつらは、仲間だ。
世間のわけ分からない奴等とは違う。自分の知る、同じ痛みと喜びを知っている。
ではなぜヲタクと呼ばれる人間は、一時期偏見の目で見られたのか。
それは彼らが、『世間のわけ分からない奴等』を「排した」からです。
彼らが、「真摯に向き合う」ことを面倒に思ったからです。
それじゃあ、「真摯に向き合う」なんて大仰なこと言うけれど、それはどうやったらできるの?
そうヒトは思うでしょう。
人間は矛盾をはらんだ生き物です。
言葉にすると大変そうな、大真面目に考え抜いて、大変な努力を強いられなきゃ実現できないように思えること。
そんなことを成し遂げるのは、いつだって小さなひとつの行動なんです。
言ってしまえばほんの些細な、大した事ない行動が、確かに何かを変えるんです。
例えば、
朝起きた時の挨拶の仕方を変えてみた。
返事の仕方をいつもと変えた。
「ありがとう」を言う時の顔の表情を気にしてみた。
料理を作ってみた。
いつもと 違う感じの本を読んだ。
映画を観た。
写真を見た。
絵を見た。
いつもは気にも留めない、小さな物を心に留めた。
いろんな何かを、いつもとは違う『意志』で『信念』で、やってみた。
そう、日常に『意志』と『信念』の力を、ほんのちびっとすべり込ませた。
実は、本気で思うだけでも、少しずつ変わってくるんだと思います。
それだけで、確かに何かが、いや、主観としては全てが変わるんだと思います。
分からないのは、変わってしまった後だからです。
未来は、思ったらすぐに変質して予想もつかない今になるんだと思います。
人は、目に見えないし分からないけど、全てをとらえて、受け止めているんだと思います。
それが発揮されないのは、変わろうと思わないから。諦めてしまっているからです。
少しだけでいい。少しずつでいい。
変わってみませんか。
これは、自分への手紙でもあります。