おっちーの鉛筆カミカミ

演劇モノづくり大好きおっちーのブログです
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そのうち、みなさんにお目にかかれたらうれしいです

ヲタクにモノ申す!(3)

2009年02月09日 22時00分12秒 | 気づき
 『ヲタクにモノ申す!』3回目、たぶんこれが最終回になります。
 続きです。

 僕は結局何が言いたいのか。
 それは人が生きる生き方についてです。

 人は誰しも、自分以外の人間と、距離をもって接します。
 距離が近過ぎても、遠過ぎても、なんらかのトラブルの種になります。

 そして僕は思います。
「人は何をもって相手の姿を見ているのか」
 本質を見極めているのか。

 人は言葉によってコミュニケーションをとります。
 言葉は人間にとって、非常に優秀な機能を持ったコミュニケーションツールとなりました。

 しかし人はここで過ちを犯そうとしている。

言葉は万能じゃないんです

 人は今、言葉によって、表面に現れた形によって、全ての判断を為そうとしている。
 テレビやマスコミなんていい例です。
 そしてそれに踊らされている大衆も。

 もちろん全てがそうだとは言いません。
 けれども、今目に入ってくる情報は、そういった色に埋め尽くされようとしている。
 そういう大衆の作った『法』によって力の有る無しが決められている。

 本当にそうでしょうか。
 大切なものって、そこにあるんでしょうか。


 自分にしか分からないことがある。感じられないことがある。
 それを分かってくれる人がいる。
 それが仲間である。

 ヲタクの始まりは、本質は、そこだったのではないかと考えます。
 そこにいるこいつらは、仲間だ。
 世間のわけ分からない奴等とは違う。自分の知る、同じ痛みと喜びを知っている。


 ではなぜヲタクと呼ばれる人間は、一時期偏見の目で見られたのか。

 それは彼らが、『世間のわけ分からない奴等』を「排した」からです。

 彼らが、「真摯に向き合う」ことを面倒に思ったからです。


 それじゃあ、「真摯に向き合う」なんて大仰なこと言うけれど、それはどうやったらできるの?

 そうヒトは思うでしょう。

 人間は矛盾をはらんだ生き物です。
 言葉にすると大変そうな、大真面目に考え抜いて、大変な努力を強いられなきゃ実現できないように思えること。
 そんなことを成し遂げるのは、いつだって小さなひとつの行動なんです。
 言ってしまえばほんの些細な、大した事ない行動が、確かに何かを変えるんです。

 例えば、

 朝起きた時の挨拶の仕方を変えてみた。
 返事の仕方をいつもと変えた。
 「ありがとう」を言う時の顔の表情を気にしてみた。
 料理を作ってみた。

 いつもと 違う感じの本を読んだ。
 映画を観た。
 写真を見た。
 絵を見た。
 いつもは気にも留めない、小さな物を心に留めた。

 いろんな何かを、いつもとは違う『意志』で『信念』で、やってみた。

 そう、日常に『意志』と『信念』の力を、ほんのちびっとすべり込ませた。
 実は、本気で思うだけでも、少しずつ変わってくるんだと思います。


 それだけで、確かに何かが、いや、主観としては全てが変わるんだと思います。
 分からないのは、変わってしまった後だからです。
 未来は、思ったらすぐに変質して予想もつかない今になるんだと思います。


 人は、目に見えないし分からないけど、全てをとらえて、受け止めているんだと思います。
 それが発揮されないのは、変わろうと思わないから。諦めてしまっているからです。

 少しだけでいい。少しずつでいい。
 変わってみませんか。

 これは、自分への手紙でもあります。

ヲタクにモノ申す!(2)

2009年02月09日 02時18分02秒 | 気づき
 さて、ようやく続きであります。

 そもそも、どうして僕がこんな内容の記事を書こうと考えたのか?
 そのことについて少し。

 僕は、『ブックマーク』にも入ってますが声優の国府田マリ子さんのファンです。(以前は林原めぐみさんのファンとも言った憶えがありますが、気持ちの内容は違いますが僕はどちらのファンでもあります)
 昨年ファンクラブにも入りました。毎日彼女のブログも覗いています。

 そのことをまず前提として憶えておいていただいて、また別の話になります。

 今YouTubeを検索してきました。
 何を捜していたのか?
 僕がこの前の記事、『ヲタクにモノ申す(1)』を書く直前に見つけた音声ファイルをもう一度聞いておきたいと思い、それを検索していたのです。
 それはどんな内容のものだったかというと、とあるラジオの男性ナビゲーター(ごめんなさい、名前忘れてしまった……)が、今のいわゆる「声優アイドル」たちがそれぞれ持っているラジオ番組に対する、彼女たちの「取り組み方」というか、「心構え?」みたいなものに意見している、という内容でした。
 それを今までずっと捜していたのですが、見つからないのです。
 もうネット上から削除されてしまったのかもしれない。
 僕のように、聴いた方々からの反響(クレーム)があったのかもしれません。

 そういうわけで、この記事を書く前に出発点であったその音声を確認しておこうという目論見は、崩れました。
 これからは、仕方なく記憶だけを頼りにこの記事を書こうと思います。

 その男性ラジオナビゲーターの意見はこういったものです(あくまで僕の受け取り方に過ぎませんが)。

「林原めぐみや、国府田マリ子、小森まなみといった声優たちがラジオ番組を持っているが、彼女たちが、吹き替えの、アニメ声のままでラジオの番組を進行していることに、自分は嫌悪感を持つ」

 まあこれは、個人の好みであるし、この男性はラジオのパーソナリティーとして活躍されている方なわけで、この職業に対する考え方も深く強いものがあると推察されます。
 だから、理解できるのです。
 彼女たちは本当にアニメの声のままでパーソナリティー業を行っているのか?という点については少し問題が残るとは思いますが。
 まあそれは個人の見方、感じ方です。
 これはよいとしましょう。
 僕が興味を持ったのは、彼がその後ぼそっと述べた言葉でした。

「彼らは、人生の、一部分しか見ようとしない」

 こんなことをおっしゃったのです。

 ごめんなさい、先に謝っておきます。
 この言葉は彼が述べた言葉を正確に写したものではありません。
 正確なものとして再確認する為に僕は冒頭の通り1度聞いたこの音声ファイルをネット上で捜し回りました。もう1度聞きたかったのです。
 しかしそれは見つかりませんでした。
 だから、語弊がある可能性があります。
 僕はこれ以降の文章で、彼が何を言いたかったのか、それを考察していきます。
 しかしそれはあくまで僕なりのものです。
 僕が彼の言葉から受け取った感覚を、僕なりに消化した結果をここに記します。
 そういった今回の僕の文章に対する理解を、筆者から読者の皆さまに、よろしくお願いいたします。

 さて、
「人間が生きる上での一部分しか見ようとしない」
 そんなことを彼はチラリと漏らしたわけなんですが、このことに関して、みなさんはどうお考えですか?
「人が、自分の人生を生きる間、見たくないものからは目を逸らして、生活する」
 もしくは、
「楽しいことしか、見ない」
 こういった生き方をする人々、確かに存在するといわれています。
 特に彼の言い方からは、いわゆる(やっとここで出てきた!)『ヲタク』、と呼ばれる方々にそういった人間が多い、ということが感じ取れる。
 そして、彼以外にもそんな捉え方をされている方は数多く存在すると、僕は考えます。

 しかし、そんな生き方って本当に可能でしょうか。そう僕は思いました。

 嫌なことに目をつむる。
 そんな経験は、多かれ少なかれ人間にはあることでしょう。
 苦しい経験過ぎて、とても直視できない。
 それも同じです。
 しかし、僕らはその時、本当に嫌なことから逃げているのか。

『嫌なことの本質を理解することを、さぼっている』

 そんな言い方がいちばん妥当であるかもしれません。
 そう思います。
 僕らは時どき、「真摯に向き合う」ことを面倒に思うところがあります。
 なににってあらゆることに。

 向き合うことを面倒がってしないでいるとどうなるか。
 いつか、また同質の壁にぶち当たることになります。
 同じ道をぐるぐる回って先に進めないということがあります。
 そうなります。

 別にそんな生き方も悪くないと思うんです。
 誰も責められない種類の事だと思うんです。

 人は苦しみを背負って生きてゆきます。
 別にそのことに酔っているわけでもなく、それは事実です。
 ただし同じように喜びや、幸せも、同じように背負って生きてるのだと思います。
 どれが重いということはない。それらは本来同じ重さなのです。
 しかし人によって、それぞれの重さを全く感じなかったり、逆にその重さに潰れてしまいそうになる方もいる。
 これは何故なんでしょうか。
 もって生まれた性分なのでしょうか。

 話が逸れました。戻します。

   *  *  *

 ……と、いうところで話が長くなってきたので以降は次回に持ち越し~
 とします。

 ではでは。