第1章 出逢って初めて(3)
男はひとしきり暴れた後、ようやく諦めたのか身体から力を抜いた。
無理ヤリ開かれた手から、マジックペンがカシャリと落ちる。
男はその状況でも、絵をジッと睨み付けていた。
「来なさい、話を聞きます」
そう言われると男は虚空を見詰めた。そして一瞬だけ作品に目をやったあと、地面を凝視して、
「何ひとつ、僕の思い通りになるものは無いんだな……」
確かにそう言った。
小さな呟きだったが、慎平の耳にははっきりとそう聞こえた。
それは慎平にも後になってわかること。それは男の魂からの悲痛な叫びだった。
男は2人の警備員に両脇を抱えられ、その場から消えた。
「あなたは今の人物と関係が……?」
事件の間中ボーッと事の成り行きを眺めていた慎平は、警備員の中の1人に声を掛けられた。彼は初老といっていい位の年齢に見える。
「いや全く……! 一般客です」
「そうですか……失礼致しました」
「いえ」
「きっと不愉快な気分になられたことでしょう。お詫び申し上げます」
「そんな!……御丁寧に、すみません」
「いえ……では、失礼します」
慎平はその警備員に挨拶を返し、独りその場に取り残された。
平日の昼間なので他に客もいない。
車のエンジン音、子供の歓声――そんな音たちが遠くで鳴っていることに慎平は気付く。
フッと気を失いそうになる。
しかしすぐに正気に返り、
「今ので疲れたかな」
毒気に当たったか?
慎平はそう思いながら、
「帰るか」
という決断をした。しかし、まだ見ていない作品の前を通るとやはり気になり、いちおう見ようとはしてみる。
けれども頭の中には何も入ってこない。
夜、疲れた大学からの帰り、バスの中から見える風景は流れるだけで頭には入ってこないだろう? あんな感じに近い。
ただ見てるだけ。これじゃ時間の無駄だ。
潔く諦めよう。
気分変えよう。次つぎ!
慎平は美術館の扉を押し開け、そこを去ろうとした。
すると、ぽつりと雫が頭に落ちたのを感じる。
「雨か……?」
梅雨の始まりだ。
慎平はジャケットのフードを被り、小走りで家路を急いだ。
走れば15分程で家に着くが……ビニル傘をコンビニで買っていくか。
コンビニを出て、傘をさして道を歩く。
ボツボツ、ボツボツボツッ……
傘に雨の滴が当たって音がする。雨粒が大きいのだ。いよいよ本降りだ。
道の途中で、不意に家に着くのが待ち遠しく感じられた。早く。椅子に座って温かい珈琲が飲みたい。
梅雨の始まりは春の終わり。まだその日の空気は冷たかった。