おっちーの鉛筆カミカミ

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走レヨ、ナツ。

2015年09月11日 01時58分54秒 | 小説・短編つれづれ
 ここからすっ飛んで行けばよかった。そう心の中で思ったがもう時既に遅し。彼奴は、あっちの世界へ行ってしまった。私の手の届かない所へ。
 もう、奴には二度と会えない。そう認識すると、軽く涙腺が潤んだ。でも、顔の表情を引き締めて、感情を外には出さないようにする。せめてもの、奴への弔いだ。そしてそれは、これから始まる戦いへの序章。それに気付いた時、私は此処ではない何処かへ飛んでいた。
 夏は好きな時間である。夏美とか夏子とか、そんな名前にして欲しかった。そう両親に対して、口には出さないが、思った事がある。そんなくらいに。
 確かに暑いが、それは気にならないと思えば、気にはならない。汗で肌がベトベトになるのも、冬カサカサになるのに比べれば、私にとっては、肌の健康に好く思える。
 私の名前は、両親により、未智とつけられた。もう、二十八年も前の話だ。私はいつも、未知との遭遇を思い出す。いや、夏の話をしておったのに、全くそれと関わりが無い。申し訳ないので、話を本題に戻す。あや、そもそもこの話の本題とはなんだ。それすらも自覚しておらなんだ。いや、そう、今の季節は夏であった。
 未智は、逆上がりの練習をしていた。そう、鉄棒の逆上がりである。この糞暑い中、未智は汗水垂らして、地味でありながらキツイ運動をしていた。
 勿論スカートではない。ショートパンツであった。それでも角度によっては際どく見えてしまうんではないかと、隣りに居合わせたおっさんとかはドギマギしたものである。
 何故に今更逆上がりなのか。未智、幼少時代のトラウマであった。出来ずに苛められた。何度やっても、いくら練習しても出来なかった。今から考えると、指導者に才能がなかったのだ。しかし当時としては、全ての責任はプレイヤーにあった。そして囃し立てられ、罵られる。軽く好きだった男子も交じっていたりして、落ち込み、未智のトラウマっぷりに拍車が掛かった。
 私のせいじゃないもん。未智はとうとう諦めた。二十年にわたる因縁のワンプレイに、結局最後まで決着をつけないまま、未智はこの事実を置き去りにする。今村未智は、鉄棒逆上がり出来ません。そこに言い訳はしないけれども、そのままにすることを、自分には出来ない芸当であることを、未智は認め、結局の所要するに諦めることにしたのであった。
 何でこんなこと始めたんだっけ。未智は思い返した。勿論トラウマの打破。それもあったが、そもそもの理由は、汗で涙を隠そうとした。大量の汗で、大量に瞳から流れ落ちる涙を、どうでもいいものとしようとしたのがその切っ掛けだった。私は一人だ。私の人生は、最初から、最後まで独りっ切りだった。束の間のあいだ、二人で歩んでいる。そう天に感謝したが、それは幻だった。今となっては。
 そろそろ家族がいる病院に戻ろう。現実を現実と認めなければ先に進めない。この先を生きてはいけない。
 私は、一人だ。そんな当たり前のことを見失うほど、私は幸せだったのだ。
 けれどそんなに、神様は依怙贔屓というものをしてくれないらしい。運命の天秤は、いつかバランスを崩す。飛び乗ったバランスボールからは、いつか落ちる。
 当たり前のことだ。
 未智は、シャワーを浴びたかった。せめて自分を清めて、彼と再会しよう。もう話すことも出来ない、彼の抜け殻と。
 奴のせいで、またこの鉄棒と再びお友達になるかも知れない。それは奴のせいだ。私のせいじゃない。
 色んな事を繰り返して、私はまた前を向けるのだろうか。今回ばかりは、無理な気がする。
 でも私は、神様を信じてはいる。
「どうにかなるか」
 今までずっと黙していたのに、その一言だけが、口を突いて出た。
 未智の口元に、少しだけ笑みが浮かんだ。
 神様は、まっこと意地悪だ。

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