前回の記事で「更に毛利氏と秀吉が連携して口車を合わせ」と書いた部分ですが、正しくは「更に毛利氏と秀吉が連携して口裏を合わせ」ですので訂正となります。
ところで以前の記事でも書いたのですが、秀吉による毛利攻めは特に鳥取城攻めとそれ以降、毛利氏と既に癒着している兆候が見受けられます。
その一つは鳥取城攻めは兵糧攻めで「鳥取の渇え殺し」と言われてはいますが、武力による軍事衝突は起きていません。
犠牲になったのも鳥取城に逃げ込んだ農民などが殆どで、武人で落命したのは城主の吉川経家ら僅かに過ぎません。
その吉川経家でさえも秀吉が助命しよとしたのを吉川経家が自ら自刃したに過ぎません。
そして備中高松城の水攻めでも特に目立つ武力衝突は起きておらず、どうもヤラセ臭い戦に思えるのです。
そして極めつけは「毛利勢が5万(『浅野家文書』による)~8万(『惟任退治記』による)」と言われている大軍を差し向けた事です。
これについての疑問点の一つは「それだけの大軍を後で動員するのなら、何でそれ以前に夜戦やゲリラ戦などで秀吉方の包囲軍を攻撃しなかったのか?」です。
もう一つの疑問点は、「それだけ目立つ大軍を秀吉方にわかるように動員すれば、当然のごとく秀吉は信長に援軍を要請するに決まっているわけで、何でそのような愚行を毛利氏が実行したのか?」です。
個人的な見方に過ぎませんが、この理由は明らかなような気がします。
それは「毛利氏が秀吉と共謀して毛利勢の大軍動員によって織田勢の援軍の必要性を演出し、信長の近辺にいた守備部隊を中国攻めに向かわせて信長のいた京都や安土から離れさせる為」、そしてその理由は「その間に信長と信忠を襲撃する為」だったのではないでしょうか。
仮説に過ぎませんが、次のようなプロセスが有り得なくもありません。
「当時の秀吉は既に毛利氏と癒着関係になっていて、それを光秀らが信長に共謀の可能性を進言し始めた。それを嗅ぎつけた秀吉と毛利氏は、信長に疑われるのを避ける為と信長襲撃を同時に考え、そして先手を打って信長に援軍要請をする状況を連携して作り出した。」
本能寺の変は発生したのはこのシナリオ通りなのか、それとも他の要因が有ったのでしょうか。
ところで以前の記事でも書いたのですが、秀吉による毛利攻めは特に鳥取城攻めとそれ以降、毛利氏と既に癒着している兆候が見受けられます。
その一つは鳥取城攻めは兵糧攻めで「鳥取の渇え殺し」と言われてはいますが、武力による軍事衝突は起きていません。
犠牲になったのも鳥取城に逃げ込んだ農民などが殆どで、武人で落命したのは城主の吉川経家ら僅かに過ぎません。
その吉川経家でさえも秀吉が助命しよとしたのを吉川経家が自ら自刃したに過ぎません。
そして備中高松城の水攻めでも特に目立つ武力衝突は起きておらず、どうもヤラセ臭い戦に思えるのです。
そして極めつけは「毛利勢が5万(『浅野家文書』による)~8万(『惟任退治記』による)」と言われている大軍を差し向けた事です。
これについての疑問点の一つは「それだけの大軍を後で動員するのなら、何でそれ以前に夜戦やゲリラ戦などで秀吉方の包囲軍を攻撃しなかったのか?」です。
もう一つの疑問点は、「それだけ目立つ大軍を秀吉方にわかるように動員すれば、当然のごとく秀吉は信長に援軍を要請するに決まっているわけで、何でそのような愚行を毛利氏が実行したのか?」です。
個人的な見方に過ぎませんが、この理由は明らかなような気がします。
それは「毛利氏が秀吉と共謀して毛利勢の大軍動員によって織田勢の援軍の必要性を演出し、信長の近辺にいた守備部隊を中国攻めに向かわせて信長のいた京都や安土から離れさせる為」、そしてその理由は「その間に信長と信忠を襲撃する為」だったのではないでしょうか。
仮説に過ぎませんが、次のようなプロセスが有り得なくもありません。
「当時の秀吉は既に毛利氏と癒着関係になっていて、それを光秀らが信長に共謀の可能性を進言し始めた。それを嗅ぎつけた秀吉と毛利氏は、信長に疑われるのを避ける為と信長襲撃を同時に考え、そして先手を打って信長に援軍要請をする状況を連携して作り出した。」
本能寺の変は発生したのはこのシナリオ通りなのか、それとも他の要因が有ったのでしょうか。