快気分析

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仕組みとアプローチ -  武田、上杉、後北条による反織田3者同盟は何故成立しなかったのか

2020-10-23 18:22:00 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 織田勢があ甲州征伐で進軍した時に土岐頼芸が甲州で見つかった事は、やはり甲州(甲斐)武田氏、上総武田氏、上総土岐氏、常陸土岐氏の連携準備の為だろと考えているのですが、それで更に北条氏、上杉氏まで同盟に巻き込む事は構想としては有ったのかも知れませんが、現実にそれは成りませんせんでした。
 考えてみるとそうなるのも無理はない要素が多々有るのでわかる範囲で書いてみたいと思います。
 まず最初に上杉氏ですが、北条氏と手を組まなかった(組むのが手遅れになった?)原因として次の事が有ったと考えています。

 上杉氏から見ると北条氏は一度結んだ同盟を1572年に破棄した事が有ったのでもう信用できないと考えていた。
 当時の北条氏は中立よりやや織田氏寄り。なので急に織田方に寝返る可能性が有る。
 当時の光秀は未だ織田方の出世頭であり光秀の土岐一族と北条氏が上総で連携している事から考えるとやはり北条氏が織田方に与する可能性が高い。

 では北条氏から見て上杉氏はどう映っていたのか、ですが次の通りのように思えます。
 北条氏から見ると上杉氏は織田勢と戦った(1577年の手取川の戦い)事も有りそこと連携すると織田方に敵対する事になるのでそれは避けておいた方が無難。
 上杉氏が跡目争いで弱体化しているので同盟しても戦力になりにくい。
 また上杉氏の内紛で一部は敵方になびく者が出て来るかも知れない。

 以上の事から北条氏もまた上杉氏には接近していなかったのかも知れません。
 そうなると武田勝頼が考えたと思われる事とは、上総の武田氏をまず戦力に組み込む事、更に里見氏に敵対する勢力として上総武田氏と同じ立場の上総土岐氏とも同盟し、更には常陸土岐氏とも同じ土岐氏と言う繋がりで同盟関係になる事。
 そして更に1572年に武田氏と再び和睦した北条氏も誘い込んで織田勢に対抗しようとしていたのではないでしょうか。
 その北条氏ですがやはりそう簡単にはこの話には乗らなかったのでしょうね。特に織田勢と敵対する程の立場では無かったし、上杉氏とは敵対していた北条氏だったので上杉攻めを継続している織田勢とは敵対する意味が無かったはずです。
 それで武田勝頼はとりあえず上総土岐氏との連携でどうにかならないのかと言う方向で動いていた。
 ところが織田勢による甲州征伐の時に、土岐頼芸が上総土岐氏である土岐頼春の所か或いは、連携を深めていた北条氏の所にいたのではなく、土岐頼芸が武田方領内で発見されたのでした。
 この事が仮に信長の耳に入っていたとしたらどうなるでしょう。
 甲州武田氏、北条(後北条)氏、上総武田氏、上総土岐氏、常陸土岐氏と言う大きな反織田グループが形成される途中だと信長が気付いたとしたら、やはり信長の「対土岐一族系警戒モード」は全開となったではないでしょうか。
 信長は「いつの間にやら土岐一族による信長包囲網が完成しつつ有った」と思ったかも知れません。
 その証拠かどうかはわかりませんが、この甲州征伐の直後に信長は明智光秀を出雲石見に国替えして京都から遠ざけようとしたり、四国の長曾我部(長曾我部信親の正妻が土岐一族系)攻めを準備したりとまるで「土岐一族系勢力狙い撃ち」のような方針に激変したように思えます。
 そうすると当然ですが、西郷局(土岐一族系)を第一側室(築山殿亡き後は実質正妻)として迎え、更に土岐一族の流れを汲む嫡男も既に生まれている家康にも目をつけ始めたのかもどうか。
 やはり信長は家康を討つつもりで安土、京都など畿内に招いたのでしょうか。
 それとも家康に長曾我部攻めに参加させて「土岐一族系同士の共食いをさせようとした」のでしょうか。
 いずれにしても家康は畿内では死ななかったのでした。
 そして普通なら土岐頼芸は発見された後に上総土岐氏あたりに戻るのが普通かと思われますが、美濃の稲葉一鉄の下で過ごす事になりました。
 やはり甲州武田、上総武田、上総土岐などの連携構想がバレたのでもう上総土岐氏の所へは戻れなかった(信長が戻さなかった?)のではないでしょうか。
 このあたりの真相は甲州で発見された土岐頼芸を引き取った稲葉一鉄あたりがかなり把握していたように思えます。
 いずれにしても福(後の春日局)が稲葉一鉄の孫であり、更に本能寺の変の後に稲葉一鉄の所に暫くいた事などから、このあたりの真相は良く聞いていたと思われます。
 詳細はどういう状況だったのでしょう。