前回記事の続きになります。
もう一つ見落としてはならないのは上杉氏の動きです。
1569年、甲州(甲斐)の武田信玄が力をつけて来た為、それまで対立関係だった後に輝虎と改名した上杉景虎と、北条氏政の間で越相同盟が成立します。
この同盟には上杉氏側の譲歩と言う面が有ったようで、このあたりを境に北条氏(後北条氏)が古河公方など関東の支配を強化して行きました。
ただその後に1572年1月、北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対するようになります。
そこへ1575年、長篠の戦いで武田勢が織田勢に大敗し多くの将兵を失った事で武田勢は衰退の一途となります。
これだけならば上杉氏と北条氏が再度対立関係になる要素も有り、これが武田氏と上杉氏の同盟が成立しない内に手遅れとなった原因の一つなのかも知れません。
1577年には織田勢と上杉勢の間で手取川の戦いが発生していますが、この時は上杉謙信がまだ健在であった事もあり上杉勢が織田勢に圧勝したのですが、その上杉謙信が1578年に病没。その後に上杉家の家督争いが発生し(御館の乱)1580年に上杉景勝が当主となってその後は多少安定しますがその力がかなり落ちていたようです。
この上杉家の内紛のあたりからどうも織田勢が上杉氏に攻勢に転じていたような感じであり、1581年には柴田勝家率いる織田勢に越中国にまで侵攻されるまでに至ります。
このような状況ならば甲州の武田勝頼は上総武田氏を軸に上総土岐氏、常陸土岐氏、北条氏だけでなく、上杉氏までもを同盟に引き入れて織田勢に対抗しようとしていたのではないでしょうか。
上総武田氏が里見氏から離反して古河公方足利義氏の傘下に入ったのは1576年。
当時は既に古河公方を含め関東をほぼ手中にした北条氏(後北条氏)が実質支配していました。
これはつまり上総武田氏と北条氏との間接的同盟、そして当時北条氏と同盟に等しい関係だった上総土岐氏、常陸土岐氏とも間接的な同盟関係となっていたわけです。
少なくとも1581年には武田勝頼が北条氏とその連携グループ、更には上杉氏との同盟を考えていた可能性は高く、そしてその協議における中心人物の一人が土岐頼芸であった可能性は十分に有ると見ています。
確かに仮に土岐頼芸が武田勝頼の下に行っていなくても、信長ならば当然の如く上杉、甲州武田、上総武田、上総土岐、常陸土岐、北条などの連携や同盟は想定していたのかも知れませんが、少なくとも言える事はこの土岐頼芸の甲州への密使らしき移動こそが当時の動きをよく表している、と言う事のように思えます。
この同盟が仮に成立し織田勢への応戦体制が出来ていたなら、武田氏の滅亡は無かったかも知れませんが、それはならずに手遅れとなりました。
もう一つ見落としてはならないのは上杉氏の動きです。
1569年、甲州(甲斐)の武田信玄が力をつけて来た為、それまで対立関係だった後に輝虎と改名した上杉景虎と、北条氏政の間で越相同盟が成立します。
この同盟には上杉氏側の譲歩と言う面が有ったようで、このあたりを境に北条氏(後北条氏)が古河公方など関東の支配を強化して行きました。
ただその後に1572年1月、北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対するようになります。
そこへ1575年、長篠の戦いで武田勢が織田勢に大敗し多くの将兵を失った事で武田勢は衰退の一途となります。
これだけならば上杉氏と北条氏が再度対立関係になる要素も有り、これが武田氏と上杉氏の同盟が成立しない内に手遅れとなった原因の一つなのかも知れません。
1577年には織田勢と上杉勢の間で手取川の戦いが発生していますが、この時は上杉謙信がまだ健在であった事もあり上杉勢が織田勢に圧勝したのですが、その上杉謙信が1578年に病没。その後に上杉家の家督争いが発生し(御館の乱)1580年に上杉景勝が当主となってその後は多少安定しますがその力がかなり落ちていたようです。
この上杉家の内紛のあたりからどうも織田勢が上杉氏に攻勢に転じていたような感じであり、1581年には柴田勝家率いる織田勢に越中国にまで侵攻されるまでに至ります。
このような状況ならば甲州の武田勝頼は上総武田氏を軸に上総土岐氏、常陸土岐氏、北条氏だけでなく、上杉氏までもを同盟に引き入れて織田勢に対抗しようとしていたのではないでしょうか。
上総武田氏が里見氏から離反して古河公方足利義氏の傘下に入ったのは1576年。
当時は既に古河公方を含め関東をほぼ手中にした北条氏(後北条氏)が実質支配していました。
これはつまり上総武田氏と北条氏との間接的同盟、そして当時北条氏と同盟に等しい関係だった上総土岐氏、常陸土岐氏とも間接的な同盟関係となっていたわけです。
少なくとも1581年には武田勝頼が北条氏とその連携グループ、更には上杉氏との同盟を考えていた可能性は高く、そしてその協議における中心人物の一人が土岐頼芸であった可能性は十分に有ると見ています。
確かに仮に土岐頼芸が武田勝頼の下に行っていなくても、信長ならば当然の如く上杉、甲州武田、上総武田、上総土岐、常陸土岐、北条などの連携や同盟は想定していたのかも知れませんが、少なくとも言える事はこの土岐頼芸の甲州への密使らしき移動こそが当時の動きをよく表している、と言う事のように思えます。
この同盟が仮に成立し織田勢への応戦体制が出来ていたなら、武田氏の滅亡は無かったかも知れませんが、それはならずに手遅れとなりました。