何故か長篠の戦いの合戦絵図等で殆んど描かれていない竹束の謎ですが、更に追跡してみたいと思います。
もう一度、竹束とは
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
竹束(たけたば)は、日本の盾の一種。竹把とも書く。竹を束ねて縄で縛ったもの。したがって、形状は円柱形になる。戦国時代から江戸時代にわたり使用された。
(中略)
戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。当時の火縄銃は、弾丸が大きいため破壊力は大きかったが、一方で弾丸が丸い形をしており、施条も無かったため、貫通力は弱かった。このため、火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、材料の調達が容易であったことから全国的に広まった。ただし比較的燃えやすいという欠点もある。
大きさは小型のもので長さ六尺(約180cm)・幅一尺(約30cm)、対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された。またそれらは兵が持って使用する他に、木の盾の前面に並べて立てかけるものや、それに車輪をつけて移動できるようにしたものがあった[1]。この他にも、九鬼水軍が囲船(かこいぶね)に大量の竹束で船壁や屋根を覆って、軍船の防弾を高めるのに利用した[2][3]。
防具ではあるが、陣営の守備用というより、攻城用武具として多く使用された。『別所長治記』には、神吉城を織田信忠軍が攻めた際、攻城戦に竹束を用いる戦術を知らなかった中国側の武将である別所長治がまたたく間に攻め寄せられてしまったと記されており、従来の籠城戦しか知らなかった武将相手には効果があったという記述がなされている。
他の使用方法として、攻め入りやすいように、通路状に竹束を配置し、これを「竹束道( - みち)」といった[4]。この使用法の場合、車輪付き大盾と比べ、攻め入るのに大量の竹束が必要となる上に、移動範囲も限定されるため、火攻めに会う危険性がある。
引用終了
と言う事で「火攻めに弱いケースも有る」と言う点については「青竹は燃えにくい」と以前の記事で書きました。
ただ青竹については「孟宗竹が未だ無かった16世紀や17世紀では真竹や破竹などで強度が十分な青竹なんてそう多くなかったかも知れない」と言う点と、もう一つ、青竹でも火攻めに遭った場合に問題となる事が有ります。
それは「竹はそのまま火で熱せられたり燃やされると中の空気が膨張して破裂する」と言う点です。
なので例え青竹であっても何の対策もしていなければ破裂(大した爆発ではないものの死傷事故につながるような危険なケースも有ります)する可能性も高いわけで、やはりそのままでは火攻めには使いにくいと思われます。
但し対策としておそらく当時でも考えられて実行されていたであろう事はと言うと「竹の各節々に小穴を開けて空気を逃がす」と言う事かと思われます。
小さな穴程度なら竹束の強度に殆ど影響はないわけで、こうした事も当時では軍事技術として重宝されたのではないか、と考えています。
では「ドリルなど無かった当時にどうやって小さな穴を開けたのか?」と言う点については当時でも「キリ」程度は有ったはずなのでそう困難は事ではなかったでしょう。ただ時間は結構かかったかも知れません。
いずれにしても長篠の戦いでは長篠城を攻めていた武田軍に対し、守備する奥平勢が大鉄砲も使って反撃していたと言う事実が有るのなら、武田軍はそれを想定して「対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された」とある通りで、大筒までとは行かなくてもかなり大き目の竹束を使って進撃しないといけなくなったとすれば、本来なら竹束は盾のように歩兵らを守るような使い方をしないといけないのが、武田軍が馬防柵で大き目の竹束をくぐらせる時には短時間であってもそれが出来ずに、竹束に守られなくなるわけで、その一瞬を織田・徳川勢が鉄砲や弓、槍などで狙い集中攻撃した、と言う状況だったように思えます。
もう一度、竹束とは
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
竹束(たけたば)は、日本の盾の一種。竹把とも書く。竹を束ねて縄で縛ったもの。したがって、形状は円柱形になる。戦国時代から江戸時代にわたり使用された。
(中略)
戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。当時の火縄銃は、弾丸が大きいため破壊力は大きかったが、一方で弾丸が丸い形をしており、施条も無かったため、貫通力は弱かった。このため、火縄銃の弾丸は竹束を貫通することができず、材料の調達が容易であったことから全国的に広まった。ただし比較的燃えやすいという欠点もある。
大きさは小型のもので長さ六尺(約180cm)・幅一尺(約30cm)、対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された。またそれらは兵が持って使用する他に、木の盾の前面に並べて立てかけるものや、それに車輪をつけて移動できるようにしたものがあった[1]。この他にも、九鬼水軍が囲船(かこいぶね)に大量の竹束で船壁や屋根を覆って、軍船の防弾を高めるのに利用した[2][3]。
防具ではあるが、陣営の守備用というより、攻城用武具として多く使用された。『別所長治記』には、神吉城を織田信忠軍が攻めた際、攻城戦に竹束を用いる戦術を知らなかった中国側の武将である別所長治がまたたく間に攻め寄せられてしまったと記されており、従来の籠城戦しか知らなかった武将相手には効果があったという記述がなされている。
他の使用方法として、攻め入りやすいように、通路状に竹束を配置し、これを「竹束道( - みち)」といった[4]。この使用法の場合、車輪付き大盾と比べ、攻め入るのに大量の竹束が必要となる上に、移動範囲も限定されるため、火攻めに会う危険性がある。
引用終了
と言う事で「火攻めに弱いケースも有る」と言う点については「青竹は燃えにくい」と以前の記事で書きました。
ただ青竹については「孟宗竹が未だ無かった16世紀や17世紀では真竹や破竹などで強度が十分な青竹なんてそう多くなかったかも知れない」と言う点と、もう一つ、青竹でも火攻めに遭った場合に問題となる事が有ります。
それは「竹はそのまま火で熱せられたり燃やされると中の空気が膨張して破裂する」と言う点です。
なので例え青竹であっても何の対策もしていなければ破裂(大した爆発ではないものの死傷事故につながるような危険なケースも有ります)する可能性も高いわけで、やはりそのままでは火攻めには使いにくいと思われます。
但し対策としておそらく当時でも考えられて実行されていたであろう事はと言うと「竹の各節々に小穴を開けて空気を逃がす」と言う事かと思われます。
小さな穴程度なら竹束の強度に殆ど影響はないわけで、こうした事も当時では軍事技術として重宝されたのではないか、と考えています。
では「ドリルなど無かった当時にどうやって小さな穴を開けたのか?」と言う点については当時でも「キリ」程度は有ったはずなのでそう困難は事ではなかったでしょう。ただ時間は結構かかったかも知れません。
いずれにしても長篠の戦いでは長篠城を攻めていた武田軍に対し、守備する奥平勢が大鉄砲も使って反撃していたと言う事実が有るのなら、武田軍はそれを想定して「対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された」とある通りで、大筒までとは行かなくてもかなり大き目の竹束を使って進撃しないといけなくなったとすれば、本来なら竹束は盾のように歩兵らを守るような使い方をしないといけないのが、武田軍が馬防柵で大き目の竹束をくぐらせる時には短時間であってもそれが出来ずに、竹束に守られなくなるわけで、その一瞬を織田・徳川勢が鉄砲や弓、槍などで狙い集中攻撃した、と言う状況だったように思えます。